第6話 眠れない夜は、長い
夜。
北宮の灯りは、すでに落とされている。
消灯の合図は鐘ひとつ。
それ以降、廊下を歩く音は減り、声は消える。
けれど――
静かになるほど、ララの耳は冴えていった。
寝台に横になり、天井を見つめる。
(……眠れるわけ、ない)
布団は重い。
体は疲れている。
それでも、眠ってしまうのが怖かった。
目を閉じるたび、足音が浮かぶ。
廊下を歩く気配。
扉の前で、空気が変わる感じ。
(……来る?)
心臓が跳ねる。
来ない。
けれど、「来ない保証」もない。
昨日も、今日も、
誰かが「調整」された。
名を呼ばれなかった、あの侍女。
(……次は、私?)
喉が乾く。
唾を飲み込む音すら、うるさく感じる。
布団から、そっと上半身を起こした。
窓の外。
月明かりに浮かぶ、石造りの建物。
禁図書館。
昼間は遠く見えるのに、
夜になると、妙に近い。
(……あそこなら)
思考が、勝手に進む。
王太子は来ない。
侍女長も、来ない。
北宮の規則も、届かない。
(……安全、なの?)
母の声が、脳裏によみがえった。
「王宮は安全よ」
「北宮なら、特に」
「あなたは、運がいいの」
――嘘。
(どこが、安全なのよ)
歯を食いしばる。
(お母さまの、バカ)
思い出す。
甘ったるい香。
触れられた肩。
口を閉ざした、あの侍女の顔。
(……気持ち悪い)
感情が、堰を切った。
怒りと恐怖が混ざり合い、
胸の奥で、熱を持つ。
(許せない……!)
刹那、
ぎし、と音がした。
窓枠が、わずかに軋む。
「……え?」
扉が、がた、と揺れた。
ララは立ち上がる。
「な、なに……?」
呼吸が荒くなる。
胸の奥の熱が、広がっていく。
抑えようとしても、止まらない。
(……なに、急に?)
(誰かに……? 違う)
胸の奥の熱が、言うことを聞かない。
外から来たものじゃない。
(……私の、内側……?)
心臓が早鐘を打ち、
血液が沸騰するような感覚。
「やだ……やだやだやだ……!」
思わず、声が漏れた。
次の瞬間。
――空気が、変わった。
冷たいのに、やさしい。
張り詰めていた何かが、
ふっと包み込まれる。
『今は、鎮めなさい』
声。
耳ではない。
頭の奥に、直接響く。
『だいじょうぶ』
ぴたり、と。
軋んでいた窓が静まり、
扉の揺れが止まる。
ララは、その場にへたり込んだ。
「……だ、誰……?」
返事はない。
ただ、あたたかさだけが残る。
(……今の、なに)
心臓の音が、少しずつ落ち着く。
気づくと、全身が汗で濡れていた。
額から。
背中から。
指先から。
服が、肌に張りつく。
鼻を突く、妙な匂い。
甘くもなく、汚れた匂いでもない。
けれど、生々しい。
(……なに、これ)
手が震える。
立ち上がろうとして、よろめいた。
視界が歪む。
力が、抜ける。
(あ……眠い……)
そのまま、寝台に倒れ込む。
意識が、すとんと落ちた。
◇◇◇
数刻後。
廊下に、慌ただしい足音が響く。
扉が叩かれた。
最初は、規則正しく。
やがて、乱暴に。
「ララ!」
「ララ・シルヴェリス!」
外から、苛立ち混じりの声。
「王太子殿下と聖女様がお呼びよ!」
「名誉あるお勤めです!」
返事はない。
「……どういうこと!?」
扉の向こうで、舌打ち。
「今夜の殿下は乙女をご所望なのに!」
怒りに震える声。
侍女長イザベル。
腰の鍵束が、じゃらりと鳴る。
一つを選び、鍵を挿した。
回す。
扉が、開いた。
――その瞬間。
「……っ!」
イザベルは、思わず後ずさった。
鼻を押さえる。
「なに……この匂い……!」
部屋の中に立ち込める、強い臭気。
汗。
魔力の残滓。
人の体から一気に吐き出された、異様な気配。
寝台の上で、
ララは深く眠っている。
額も、首筋も、髪も、汗で濡れていた。
「……まさか」
一歩、踏み出そうとして――
ぐらり、と視界が揺れる。
「……っ」
めまい。
足元が、ふらつく。
イザベルは、舌打ちした。
「近づけない……」
再び鼻を押さえ、
扉の外へ下がる。
「……殿下と、聖女様になんて言えば……」
歯を噛みしめる。
そして、寝台の少女を睨みつけた。
「……覚えてなさいよ」
扉が、乱暴に閉められた。
◇◇◇
静かになった部屋。
ララは、眠っている。
深く、深く。
夢の底で、
かすかな気配を感じながら。
遠く。
鐘の音が、ひとつ。
それはもう、
無視できる音ではなかった。




