結衣の涙
午后四時。
雨が降り出した。
薄暗いスタジオの窓に、
水滴が静かに滑り落ちていく。
佐久間結衣は、
メイクルームの隅でタオルを握りしめていた。
鏡の向こう、
天沢灯は黙ってスマホを見つめている。
無数の通知。
——#天沢灯_演技派
——#アイドルの裏顔
——#Akari17_Frame
コメント欄は地獄のようだった。
誰もが彼女を責め、
誰もが“真実”を知っているふりをしていた。
「……ねぇ、もう消した方がいいんじゃない?」
結衣が声をかける。
灯は笑顔を作ろうとしたが、
その頬は強ばっていた。
「消しても、また誰かが載せるよ。」
「それでも……見ない方がいい。」
「うん……見ないようにしてる。
でもね、結衣ちゃん。」
「なに?」
「“見ない”って、
もう“存在しない”ってことなんだよね。」
彼女の指が震えている。
結衣は言葉を失った。
その瞬間、ドアがノックされる。
「灯ちゃん、次リハ入りまーす!」
スタッフの声。
灯は深呼吸をして、立ち上がった。
「行かなきゃ。」
「無理しないで。」
「大丈夫。
ステージに立てば、笑えるから。」
(——それが、一番怖い言葉だった。)
***
リハーサルが始まった。
照明が点灯し、音楽が流れる。
だが、スタッフの間ではひそひそと噂が交わされていた。
「昨日の炎上、マジでやばくね?」
「桐谷さん、あえて止めなかったって話。」
「璃音ちゃん、センター交代の準備してるらしいよ。」
結衣はヘッドセットを外し、
音のない世界で灯を見つめた。
彼女は振り付けを間違えなかった。
歌詞も忘れなかった。
——ただ、どこにも“心”がなかった。
終わった後、
スタッフの拍手が響く。
「完璧です!」
「本番もその調子で!」
灯は軽く頭を下げた。
その姿が美しくて、
結衣の胸が痛んだ。
(ねえ、灯ちゃん。
あなた、いつからそんなに壊れそうだったの?)
***
夜。
控室に二人きり。
外では雷が鳴っていた。
灯はタオルで髪を拭きながら、
小さく呟いた。
「ねぇ、結衣ちゃん。」
「なに?」
「人ってね、ほんとに“信じたい人”しか信じられないんだって。」
「……誰のこと?」
「ふふ、内緒。」
そう言って笑う彼女の目は、
どこか遠くを見ていた。
「でもね、もし私がいなくなっても、
誰かが真実を見つけてくれる気がするの。」
「そんなこと言わないで。」
「大丈夫。
結衣ちゃんがいるから。」
結衣は思わず、灯の手を握った。
その手は冷たかった。
「……泣いてるの?」
「泣いてないよ。」
嘘だった。
頬を伝う涙が、手の甲に落ちた。
灯は優しく微笑んだ。
「ありがとう。
こうして誰かの手を握るの、久しぶり。」
雷鳴がまた響く。
光が一瞬だけ室内を照らし、
二人の影が重なった。
その光の中で、
結衣は確かに見た。
——灯の腕に、
細い傷跡のような赤い線がいくつも走っていたことを。
「……それ、どうしたの?」
「ん? ああ、猫にひっかかれたの。」
彼女はそう言って、
いつもの笑顔を作った。
けれど、結衣は知っていた。
この笑顔は、もう“作られたもの”じゃない。
——“残されたもの”だ。
灯が去ったあと、
鏡の前に一枚の写真が残っていた。
カフェ《Refrain》の夜、
彼女と久城蓮が微笑み合う姿。
裏には、走り書きでこう書かれていた。
「光が消えても、
レンズは覚えてる。」
結衣の目から、
また静かに涙が落ちた。




