第1話 辺境で、小さな夢を見る
極上のお菓子を食べて、
知らない本を読む。
それは、誰にも迷惑をかけない夢のはずだった。
けれど――
その夢を叶えるために王都へ向かった少女が、
二度と辺境へ戻らなかった者の一人になることを、
この朝のララ・シルヴェリスは、まだ知らない。
◇◇◇
葡萄のドライフルーツを、ひとつ摘まむ。
甘い。
でも――
「……違うのも、食べたいかも」
小さく呟いて、ララは口を閉じた。
それ以上言えば、わがままになると分かっている。
辺境伯シルヴェリス家の朝は、いつも早い。
風の音と、木造の館が軋む音だけが、時間を知らせてくれる。
食卓には、椅子が余っていた。
長女も、次女も、三女も、すでに嫁いだ。
父と兄は、魔物との戦のため砦に詰めたままだ。
残っている娘は、四女のララだけ。
窓際に腰掛け、膝の上に本を置く。
十五歳を前にした少女は小柄で、肩もまだ細い。
けれど、文字を追う目だけは、迷わなかった。
最後の頁を閉じて、ララは息を吐く。
――もう、覚えちゃった。
この辺境で手に入る物語は、限られている。
読み返すたび、結末までの道筋が先に浮かぶ。
つまらないわけじゃない。
ただ、続きを知らないという驚きが、もうない。
ララは本を胸に抱え、窓の外を見た。
果ての見えない草原。その向こうには、国境と戦と、異国がある。
「……王都には」
思わず、声が零れた。
◇◇◇
幼い頃、王都から来た少女がいた。
少し年上の、短いあいだだけ滞在していた人。
「王都にはね、ララ。見たこともないお菓子があるの」
「それに、本も。外の世界の本が、山ほどある」
最後に、そう言って笑った。
「いつか、禁図書館においで」
「物語が、尽きることなく眠ってる場所よ」
禁図書館。
その名前は、夢だった。
――行けるはずがない。
王都は遠く、禁図書館は誰にでも許される場所ではない。
それくらいのことは、もう分かっている。
扉の外で、足音が止まった。
「ララ」
母の声だ。
「はい」
入ってきた母は、いつも通り隙がなかった。
感情を表に出さず、決断だけを口にする人。
「王都へ行きなさい。侍女の修行です」
胸の奥が、わずかに揺れる。
「北宮に知り合いがいます。王妃殿下付きの侍女長よ」
「王都は、辺境より安全です。王宮侍女の経歴は、あなたを守る」
安全。
保証。
どちらも、母なりの優しさなのだろう。
「修行を終えれば、縁談の話も進めやすい」
ララは、母を見上げた。
「……私の希望は、聞いてもらえませんか?」
一瞬だけ、母の視線が揺れる。
「違います。あなたのためです」
少し迷ってから、ララは口を開いた。
「王都には……本が、たくさんあるんですよね」
母の眉が、僅かに動いた。
「禁図書館の話も、聞いたことがあります」
空気が、変わる。
「……近づいてはいけません」
即答だった。
「どうして? 本を読みたいだけなのに」
「女の子が行く場所じゃないからよ」
場所ではなく、生き方を否定された気がした。
「禁図書館に関わる女たちは、独りで生きる者が多い」
「それは、女にとって幸せじゃない」
ララは、黙った。
「王都へは行かせます」
「ただし、禁図書館と公爵家への接触は禁止です」
ララは立ち上がった。
「……勝手に決めるのに、夢だけは許さないんですね」
母は答えなかった。
◇◇◇
夜。
荷をまとめながら、ララは古い本を一冊、袋に入れた。
乾いた菓子も、ほんの少し。
窓の外には、変わらない星空。
(私も、あの場所に……)
声には出さない。
それは、禁じられた夢だった。
◇◇◇
翌朝、馬車が動き出す。
辺境伯邸が、ゆっくり遠ざかる。
ララは、前を向いた。
まだ知らない。
その夢を「持ったまま生きること」が、
王宮では許されないということを。
――そして。
禁じられた場所ほど、人は足を向けてしまうということを。




