第7話 名を呼ばれない朝
朝。
鐘がひとつ鳴り、ララは目を覚ました。
体は重い。
けれど、頭は妙に冴えている。
(……生きてる)
まず、それを確認してから、上体を起こした。
昨夜の記憶が、断片的によみがえる。
熱。
声。
汗。
扉の向こうの気配。
鼻を動かすと、部屋にはまだ、うっすらと残り香のようなものが漂っていた。
(……やっぱり、夢じゃない)
着替えを済ませ、廊下に出る。
北宮の朝は、規則正しい。
廊下を行き交う者たち。
水桶の音。
布の擦れる音。
――なのに。
誰も、ララを見なかった。
正確には、見ているのに、見ていない。
「あ……おはよう、ございます」
小さく声を出してみる。
返事はない。
「……」
少し間を置いて、もう一度。
「おはよう、ございます……」
すぐ横を通り過ぎた相手は、
視線を動かすこともなく、先へ行った。
「おはよう、マリア」
「はい、こちらは済みました」
別の場所では、名前が呼ばれ、返事が返る。
ララの横を、同僚たちがすり抜けていく。
肩が、かすかに触れた。
「……」
謝罪はない。
目も、合わない。
(……なんで?)
歩調を合わせてみる。
一人として、ララの隣に並ばない。
仕事の指示が飛び交う中で、
ララの名前だけが、ぽっかりと抜け落ちていた。
配膳室の前で、足が止まる。
いつもなら、ここで名前を呼ばれる。
「ララ、これを運んで」
「ララ、次はこちら」
今日は、違った。
(……呼ばれない)
しばらくして、無言で差し出されたのは、
小さな木皿ひとつ。
固く乾いたパン。
薄く濁った湯。
それだけ。
説明はない。
問いかけようとして、口を開き――
そのまま、閉じた。
(……これが、今日の分)
小さな体で持つにも軽すぎる皿が、
ひどく重く感じられた。
胸の奥が、じわりと冷える。
視線を落とす。
指先が、わずかに震えているのが分かった。
◇◇◇
午前の雑務が終わる頃。
廊下の向こうから、足音が近づいてきた。
――侍女長イザベル。
背筋は真っ直ぐ。
年齢を感じさせない所作と、隙のない立ち姿。
ララの前で、ぴたりと足を止める。
上から下へ。
値踏みするような視線。
そして、鼻先をわずかに押さえた。
「……ふん」
低く、短い音。
「何をしていたのかしらね」
問いかけの形をしているが、
答えを求めていない声だった。
ララは、反射的に口を開き――
けれど、言葉が出ない。
「不潔な娘だこと」
淡々とした口調。
嫌悪だけが、正確に含まれている。
「王宮に来た自覚が、まだ足りないようね」
一拍。
イザベルは、半歩だけ距離を取った。
「そのまま動かないで」
鼻を押さえたまま、言い捨てる。
「……匂いが移るわ」
周囲の者たちは、
視線を伏せたまま、何も言わない。
誰も、ララを見ない。
「食事は出ているでしょう?」
独り言のように続ける。
「あれで十分よ。あなたには」
一瞬だけ、口元が歪む。
「家畜みたいな匂いをさせていたのだから」
それ以上、視線を向けることもなく、
イザベルは踵を返した。
ララは、その場に立ち尽くす。
反論も、謝罪も、
最初から許されていない空気だった。
◇◇◇
巨大な望遠鏡が、静かに宙を向いていた。
中空には、無数の光の板が浮かび、
星図とも魔法陣ともつかない紋様が、ゆっくりと回転している。
その中心に立つのは、
ココアベージュの髪の若い女性、メイリーン。
化粧っ気のない、整った顔立ち。
穏やかな目元と、品のある佇まい。
指先を、ほんのわずか動かした。
「……すごいわね」
感嘆とも、呟きともつかない声。
「北宮の障壁が、あんなに歪むなんて」
背後から、足音。
金髪をローシニヨンにまとめたセシリアが報告書を抱えて近づいてくる。
年上らしい落ち着きと、隠しきれない艶。
「数値、確定しました」
差し出された紙に、ざっと目を走らせる。
「観測誤差ではありませんでした。
あの時間帯、北宮の内側から、桁違いの魔力が噴き上がっています」
「たしかに、そうだったわ」
視線を、望遠鏡の向こうへ向けたまま。
「……お陰で、ひさびさに話ができた」
セシリアが、わずかに微笑む。
「やっぱり、あの子でしたのね」
「ええ」
メイリーンは、視線を望遠鏡に向けたまま答えた。
「わたくしが感知したのは、意図的に使われた力ではなかった」
おっとりとした声。
「呼ばれたわけでも、助けを求められたわけでもないけれど」
それでも。
メイリーンの指先が、かすかに力を込める。
「……暴走は、放っておけないもの」
光の板に、北宮の外壁が映る。
その奥、ひとつの小さな反応点。
「……聖女は?」
今度は、セシリアが尋ねた。
「気づいたでしょう」
椅子から立ち上がり、メイリーンは軽く息を整える。
「化粧の用意を。王宮用の、地味な方で」
セシリアは、心得たように頷く。
「かしこまりましたわ」
メイリーンは周囲を見回す。
机の上。
光の板の影。
椅子の背。
「……あら」
差し出された伊達眼鏡を受け取り、静かにかける。
「……ありがとう」
眼鏡をかけた瞬間、
雰囲気が、すっと地味になる。
観測室には、再び静寂が戻った。




