出戻り勝気令嬢は三人目の夫に愛を叫ばれている
スラン伯爵家の長女であるアナベルは幼い頃より勉強ができた。
アナベルは自国の歴史や地理が好きだったし、算術も得意だった。他国の文化にも興味があり、いくつかの言葉も日常会話程度なら喋ることができた。
いわゆる才女だったのである。
だが女であった。
残念ながらアナベルの生まれた国は女の社会的な地位は父親や夫によって保証されるというような国だった。
封建的で古臭い国だったのだ。
そしてアナベルは才女ではあったが天才というほどではなく、女でありながらも身一つで働けるほどの才はなかった。
生まれは伯爵家だったので身分は申し分なかった。母親は幼い頃に亡くなってしまっていたが、父親であるスラン伯爵はこの国の貴族にしては柔軟な頭の持ち主で、これはアナベルにとって幸運だった。
スラン伯爵はアナベルの勉学への熱心さを褒め、優れた家庭教師も付けてくれた。そしてアナベルが十八才の時、アナベルよりも八才年上の穏やかな男を結婚相手に選んでもくれた。
スラン伯爵は娘の優秀さを認めてはいたが、この国で女が幸せになるのは身分の釣り合った経済力のある男と結婚するのが一番だったからである。
「アナベル、夫をたてるようにするんだよ」
結婚式当日、スラン伯爵はそう言って娘を送り出した。
「いつもの出しゃばりは控えるんだよ。嫌がられることもあるからね」
伯爵は心配そうにこうも付け加えた。
アナベルはかなり勝気ですぐに口を出す娘だったからだ。淑やかで控えめな女性が好まれるこの国では煙たがられるかもしれないとスラン伯爵は心配したのだった。
この心配は当たることになる。
当初こそ、年下の美しい妻に夢中になり優しくしてくれた夫は一年もするといろいろと口を出してくるアナベルを厭うようになり、三年もすると愛人を作った。
こういう場合、この国のほとんどの夫人であれば見て見ぬふり振りをして己の安定した生活を守るところだ。
だが、アナベルは黙っていなかった。
アナベルは夫の浮気をゴシップ紙に寄稿してインタビューも受けてやったのだ。
貴族の愛人は黙認はされるが堂々とするものではない。加えて妻を管理することは夫の務めだとされていたので、アナベルの夫はそれなりの批判にさらされた。
結局、アナベルの実家と夫の家で話し合いが持たれ、夫の家より形ばかりの慰謝料が払われてアナベルは夫と離婚した。
「別れてせいせいしたわ」
三年ぶりの実家に戻ったアナベルは言う。
アナベルは白い陶器のような肌に艷やかで燃えるような赤毛、淡い緑色の瞳を持つ。背丈は女性にしては高いほうで、体つきは成熟した女のそれである。
赤い髪はいつもきっちりとまとめられていて、つり目の瞳は少し冷めた様子だが、その奥はいつも油断なく光っている。眉はきれいな弓なりで、薄い唇は硬く結ばれていることが多い。
美人ではあるが、かなりきつい見た目であった。
その日の彼女にはしかし、いつもの覇気はなかった。
アナベルは八才年上の夫が好きだったのだ。
夫は初夜は優しく導いてくれたし、結婚してすぐはとても優しかった。
そんな夫の役に立ちたいと、アナベルは結婚してすぐに屋敷のことに口を出し、領地のことにも進んで関わろうとした。全部良かれと思ってやったのである。
全て裏目に出てしまったのだが。
しかも肝心の好きだという気持ちは全く伝えられなかった。
それはそれは可愛げのない妻だった。
「ふん……せいせい、したのよ」
繰り返した自分の声はびっくりするほど頼りなかった。
アナベルは、自分が今でも別れた夫に気持ちを残しているのだと気付く。
結婚して一年もすると夫はアナベルを煙たがったが虐げたりはしなかった。だからアナベルは夫を嫌いにはなれなかったのだ。
まだ愛人ができる前、アナベルが風邪を拗らせてしまった時は看病もしてくれた。あの時は嬉しかった。
熱でぼんやりとしながら目を開けると、こちらを覗き込む夫と目があった。
「何をなさっているんですか?」と問うと「寝込んだ妻を心配するのは当然だろう」と返された。
ここできっと「嬉しい」とか「ありがとう」と素直に気持ちを伝えるべきだったのだが、アナベルが言ったのは実に可愛げのない一言だった。
「そんな暇があるなら、お仕事に戻ってください」
強がりにもほどがある。
夫はむっとして出ていってしまった。
そういった頑なな態度が夫を愛人へと走らせたのだろうとも思う。
(愛人にも結局は嫉妬していただけよね)
だから怒ってゴシップ紙のネタにしてやった。
でもまずは夫本人を問いただして言い訳だけでも聞くのが正解だったと今なら分かる。夫婦で会話をするべきだった。
「……今さら、馬鹿ね」
アナベルは自室で一人、肩を落として一粒の涙をぬぐう。
こうしてアナベルは気づくのが遅かった上に、既に手遅れとなった初恋に別れを告げた。
