第2話 綻びゆく地図、冬の足音
放課後の校舎というのは、どうしてこうも、昼間とは違う生き物のように静まり返るのだろうか。
俺は、担任に押し付けられたプリントの山を抱え、最上階の隅にある天文部室を目指していた。部員が一人もいなくなったという幽霊部室。そこに、ある少女が入り浸っているという噂を確かめるためだ。
引き戸を細く開けると、そこには冬の訪れを予感させる冷たい空気が溜まっていた。
「……あ、……きみ」
埃の舞う暗がりのなか、窓際で膝を抱えて座っていたのは、やはり彼女だった。
霜月つむぎ。
彼女の膝の上には、一枚の大きな画用紙が広げられている。
覗き込むと、そこには驚くほど緻密な、けれどどこか現実味のない「地図」が描き込まれていた。
「……手書きの、地図?」
俺の声に、彼女は琥珀色の瞳を揺らし、慌てて画用紙を隠そうとした。
けれど、その手が止まる。
ミルクティー色の髪がふわりと揺れ、うなじから首筋にかけての白磁のような肌が、薄暗い部屋の中で発光しているように見えた。
「……うん。……地図、なんだ。……誰かに見せるものじゃないけれど。……こうして書いていないと、自分がどこにいるのか、わからなくなっちゃうから」
彼女の指先は、細く、長い。
シャーペンを握りしめていた指の節が、白く浮き上がっている。
「……道に、迷いやすいのか?」
「……そう、かもしれない。……ううん。……たぶん、道じゃなくて、……場所。……自分が、ここにいていい場所が、どこにも書いてないから。……だから、自分で書くの」
冗談めかして言っているようには見えなかった。
彼女は真剣で、どこか切実で、そして――ひどく危うかった。
俺は苦笑して、抱えていたプリントを適当な机に置いた。
その拍子に、紙の端で指先を少しだけ切ってしまったらしい。
「いたっ……」
小さな、本当に些細な切り傷だ。
赤い血がぷつりと浮かんだ程度の、一晩寝れば忘れてしまうような怪我。
けれど。
「……あ。……血が。……血が出てる、よ」
霜月つむぎの顔色が一瞬で変わった。
彼女は弾かれたように立ち上がると、隅に置かれていた保健室のものと同じ救急箱を掴み、俺の目の前まで駆け寄ってきた。
「……待って。……すぐに、手当てしないと。……痛いよね。……痛かったよね」
「いや、これくらい大げさだよ」
そう言って手を引こうとしたが、彼女の力は意外なほど強かった。
彼女は俺の手首を掴み、自分の顔の近くまで引き寄せる。
「……だめ。……放っておいたら、バイ菌が入るかもしれない。……化膿して、大変なことに、なるかもしれない。……わたしが、気づいちゃったんだから、気づかないふりは、できないよ」
至近距離で彼女の吐息が指先にかかる。
清潔な石鹸の匂い。
そして、よく冷えた水のような清涼感のある香りが鼻先を掠める。
彼女の瞳は、一点の曇りもなく俺の指先の「傷」だけを見つめていた。
琥珀色の奥で、蜂蜜がとろりと溶けるように熱を帯びている。
彼女は、消毒液を含ませた綿棒を、まるで宝物に触れるような手つきで傷口に当てた。
「……くすぐったいって」
「……我慢して。……すぐ、終わるから」
彼女の長いまつげが、瞬きをするたびに震える。
伏せられた視線の影が頬に落ち、その横顔の美しさに、俺は言葉を失った。
指先に触れる彼女の指は、やはり氷のように冷たい。
けれど、その内側にある必死さが、皮膚を通じて俺に伝わってくる。
彼女は、小さな絆創膏を、シワひとつないように丁寧に貼り付けた。
その作業に費やされた時間は、明らかに「ただの切り傷」に対するそれを超えていた。
「……よし。……これで、大丈夫。……たぶん、大丈夫だと思う」
安堵の息を吐きながら、彼女は俺の手を離さない。
それどころか、俺の掌を両手で包み込むようにして、慈しむように見つめている。
俺の心拍が早くなるのが自分でもわかった。
保健室の主としての顔ではない、もっと生々しく、もっと湿り気を帯びた執着。
「……霜月さん、顔、近いってば」
俺が少しだけ声を荒げると、彼女は我に返ったように、びくりと肩を揺らした。
「……あ、……ごめん。……ごめんなさい。……わたし、また、変なことしたかな。……したかもしれない」
彼女は慌てて距離を取り、制服の袖口を指先までぐいと引っ張った。
萌え袖のなかで、彼女の細い指がガタガタと、震えているのが見えた。
その震えは、寒さのせいではない。
まるで、自分の「役割」が終わってしまったことに、恐怖しているかのような震え。
「……霜月さんさ」
俺は、ずっと気になっていたことを口にしてみることにした。
「いつも誰かの体調ばっかり気にしてるけど、自分はどうなんだよ?」
「……え?」
「霜月さんは、元気なの?」
その問いが、彼女の脳内にあったはずの何かを、真っ白に塗り潰したようだった。
「……わたしが、……元気?」
彼女は、生まれて初めて聞く外国語の単語でも耳にしたかのような顔をした。
琥珀色の瞳が大きく見開かれ、そして、泳ぐ。
「……わ、わたし、は……。……元気、……だと思う。……思わないと、いけないから。……だって、わたしが元気じゃないと、誰かの、……誰かのお世話、できないから」
彼女の言葉は、まるで壊れた機械のように同じところをぐるぐると回り始めた。
「……誰かの役に立っていないと、わたし……。……ここにいても、いい理由が、なくなっちゃう。……そしたら、また、……いなくなっちゃうかもしれない。……だから、元気。……わたしは、ずっと元気じゃないと、……いけないの」
「落ち着けよ。そんな必死に言わなくても……」
俺が肩に手を置こうとした瞬間、彼女はひどく怯えたような顔をして、一歩後ずさった。
「……だめ。……触らないで。……今、ひんやりしてるから。……きみを、冷たくしちゃうから」
彼女はそう言い残すと、救急箱を抱えたまま、逃げるように天文部室から飛び出していった。
床には、彼女が描いていた地図が取り残されていた。
そこには、学校の校舎や、通学路、そして彼女の家らしき場所が細かく描き込まれている。
けれど、その地図の真ん中――。
彼女が座っているはずの「現在地」には、ぽっかりと、何も描かれていない空白の円が空いていた。
窓の外では、いつの間にか太陽が沈み、凍えるような夜の気配が忍び寄っていた。
翌日、霜月つむぎは学校に来なかった。
彼女が守り続けていた「保健室の鍵」は、誰もいない保健室の机の上に、一粒のべっこう飴と一緒に置かれていたという。
冬が、本格的にやってこようとしていた。




