第8話 用意されるもの
昼過ぎ。
配膳室の隅で、ララは木皿を返した。
小さな手に残る、木のざらつき。
固いパンは、噛むほどに粉っぽい。
薄く濁った湯は、最後まで味がしなかった。
周囲では、誰も何も言わない。
食べ終えた順に、皿を置き、立ち去るだけだ。
背の低いララが立ち上がっても、
誰一人、視線を向ける者はいなかった。
(……これで、終わり?)
叱責もない。
指示もない。
ただ、次の時間が来たから動くだけ。
その流れの外に、ララだけが取り残されていた。
小さく息を吸い、吐く。
胸の奥が、落ち着かない。
◇◇◇
部屋に戻ると、机の上に紙が一枚置かれていた。
見覚えのない筆跡。
飾り気のない、短い文字。
『朝晩の風呂には、必ず来るように』
それだけ。
署名も、説明もない。
(……お風呂? 今さら?)
見放されたのだと思っていた。
数にも入らない存在になったのだと。
なのに。
小さく眉を寄せる。
(……なんで)
問いは、胸の中で止まる。
答えをくれる人はいない。
◇◇◇
その頃。
厚い扉に守られた、別の区画。
聖女の私室では、灯りが落とされ、
壁際の鏡だけが淡く光っていた。
「来なかった娘だろう?」
王太子の声は低く、感情が薄い。
「体調不良と報告があったな。……今は懲罰を受けているはずだが?」
鏡の前に立つ聖女は、肩口の素肌をわずかに覗かせ、
くつりと笑った。
「罰は可哀想よ」
鏡越しに視線を投げる。
慈悲にも聞こえる声音。
だが次の瞬間、聖女は楽しげに続ける。
「だから呼んであげましょ。私たちで可愛がって、女神サマのために“使って”あげた方がいいわ」
顎で、奥の祭壇の部屋を示す。
王太子は一度だけ視線をやり、頷いた。
「……女神の思し召しであるなら、その娘――ララ、だったな。呼ばせよう」
その言葉に、聖女の笑みが深くなる。
「素直な男は好きよ。アナタ、顔も、身体もいいし」
「ふん。君は男だけじゃあるまい。女も好きだろうに」
「アハハ。だって聖女だもの。愛しあいたくて、仕方ないの」
一拍置き、目を細める。
「……ララが来るの、楽しみ」
「呑気なものだ。……結界は?」
「ああ、完璧。女神サマがやってくれたから。北宮の中のことは、外には漏れないわ」
「……なら、いい」
聖女はくすりと笑い、
王太子の隣に腰を下ろす。
指先が、彼の腕に軽く触れた。
部屋の灯りが、消えた。
◇◇◇
夜。
北宮の外門に、一人の女性が立っていた。
地味な外套。
控えめな化粧。
眼鏡の奥の視線は、穏やかだ。
「こんばんは。お疲れさまです」
声をかけられ、門番が面倒そうに顔を上げる。
「北宮は立ち入り禁止だが?」
「婚約者に、本を渡しにきたのですが?」
門番は一瞬、眉をひそめ――
次の瞬間、言葉を失った。
「……婚約者? ……え? あ、あなた様は……!」
名を名乗る必要はなかった。
眼鏡。
地味な装い。
それでも消えない、身分と気配。
門番は慌てて姿勢を正す。
「し、失礼いたしました!」
女性は、小さく首を傾ける。
「急ぎません。お仕事の邪魔にならなければ、それで」
門の向こうで、重い錠が外される音。
北宮の内側へ――
歯車は、すでに回り始めていた。