スラン伯爵はいつになく落ち込んだ娘をそっと見守った後に、今後について聞いてきた。
「アナベル、新しい嫁ぎ先を探すかい? もしくはハリソンの補佐としてこの家に残るという手もあるが……」
ハリソンとはアナベルの弟である。ハリソンは来年の結婚が決まっており、順調にいけば伯爵家はハリソンが継ぐことになっている。この国では女の爵位継承はよっぽどのことがない限り認められていない。
「嫁ぎ先を探してください。ハリソンのことは好きだけれど、私が居てはお嫁さんはやり辛いでしょう」
アナベルはきっぱりとそう答えた。
自分の性格はよく知っている。絶対に意地の悪い小姑となるだろう。
「今度は上手くやります」
アナベルはそう言って、二度目の結婚をした。
二度目の結婚の相手は三十才も年の離れた男で、アナベルは後妻だった。
仕方ない。アナベルは前の夫の愛人について暴露して離婚した出戻り女なのだ。この国の社交界では完全に無価値である。求めがあっただけありがたいだろう。
二人目の夫には変な噂もなく経済力もあった。
この国で貴族の令嬢が生家を出て生きていくには結局、結婚しかない。
アナベルはさっさと嫁いだ。
だがこの二人目の夫は曲者だった。彼はアナベルを妻ではなく無料で使える使用人として迎え入れたのだ。
「ようこそ、無給のメイドさん。離婚歴のある君は実家ではお荷物扱いで戻る訳にもいかんだろう? 使用人として働け」
屋敷に着くなり見下した笑顔で二人目の夫は言った。
アナベルはすぐに離婚を決めた。アナベルには逃げ帰っても温かく迎えてくれる父親がいるのだ。スラン伯爵を舐めないでもらいたい。
だが、ただ逃げ帰るのは癪に障った。
(使用人として妻を迎える男など、絶対にまともな奴ではないわ。きっと何かある)
そう考えたアナベルは従順になった振りをして屋敷を探ることにする。
アナベルだって前の結婚で何も学ばなかったわけではない。口答えを堪え、怯える妻(使用人)を演じるくらい簡単だった。
アナベルが震えて見せると夫は満足そうに笑った。
きっと今なら、看病してくれた前の夫に素直に甘えられたんだろうな、と自嘲気味に思いながらアナベルは現在の夫を探った。
そうして数ヶ月後、夫が国からの補助金を賭博に使い込んでいる証拠を見つける。二人目の夫は賭け事にはまっており、家はとうに傾きかけていたのだ。アナベルはそれを大々的に告発してやった。
「ざまあみろ!」
告発後、アナベルは二度目の離婚をして実家へと戻った。
この離婚は夫の不正を暴いたこともあってかなり大きく新聞に取り上げられた。
❋❋❋
「お父様、可能であれば嫁ぎ先を探して欲しいのです」
実家へ戻ってから半年が経った頃、アナベルは父であるスラン伯爵にそう願った。
「……だ、誰のだい?」
「もちろん、私です」
白々しく聞いてくるスラン伯爵をアナベルは睨んだ。
「アナベル……それは難しいかもしれない」
スラン伯爵が恐る恐る答える。
「存じています。難しいでしょうね」
アナベルは優しく父に同意してあげた。
アナベルだって二度も離婚した自分の嫁ぎ先が皆無であることくらいは理解している。おまけに二度とも夫の喉に噛み付いて離婚してやった。特に二人目の夫はもう社会的な再起は不可能だろう。それだけの事をしていたから当然ではあるが、そんな風に夫を討ってきたアナベルを妻にと望む男はもうこの国にはいない。
「私やハリソンの補佐は不服かい?」
「不服ではありません」
アナベルは口も手も出してしまうが、自己顕示欲は少ない。だから父や弟の助けとなれている事に不満はない。
「ですが、我が家で未来の伯爵夫人よりも私の方に重きが置かれているのはよくないと思っています」
未来の伯爵夫人であるハリソンの妻とはそれなりに上手くやれていた。だが屋敷の使用人達や取引先の人々はアナベルを屋敷の女主人かのように扱ってきていて、これは問題である。
ゆくゆくは大きな火種になるかもしれない。
「しかしだな……」
「それに私だって、誰かと支え合える関係を築きたい」
付け加えた理由にスラン伯爵は口をつぐんだ。
アナベルの弟ハリソンとその妻は恋愛結婚で仲睦まじい。
アナベルは弟達の様子を羨ましいな、と思って見ていた。
この国で育ってきたアナベルにとっては、女の幸せとはやはり結婚して夫を支えて得るものだ。
そしてスラン伯爵もアナベルの弟夫婦を見る寂しげな眼差しに気付いていた。
「……異国でもいいかい?」
しばらく迷った後に伯爵は言った。
何でも、アナベルの国の隣国のさらにその先の国の子爵から縁談の申し込みが来ているらしい。
だが家同士の付き合いもなく、子爵本人にも全く面識はない。おまけに異国だ。
スラン伯爵はアナベルの気持ちを徒に乱してはいけないと相手を下調べしつつ、迷っていたのだと告げた。
「相手のお名前を聞いてもよいですか?」
