第16話 命令と準備
北宮、聖女の居室。
分厚い扉の前で、侍女長イザベルは一度だけ呼吸を整えた。
中から、楽しげな笑い声が漏れている。
「……失礼いたします」
扉を開けると、王太子ミサラサは上機嫌で椅子に腰掛けていた。
その腕に絡みつくように、聖女エリカが身を預けている。
脇をすり抜けるように、若い侍女が部屋を出ていった。
目を伏せ、指先がわずかに震えている。
イザベルは、その背を一瞬だけ見送り、視線を戻した。
「禁図書館からの返信でございます」
淡々と告げ、書状を差し出す。
「ララ・シルヴェリスは、北宮に復職するとのことです」
ミサラサの口元が歪んだ。
「そうか。俺の命令書が効いたな」
「アタシの署名も入ってたもの。当然よ」
エリカが愉快そうに笑う。
「女神サマもね、『美味しそう』って言ってたわ。久しぶりだもの」
イザベルは、書類を持つ指に静かに力を込めた。
頭の中で、次の手順を組み替える。
――報告は、まだ終わっていない。
「……ただし」
空気が、わずかに変わる。
「ララは北宮には戻りますが……今後、我々の管理下には置かれません」
ミサラサの眉が跳ね上がった。
「どういう意味だ」
「殿下がお出しになった命令書の文面でございます」
イザベルは、視線を下げたまま続ける。
「『王妃殿下の侍女を連れ出すことは許されぬ。速やかに王妃殿下の元へ、侍女ララ・シルヴェリスを戻すように』――その通りに、解釈されたとのことです」
「な……」
ミサラサが声を荒げる。
「北宮の侍女は、お前の管轄だろう。言葉の綾だ、そんなもの!」
「禁図書館は、殿下と聖女の命令書を“絶対”と受け取ったようです」
イザベルは、感情を交えずに告げた。
「現在は、王妃殿下付き侍女として相応しい者に仕立てるため、訓練中だと」
エリカが腕を組む。
「……ちょっと。ミサラサ? どうして、そんな書き方したのよ」
「仕方なかっただろう。俺は謹慎中だ。母上の名を使わねば文書は通らん」
「まあ、いいわ」
すぐに興味を失ったように笑う。
「北宮に戻りさえすれば、あとはどうとでもなるもの。少し遊んで、それから――」
その先を、イザベルは聞かなかった。
深く一礼し、静かに部屋を辞する。
背後で弾んでいた笑い声は、扉の向こうへ遠ざかっていった。
◇◇◇
禁図書館。
長い回廊を進む、ふたつの影。
「わたくしたちの突入が遅れれば遅れるほど、侍女の生存率は下がるわ」
メイリーンが歩みを止めずに言う。
「新規の採用は外から止めている。でも――すでに中にいる者たちが、今どうなっているかは分からない」
「……私、急がないとですね」
声は小さかった。
メイリーンは、歩調を変えないまま、わずかに首を振る。
「いいえ」
「……え?」
「……あなたが、きっかけを作ってくれたのよ」
一瞬、ララは言葉に詰まった。
「北宮に入った侍女で、声を上げた人はいなかったから」
声色は変わらない。
それでも、言葉ははっきりと届いた。
「ほら、北宮って……希望者が列をなして入るところでしょう?」
歩きながら、指先を軽く振った。
書棚が静かに軋み、通路が開いていく。
「あなたが、初めてだったの。“嫌だ”って、はっきり示したのは」
足が、わずかに止まる。
「それがなければ……わたくしも、動きようがなかった」
少しだけ間を置いて。
「だから、自信を持ちなさい」
振り返らず、前を示した。
「……さあ、ここよ」
重厚な書棚の前で、先導していた足が止まる。
ララは喉を鳴らし、それでも一歩、前に出た。
ここから先は、
まだ、何も知らない場所だ。
両手で、複雑な印が結ばれる。
低い音とともに、
本棚が、ゆっくりと割れた。
埃は舞わず、
その奥に、道が現れる。
一歩、踏み出すと――
星々が瞬き、
間近に月が浮かんでいた。
「はぐれないでね」
前を歩くメイリーンが、振り返らずに言う。
「落ちたら、戻ってこられないから」
「……ど、どこへ行くのですか」
問いかけに、
歩みを止め、振り返った。
「……原初の禁術を授かるの」
微笑みながら、手を差し伸べる。
「ララ。おいで」
その背後で、
燃える星は、逃げ場を塞ぐように、ゆっくりと近づいていた。




