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第1話 琥珀色の微睡みと、甘い報酬



 鼻孔をくすぐる、消毒液と石鹸が混ざり合ったような、清潔でどこか他人行儀な匂い。

 意識の底から這い上がってきた俺が、まず最初に感じたのはそれだった。

 

 重い目蓋を無理やりこじ開けると、視界の半分が白く塗り潰されている。

 保健室の、仕切りカーテン。

 放課後の気配を孕んだ西日が、薄い布を透かして、埃たちがダンスを踊るのをドラマチックに照らし出している。

 

 「……あ。起きた、んだね。……起きたんだね、よかった」

 

 鼓膜を揺らしたのは、羽毛が擦れ合うような、ひらがなばかりで構成されているような柔らかい声。

 

 ゆっくりと首を巡らせると、そこに彼女がいた。

 霜月つむぎ。

 同じクラスの保健委員で、この静寂の聖域の主。

 

 彼女は窓際の丸椅子に腰掛け、膝の上に古びた画帳のようなものを広げていた。

 ミルクティー色のセミロングが、傾いた日差しを受けて金糸のように輝いている。

 彼女が少しだけ首を傾げると、耳にかけた方の髪がさらりと滑り落ち、透けるように白い、細い、本当に折れてしまいそうなうなじが露わになった。

 

 「……よく眠ってたから。起こしちゃ悪いかなって、思って。……思ったから、そのままにしておいたの」

 

 俺が何か答えようとすると、喉が張り付いて変な音が出た。

 情けない。

 昼休みのバスケで派手に転倒し、頭を打ってここに運ばれたはずだ。

 

 「……あ、りがとう」

 

 ようやく絞り出した声に、彼女は少しだけきょとんとして、それから、ふわりと花が開くように微笑んだ。

 琥珀色の瞳が、日差しの角度で蜂蜜を溶かしたように明るく、甘く濁る。

 

 「……ううん。お礼なんて、いいよ。わたしが、ここにいたかっただけだから。……いたかっただけ。きみがここで眠ってくれると、この部屋がちゃんと、『保健室』になる気がするから」

 

 彼女は静かに立ち上がり、こちらへ歩み寄ってくる。

 制服の袖口を、指先が隠れるまで長く引っ張る独特の癖。

 その萌え袖から覗く親指が、どこか幼く、そして艶かしい。

 

 ベッドの横に立った彼女が、ゆっくりと腰を屈めた。

 

 近い。

 

 伏せられた長いまつげが、彼女の頬に繊細な影を落としている。

 透けるような肌の奥、手首のあたりにうっすらと青い血管が見えた。

 触れたら壊れるほど冷たそうなのに、彼女が吐き出す息は、驚くほど熱を帯びて俺の頬を掠めていく。

 

 「……まだ、少し頭がぼんやりする? ……するよね。血管が、びっくりしてる。ドクドクって、いってるよ」

 

 彼女は自分の手首に指を当てながら、俺の心拍をトレースするように呟く。

 その光景が、なんだかひどく官能的な儀式に見えて、俺は無意識に唾を飲み込んだ。

 

 「……あの、霜月さん」

 「……ん?」

 「顔、近いっていうか……」

 「……あ、……ごめんね。わたし、すぐ人の顔色、見ちゃうから。……でも、いい色。少し赤くなって、生きてる感じがする」

 

 彼女は恥ずかしそうに身を引き、スカートのポケットをまさぐった。

 チャリン、と金属の音が響く。

 養護教諭から預かっているという、保健室の鍵の音だ。

 

 「……はい。これ、あげる。たぶん今は、甘いのがいいと思う。……いいと思うから」

 

 差し出された彼女の掌の上。

 そこには、小さなべっこう飴がひとつ。

 

 俺はそれを受け取ろうとして、彼女の指先に、一瞬だけ触れた。

 

 ――冷たい。

 

 秋の終わりのような、凛とした、それでいてどこか拒絶を感じさせるような温度。

 なのに、手渡された飴は、彼女のポケットの中で温められていたのか、ぬるい体温を纏っていた。

 

 「……どうして、俺が甘いもの欲しかったってわかったんだ?」

 

 彼女は首を少し傾け、琥珀色の瞳を細めて笑った。

 

 「……なんとなく。きみの身体が、そう言ってた気がしたから。……気がしただけだよ」

 

 俺は飴の包みを剥き、口に放り込む。

 暴力的なまでの甘さと、微かな柑橘の香りが、疲弊した脳に直接染み渡っていく。

 不思議だ。

 今、この瞬間に世界で一番必要なのは、この味だったと確信できる。

 

 「……美味い」

 

 俺がそう言うと、彼女は心底安心したように、深く、重い息を吐いた。

 その表情は、まるで命の危機を脱した患者を見届ける医師のようで、あるいは、主人に必要とされて安堵する従僕のようでもあった。

 

 その日の放課後。

 すっかり回復した俺は、教室へ忘れ物を取りに戻った。

 廊下の向こうから、女子生徒たちの笑い声が聞こえてくる。

 その中心にいたのは、霜月つむぎだった。

 

 「霜月さん、また保健室? 本当、委員会の仕事好きだよねー」

 「……うん。お仕事、だから」

 

 彼女の声は、保健室で聞いたあの羽毛のような柔らかさを失っていた。

 平坦で、温度がなく、どこか遠くを見つめるような冷ややかな響き。

 クラスメイトたちが冗談を飛ばしても、彼女は「……そうかもしれないね」と繰り返すだけで、心の壁は一ミリも動かさない。

 

 さっきの、あの、蜂蜜のような瞳。

 俺の心拍に合わせて震えていた、あの指先。

 

 あれは、あの部屋の中だけの、限定的な「霜月つむぎ」なのだろうか。

 

 彼女がこちらに気づき、一瞬だけ視線が交差する。

 彼女は、挨拶もしなかった。

 ただ、スカートのポケットに手を入れ、鍵の感触を確かめるように、きゅっと拳を握った。

 

 その瞬間、俺は見てしまった。

 

 彼女の指先が、目に見えてガタガタと震えているのを。

 

 まるで、誰かに必要とされる瞬間が終わってしまったことに、凍えているかのように。

 

 俺の口の中では、彼女がくれた飴が、まだ形を残して溶け続けていた。

 


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