アナベルとしては相手の子爵が自分よりどれくらい年上かが気になったが、まずは名前を聞く。
「ヒューバート・ウェイル子爵だ」
「初めてお聞きする名前です」
「ちなみに二十一才で初婚だ」
アナベルは盛大に首を傾げた。
アナベルは現在二十三才、相手よりも二つも年上なのである。おまけに二度の離婚歴。
てっきり初老の男から後妻の申し込みだと思っていたのに、年下で初婚とは……
(え……嬉しくない、だって絶対に裏があるじゃない)
そう、全然嬉しくはない。
嬉しくはないが、それに縋ろうとするくらいに縁談の話がないことも知っている。
「…………」
アナベルの微妙な反応に伯爵も頷く。
「何か事情はありそうなんだ。それで迷っている……そして話しておいてなんだがこの話はどうかと思うね。わざわざ国をまたいでの求婚なんて胡散臭いし、まずはうちを訪れてアナベルに会いたい、とやけに積極的で怪しいんだ。やはり止めて」
「進めてください」
「うん、進めて……はっ、す、進めるのか!?」
「こちらに来る気なら、来た時にどういう魂胆なのか見極めましょう」
場合によっては返り討ちにしてやる。
「……アナベル、しかし」
「会ってみたら案外まともな方かもしれません。怪しげな方ならお断りすればいいだけです」
「それはそうだが……まあ、そうだな。決めつけるのはよくないな」
スラン伯爵はそう言ってヒューバート・ウェイル子爵に手紙を送った。
ヒューバートからはすぐに喜びに満ちた返事があり、その一ヶ月後にはヒューバートはアナベルに会いにスラン伯爵家へとやって来た。
❋❋❋
ヒューバートの乗った馬車の到着を受けて、身支度を終えたアナベルとスラン伯爵は応接室にて待つ。
執事の案内でヒューバートが部屋へと通された。
「遠いところをようこそ、当主のミーガン・スランです」
スラン伯爵が立ち上がってヒューバートを迎える。
アナベルはこの国の令嬢らしく紹介されるまで顔を伏せてソファに座っていた。
「遠いだなんて、馬車と馬でたかだか十五日でしたよ。初めましてヒューバート・ウェイルです」
快活な声が聞こえる。スラン伯爵に近寄って握手をする足取りは軽い。ヒューバートは握手をしながら道中に馬車の車輪がぬかるみにはまって大変だったことをぺらぺらと喋った。
(お喋りな男……)
アナベルは眉を寄せた。
足運びや喋り方からヒューバートは軽薄な男かもしれないという懸念が頭をもたげる。
軽薄な男は嫌いなのである。
返り討ちにしてやる、と息巻いていたがアナベルだってまだまだ若い女性である。自分を求めてくれたヒューバートにほんの少しだけの期待はあったから、嫌いなタイプであることにはがっかりした。
この時、アナベルは顔を伏せていたので、部屋に入ってきたヒューバートがアナベルを見てその目を見開き、目元を赤くしたことには気づいていなかった。
「ご紹介いただいても?」
ヒューバートが焦れったそうにアナベルを見たのが分かり、アナベルはますます眉を寄せた。馴れ馴れしい男も嫌いだ。
「ああ、すみません。娘のアナベルです。アナベル、ご挨拶しなさい」
アナベルはすっと顔を上げた。
「アナベルです」
簡潔にそう言って真っ直ぐにヒューバートを見る。
二十一才の若き子爵は細身のすらりとした男で、焦げ茶色のスリーピースをそつなく着こなしていた。
顔立ちはいわゆる優男だろう。肩まである淡い茶色の髪の毛はさらりと指通りが良さそうで、水色の瞳は優しげな光をたたえている。
もしかすると外見や性格に難があってそれで異国まで相手を探しにきたのかと考えたりもしていたのだが、その可能性はなさそうだ。ヒューバートはどこまでも感じの良い青年だった。
(……でも、やっぱり軽そう)
これでは結婚したらまた愛人を作られそうだな、と考えてしまってアナベルの胸がきしむ。
「ヒューバートです」
ヒューバートがアナベルに微笑む。その笑顔はどこか嘘くさかった。
「…………」
アナベルは小さく小さくため息を吐いた。
選べるような立場ではないのは重々承知しているし、元々胡散臭い縁談ではあった。それを自ら望んで進めてもらったのだ。
それでもこうして目の前で夫候補として笑顔の嘘くさい軽そうな男を見せられると気持ちは落ち込んだ。
そして普通にモテそうなこの男が、女としてのアナベルを望むわけがない。この申し込みが純粋に好意的な興味からでないのは明らかだった。
(誰かと支え合う人生は来ないのね)
アナベルは遠い目になる。
だが落胆するアナベルの横でスラン伯爵の方はヒューバートに好印象を持ったようだ。アナベルが嘘くさいと感じた笑顔も、素直な伯爵は明るいと感じたのだろう。
二人の会話は弾んだ。
ヒューバートは話題が多く人当たりも良かったし、伯爵もその辺りは如才ない。
一通りの表面的な世間話が交わされ、ひと心地ついたところでスラン伯爵はアナベルにヒューバートに庭を案内するようにと告げた。
お決まりの、後は若いお二人で、というやつである。
「分かりました、お父様」
アナベルはすっくと立ち上がるとヒューバートと庭へと出た。
アナベルと庭で二人きりになると、ヒューバートからは先ほどの快活な様子が消えた。沈黙が続き、手足の動きもぎこちない。
どうやら自分は既に嫌われているようだ、とアナベルは思う。それならばもう単刀直入に縁談を申し込んできた理由を聞いてやろうと思った。
「不躾ですみませんが、どうして私をお選びになったのか聞きたいんです。ご存じでしょうが二度結婚に失敗した女です。もちろん純潔ではありません。あなたはお若くて素敵な方だと思います。他にも候補はいらっしゃったのでしょう? なぜわざわざ年上の出戻り女を求められたのかしら? 納得のいく理由をお聞かせください」
アナベルは挑むような口調でそう聞いた。
こういったことは早めにはっきりさせておきたい性質だし、自分のあけすけな質問が気に食わないと破談になったとしても構わなかった。
隣のヒューバートがかちんと固まる。
「ウェイル子爵?」
アナベルがヒューバートを見上げると、ヒューバートは非常に歯切れ悪く「あー、その、どこから伝えればいいか……俺は、ご、五年前にこの国を訪れたことがあって、その時に招待された夜会であなたを見て、えーと……」などと言い出した。
「作り話はけっこうです」
まごつくヒューバートにイライラしたアナベルはぴしゃりと言ってやった。
「え? 作り話? いや、本当に五年前に来ていて」
「それで? 夜会で一目見ただけの私に五年も片思いしていたなんて気持ち悪いことでもおっしゃるのかしら?」
ヒューバートの肩がびくりと震える。
「そんなわけありませんよね。私はあなたの本心が聞きたいのです」
アナベルはもはやヒューバートを睨んでいた。
「………………」
黙り込んだヒューバートはやがて覚悟を決めたように穏やかな笑顔になると口を開いた。
「五年前に来たのは本当ですよ。夜会でも会っていたかもしれない」
先ほどのぎこちなさが嘘のように柔らかな口調だ。穏やかな笑顔は作り笑いだと分かる。
「可能性はありますね」
「ところで、あなたはわが国からそちらの国へ鉄道を敷く話が出ているのは知っていますか?」
「いきなりですね。新聞で読んだことはあります」
ヒューバートの国からアナベルの国まで鉄道を敷く事業が進行中であることは知っている。
アナベルの国にはまだ鉄道はない。二つ隣のヒューバートの国の方が技術的に進んでいるのだ。
新聞には進歩は歓迎すべきことで国も後押ししているが、線路を敷設する場所について揉めており事業は中断中であるとも書かれていた。
「鉄道事業の中心的な役割を俺の実家である侯爵家が担っているんですが、事業を円満に進めるためにこちらの国と姻戚関係を結んでおいては、という話が出ました」
「…………」
ふうん、とアナベルは思った。
ふうん、なるほど、と。
アナベルは自分に縁談の申し込みがあった理由をすとんと理解した。
「これは愛のない結婚なんですね。私はただこの国の貴族と姻戚を結ぶためだけのお飾りの妻ですね」
「あ、いや、あの、始まりはそうでも」
途端にヒューバートは顔を赤くして慌てたのだが、アナベルはそれには気づかずに真っ直ぐに前を見る。
(なるほどね。こちらで結婚相手を探したいけど若くて結婚に夢を見ているような乙女ではかえって困るというわけなのだわ。後々揉めるかもしれないもの。二度も離婚している私はうってつけなんだわ)
アナベルはヒューバートが自分との縁談を望んだ理由に深く納得がいった。
悲しいことにアナベル自身が求められたわけではなく、求められたのはちょうどいい女だったのだ。
(でもそれなら、せめて自分らしくいよう)
アナベルはきっと空を見上げる。
「あのっ、アナベル嬢っ、俺としてはあなたをお飾りではなく」
「分かりました」
「えっ」
「あなたは私に会った今でも、この話を進める気はありますか?」
「は、はいっ、それはもう、あなたしかいないと思っています」
「そうでしょうね。我が家は父の人柄のせいもあって交友関係も広いですからね」
「へ? そ、そうですね。あ、いや、あなたしかいないというのは家のことではなくて」
「あなたの妻となりましょう」
「っ……」
「ですがお飾りになるつもりはございません」
「はっ、えっ」
「私の二度の離婚や素行の調査はされているかと思います。私はウェイル家のことや鉄道事業に関しても意見をお伝えしますし、お手伝いできることはするつもりです。そんな口出しの多い妻でもよろしければ、どうぞよろしくお願いします」
アナベルはヒューバートに向き直ると美しいカーテシーを決める。
「………………俺との結婚を承諾してくれるんですね?」
「ええ」
アナベルの返事にヒューバートは俯いて両手で顔を覆った。
その手の下でぼそぼそと「うそだろ? 上手くいった」「一目ぼれなんて言わなくてよかった」と呟く。
「子爵様?」
「……ああ、おれの、さいあい」
「はい? さっきから全然聞こえないのですが」
ヒューバートがゆっくりと姿勢を戻す。その顔には再び嘘くさい笑顔が貼り付いていた。
「失礼、何でもありません。では話を進めますね」
どこか甘い響きでヒューバートは言い、アナベルはヒューバートと結婚することとなった。
❋❋❋
「〜〜〜〜っ」
スラン伯爵家を辞し、侍従と馬車に乗り込んでからヒューバートはぶるぶると喜びに震えた。
手近なクッションを手に取ると顔を埋めて叫ぶ。
「ああああああっ、アナベル! すっごく綺麗だった! すっごくいい匂いだった、ああっ、好きだ! 愛している! うおお、そんなアナベルと結婚できるううっ!」
くぐもった声が馬車内に響く。
「アナベルウウウっ」
「五年も片思いでしたもんね、良かったですね」
なおも悶えるヒューバートに、向かいに座っていた侍従からの冷静な返しが入った。
「…………」
侍従の言葉にヒューバートはぴたりと動きを止めた。
ゆっくりとクッションから顔を離し、きちんと座り直す。そして咳払いを一つして、穏やかな笑顔を貼り付けた。
「何を言ってるんだい、へネス。夜会でひと目見ただけのアナベルに一方的に五年も片思いしていたなんて、そんな気持ち悪いことは俺はしていないよ」
「……?」
ウェイル家の執事の息子でヒューバートとは乳兄弟であるへネスは驚いてこちらを見てきた。
「いやいや、何言ってるんですか。私が何度もそんな不毛な片思いは止めろって言っても止めなかったじゃないですか。五年前にアナベル嬢にひと目で惚れて、でもその後すぐに彼女が結婚してしまってずっと引きずっていたでしょう? それがこの度、こっちの国の新聞に彼女の二度目の結婚と離婚が取り上げられて、滅茶苦茶ショック受けた後にやる気出したんでしょ。一度は嫌がった鉄道事業の為の婚姻を相手がアナベル嬢に限ってならする、と進めたのはあんたじゃないか」
すらすらと分かりやすく経緯を述べてくれる乳兄弟。
その通りである。
でも話が変わったのだ。
「へネス、それは建前だ」
「建前の意味分かってるか?」
「主人相手に口が悪いぞ、乳兄弟」
「こほん、失礼しました」
「別にいいけど。へネス、とにかく俺は五年も片思いなんてしてない。アナベルのことはちょっと頭の片隅にいつも理想の女性像として思い浮かべていただけだ。毎週こちらの国の新聞を取り寄せていたのだって、実家の鉄道事業の足しになればと思ってやっていたことだよ。断じて、ちらりとアナベルの名前だけでも見れないかなー、なんて考えていた訳じゃない」
式典の写真付きの記事があった時は、観客の中にアナベルが写ってたりしないかなー、なんて探したりもしていない。
断じて、していないのだ。
「うわ、新聞取り寄せてたのはやっぱりそういう理由だったんだ。一週間分を目を皿のようにして見てるから変だと思っていたんですよ」
へネスが気持ち悪そうにヒューバートを見てくる。
へネスだから気にならないが、そんな目をアナベルにされたら落ち込むと思う。
(いや、冷たく見つめられるのもそれはそれでいいかな)
ふとそう思ってから、いやいや、それでは変態だと頭を振った。
「まあ、そういうわけで五年も片思いだったのは違うから。もちろん今日会って恋には落ちたが、今日はきちんと言葉も交わしたし気持ち悪くない」
「アナベル嬢に何か言われたんですか?」
さすが乳兄弟の兄貴分だ。鋭い。
「…………作り話はいらない、と」
「それで本来は付け足しだった鉄道事業の方を全面に押し出したんですね」
「ぐっ」
何もかもお見通しされている。
「でも、アナベルは妙に納得はしてくれた。彼女はどうも二度の離婚で弱気になってるみたいだった。自分には女性としての価値がないと思い込んでいる」
だから初対面の男からいきなりの「好きだ、愛している」よりも合理的な理由の方が響くのかも思い、頭と態度を仕事に切り替えてみたのだ。
あそこまで上手くいったのは嬉しい誤算だった。少なくともあと二三回は通って説得しなくてはいけないと考えていたのに一回でまとまった。
「仕事だと思って口説いたんだ」
「なるほど……それならすらすら説明できたでしょうね。でも、あの嘘くさい笑顔でですよね。大丈夫かなあ」
「嘘くさいとか言うな。感じいいだろ。スラン伯爵は好印象を持ってくれたぞ。伯爵に至っては鉄道のことを話すとすっかり安心もしてくれた」
アナベルと庭の散策を終えた後は、スラン伯爵と二人きりで今回の縁談について具体的に話し合っている。
「そりゃ……その、アナベル嬢は少々……そこに求婚したんだからそういう理由があった方が伯爵は納得するでしょう」
「へネス、彼女を貶めることは許さない」
ヒューバートはへネスをひたと睨んだ。
こういう目つきをすると普段は優男の顔が一気に冷たくなる。
「何も言ってませんよ」
「ふん、離婚歴がなんだ。アナベルは五年前と変わらず高貴で美しかった。俺の国の言葉も話せるし、勉強熱心で成績も良かったらしい。しかも夫の悪事を自ら暴く行動力まであるんだ。素晴らしい女性じゃないか、俺の目は確かだった。この国の男の目は全部節穴なんじゃないか?」
この国では大人しくて控えめで気の利く女性が良いとされているらしいが、それにしたってアナベルの魅力に気づかないなんておかしい。
「こちらの国の女性の社会的地位はわが国よりかなり低く、表に出てくることは珍しいですからね。アナベル嬢のように自ら離婚する女性は敬遠されるのでしょう」
「うちの国なら離婚したことのある女なんて、沢山いるぞ」
「沢山はいませんよ。それに二回はやっぱりちょっと多い……」
「へネス」
「失礼いたしました。まあ、何はともあれ、良かったですね。おめでとうございます、ヒューバート様」
乳兄弟の兄貴分が柔らかく微笑む。
「ああ、ありがとう! へネス!」
ヒューバートは満面の笑みで答えた。
というような裏はありつつ、この縁談はトントン拍子に進んだ。
ヒューバートがスラン伯爵家を訪れた半年後にはアナベルは二つ隣の国のウェイル子爵家へと嫁入りをした。
❋❋❋
「奥様、着きましたよ」
御者からの声にアナベルは我に返って姿勢を正した。
故郷を出て二十日、アナベルはついに婚家であるウェイル子爵家に到着したのだ。
異国の地への嫁入りとあってかなり身構えていたのだが、馬車が都会へと入ってからは大きく発展した街並みにすっかり心を奪われていた。
(三階建て以上の建物がけっこうあるのね。石畳もメインストリートだけじゃないんだわ。ガス灯も私の国より多い)
アナベルは窓に張り付いて外を眺めた。
一台だけだが、初めて自動車らしきものも見ることができた。
(あれが噂の自動車ね! 思ったより遅いのね)
そんな風にワクワクしながら外を見ている内に目的地に到着していたようだ。
「こほん」
アナベルは咳払いをして気持ちを落ち着ける。
好奇心に輝いていた顔をすっと無表情に戻した。
これから敵地とは言わないまでも、アウェーな屋敷へと足を踏み入れるのだ。舐められるわけにはいかない。
結婚した経緯はどうあれ、自分はウェイル家の女主人となるのだから。
アナベルの頭に過去の二度目の結婚が過る。
あの時は屋敷に着くなりよそよそしい使用人に迎えられ、案内された応接室で夫となる男が“無給のメイド“とアナベルを呼んだ。
そう呼ばれた時は冷水を浴びせられたかのようなショックを受けた。すぐに怒りへと変換したが、それでもあのショックは忘れられるものではない。
アナベルはぶるりと震え、弱気になった自分を鼓舞した。
(大丈夫よ。あんな目には遭わないわ。こうやって馬車だって用意してくれたし、“奥様”と呼んでくれているのですもの)
今回乗ってきた馬車はヒューバートが用意してくれたものだ。護衛だって付いている。だから前回とは違う。
(まあ、愛のない結婚だというのは知れ渡っているから、ちょっと見くびられるかもしれないわね。堂々としていないといけないわ)
アナベルはきゅっと唇を結んだ。
アナベルとヒューバートの結婚は、両国の鉄道事業の文字通りの架け橋として話題になったので、誰もがこの結婚の経緯を知っていた。
アナベルは立派な政略結婚の妻なのである。
ひょっとしたら結婚初日にしてヒューバートの愛人を紹介されたりするかもしれない。そうして冷たく「君を愛することはない」とか言われる可能性もなくはない。
(大丈夫、大丈夫よ。彼を好きとかじゃないもの。これは政略的な結婚。鉄道のための結婚よ。愛人がいたって取り乱さないわよ。話の分かった貴婦人らしく冷静に対応するわ)
一度目の結婚のせいで、愛人という言葉には胸がつきつきしてしまう。アナベルはヒューバートの嘘くさい笑顔を思い浮かべた。
「ふん!」
あんな軽そうな男、こっちから願い下げだ。愛人にくれてやる、と心の中で叫ぶ。
「よし!」
アナベルは気合を入れると馬車の扉を開けた。
そうして少し開けた扉はすぐに外からの力で大きく開けられた。
「えっ?」
驚くアナベルに快活な声がかかる。
「ようこそ、俺の愛しい奥さん」
馬車の外にはヒューバート本人が待っていた。
「えっ?」
「おや、妻を迎えに出てきたのですが、驚かれましたか?」
ヒューバートが手を差し出す。
「いえ……ありがとう」
アナベルはその手をとって馬車から降りた。
「やっとあなたを迎えることができて本当に嬉しいです」
向き合ったアナベルに甘い笑顔でヒューバートが言う。
でれっとした、だらし無い笑顔でもある。
(前の嘘くさい笑顔はどうしたのかしら? まさか、酔ってるとか?)
アナベルは不審な顔でヒューバートの匂いを嗅いでみたが酒臭くはない。
「…………」
アナベルの様子にヒューバートは一瞬慌てると、背を伸ばし作り笑顔を浮かべた。
「申し訳ない、あなたのあまりの美しさに取り乱しました。長い旅路でお疲れでしょう。さ、早く中へ」
アナベルにとっては見慣れた嘘くさい笑顔で流れるようにエスコートされて屋敷へと入る。
玄関ホールには使用人達が控えていて、ヒューバートはにこやかにアナベルを紹介した。
執事と侍女長とも言葉を交わす。ヒューバートは彼らに「妻に不自由がないようにしてくださいね」と厳命していた。
それから二階の日当たりのよい広い部屋へと案内された。
夫婦の寝室もあるが模様替えの最中だという。
模様替えについてはただの言い訳で自分がそこに入ることはないのだろうとアナベルは思うが、宛てがわれた部屋は気持ちの良く整えられていた。蔑ろにはされていないようだ。
(それなりの扱いはしてくれるのね)
アナベルはほっとしてその日は荷解きに費やし、食事は簡単なものを自室へ運んでもらった。
夜、今夜はいちおう初夜である。でもアナベルはヒューバートはまさか自分を訪れたりはしないだろうとたかをくくっていた。
侍女が初夜の支度へと部屋には来たが、丁寧な湯浴みの後は通常仕様の柔らかな綿の寝巻きを選ばせてもらう。
侍女はこの日のために準備したらしいセクシーな寝間着を残念そうに見ていたが、素直に従ってくれた。
(来るわけないもの。待たないわよ)
侍女が去り、アナベルはドレッサーの前でゆっくりと髪の毛をとかす。
旅の疲れが押し寄せてゆったりと眠気がきていた。
今夜はぐっすり眠れそうだ、とのんびり過ごしていたのだ。
だからノックの音がした時は本当にびっくりした。
「ど、どちらさま?」
「俺です。ヒューバートです」
応えた声に更にびっくりする。確かにヒューバートの声だった。
(うそ……)
予想もしていなかった訪問にうろたえるが拒む訳にもいかない。アナベルはできるだけ毅然とした様子で「どうぞ」と言った。
扉がそろりと開いて、寝間着にガウンを羽織ったヒューバートが入ってくる。アナベルの心臓は跳ね上がった。
「まさか……初夜をなさるの?」
乙女でもないので怯えたわけではないのだが、驚き過ぎて掠れた声になってしまう。
「すみません、お嫌でしたか?」
「嫌というわけでは……ただ無理に行うものでもないかと。体面のために行うというのなら、拒否はしませんけれども」
「体面だなんて、あなたの美しさは充分に寝所に忍びたくなるような美しさですよ?」
とろりと優しく甘く微笑まれてアナベルはむっとした。
この男の魂胆が分かった気がしたのだ。
「……同情で抱いていただかなくともけっこうですわ」
硬い声でアナベルは突っぱねた。
自分は二度も結婚に失敗した立派な傷物で、こういう貴族然とした男が欲しがるような女ではないことぐらい百も承知だ。
ヒューバートはきっと、異国の屋敷でのアナベルの所在のなさを慮ってくれたのだろうが、それを素直に受けるのは腹立たしかった。
男に抱かれて存在意義を証明するなど、アナベルの心が許さない。
「手厳しいですね」
「白々しいことはよしてください。お引き取りを」
アナベルはすたすたと扉へ近づくと、それを開けて出ていくようにと促した。
随分と失礼な態度だ。これまでの夫達なら激高して部屋を出ていくであろう仕打ちだった。
「分かりました。それでは独り寝が寂しい夜はお伝えください。お慰めします」
ヒューバートは気に障った風もなくそう言った。
そしてアナベルに近寄ると、額に一つ口付けを落とした。
二人の体は一瞬だが、ふわりとヒューバートから石鹸の香りがするくらいに近くなった。
「!」
アナベルはかっと顔を赤くして、慌てて額をおさえる。
こういう触れ合いは最初の結婚の初めの頃に少しあっただけで、もう随分と遠ざかっていたものだ。久しぶり過ぎて無性に恥ずかしい。
「お休みなさい、愛しい人」
ヒューバートはアナベルの赤い顔を見てくすりと笑うと部屋を出ていった。
「っ…………」
残されたアナベルはへなへなとへたり込んだ。
(何なの、何なの! 何よ、優しくして! 騙されないわよ! 事業のためでしょ! 大体、やたらと女の扱いに慣れているのよ! 絶対にたくさん恋人がいるんだわ!)
ごしごしと額をこすりそう結論づける。勝手に導き出した答えなのだが、ヒューバートにたくさんの恋人がいるかと思うと無性に腹がたった。
(そうよ! きっと女遊びが激しいんだわ!)
アナベルはプリプリしながらも何とか眠りについた。
❋❋❋
追い返されたヒューバートは自室へと戻った。
「おや? お帰りなさいませ」
主の部屋の戸締まりを確認していたへネスが出迎える。
「振られたんですか?」
「振られたんじゃない。追い返されただけだ」
むすっとしながら返すとへネスは「振られてるじゃないですか」と呆れた。
「違う、振られてない。体面上必要なら構わないとは…………そうか、そうだよな、構わないって言ってた」
ヒューバートは自分のベットに突っ伏すと、すうううっと息を吸い込んで叫んだ。
「ああああぁぁあ! 僕は阿呆だあ! へネスっ、せっかくの初夜だったのにっ、くそっ、余裕かまさずに体面上必要ですって言って抱けばよかったっ」
今思えば、アナベルの態度が硬化したのはヒューバートが甘く微笑んでからだ。
やはり、魅力的な女として扱われるのに慣れていないのだ。慣れてないから卑屈に捉えて怒っていた。
きっと、夫婦の義務だから必要だ、とか言って押せばいけたのだ。
「それはとんだクソ野郎ですね」
「抱けばよかった! 体から! 堕とせばよかったああっ!」
「うわあ、最低。しかもそんなテクニックないでしょう」
「くっそ、くっそお…………でも、不安そうだったんだ! びっくりしてた、あんなの、あんなの襲ったらダメだろ!」
傷つける可能性もあった。それは絶対にしたくない。
「ご自分でその結論に辿り着かれてひと安心です」
「うああっ、あのびっくりした顔! すごく可愛かったんだ、アナベル! 可愛かった!」
「ヒューバート様、ちょっと気持ち悪いです」
「可愛かった! あのまま押し倒したかったああああっ!」
「だからそれはダメでしょう」
「アナベルウウウっ」
ヒューバートは枕を掴むとぎゅうっと抱き込んだ。
「美しい上に可愛いなんて!」
「反則だろ!」
「ダメだ! 思い出すとムラムラする!」
「アナベルウウウっ」
ひとしきり悶えた後で、ヒューバートはむくりと起き上がる。
今夜はこのままでは眠れそうにない。
はあはあと肩で息をしながらへネスにこう聞いた。
「へネス。さっきのアナベルをオカズにするのはダメだろうか?」
へネスがなめくじを見るような目をしてくる。
「主人に対してその目はなくないか?」
「気持ちは分かりますが、そういうのは聞かずにこっそりやりましょう」
「それもそうだな」
「はい。お休みなさいませ、ヒューバート様」
「お休み、へネス」
へネスは一礼して部屋を出ていく。
その夜、ヒューバートは少々夜更かしをした。
❋❋❋
翌朝。
「おはようございます、奥様」
アナベルが目を覚まして最初に目にしたのは輝く侍女の笑顔だった。
さあっとカーテンが開けられ明るい陽光が差し込む。
「……おはよう」
「ぐっすりお眠りになられましたか? 旦那様が今朝は絶対に朝食をご一緒したいとダイニングでお待ちですがどうされますか?」
「そういうことならご一緒するわ」
「よかった! ではお支度しましょうね」
侍女の笑顔が弾ける。
「……………」
何かがおかしい、とアナベルは思う。
自ら追い返したのだが、自分は夫に抱いてもらえなかった妻なはずなのに、この待遇は何だろう。
二回目の結婚の時の夫は、無給のメイド扱いのアナベルとは初夜は行わなかった。当初からよそよそしかった使用人達はそのことで決定的にアナベルに冷たくなったのだ。
まあ、あの時は無視されていた方が屋敷を探りやすかったので好都合だったのだけれど。
「ねえあなた、私達の結婚が政略的なものだとは知っている?」
思わずそう聞いてしまうと侍女は困った顔をした。
「そんなことを仰らないでください。背景はどうあれ奥様は旦那様が望まれて来ていただいた方ですよ」
どうか自信を持って、と励ましてもくれる。
「…………」
何かがおかしい。
あの笑顔の嘘くさい男は本気で自分を望んだのだろうか?
訝しげなアナベルが支度をしてダイニングに顔を出すと、ヒューバートは爽やかな笑顔で迎えてくれた。
「おはようございます、慣れない場所だったと思うのですが眠れましたか?」
「ええ」
「それはよかった!」
ヒューバートはにこにこしながら朝食に手を付け出す。
アナベルの到着を待っていたようだ。
アナベルは不思議な気分で食事をした。
さて、三度目の結婚生活を始めたアナベル。
ヒューバートはアナベルがこちらに早くに馴染めるように、実家である侯爵家の姉のイライザを紹介すると言った。
アナベルにとっては驚くべきことにイライザは次期侯爵となることが決まっていた。
「お義姉様が侯爵家を継ぐのですか? 女性なのに?」
驚愕して質問するアナベルにヒューバートは涼しい顔で答える。
「我が国では爵位は基本的に長子が継ぐことになっていますからね。あ、因みに俺のこの子爵位は大伯母のものでした。大伯母には跡継ぎがいなかったので養子になって継いだんです」
「それは存じています。ご実家のことまでは知りませんでした。女侯爵なんて祖国にはおりませんしびっくりです」
アナベルの祖国では女が爵位を継ぐこと自体稀である。ましてや侯爵なんて。
「確かに女性の場合は男兄弟に譲ることも多いですが、姉のように継ぐ人もいますよ。女当主達の会なんてものもあります」
「まあ……」
驚くばかりのアナベルだったが、実際にイライザを紹介され女当主の会のお茶会にお邪魔もさせてもらい、ますます驚嘆することとなる。
ヒューバートの国での女性達はアナベルからすると眩しいほどに輝いていたのだ。
まず学問が女にも開かれていた。
アナベルの国では女は幼い頃は学校に通えるが、ある程度以上の教育は男のためのもので、都にいくつかある高等教育を受けられる学園には男しか入学できない。
女が学問をするなら家で家庭教師に習うしかなく、あまりに熱心にするのには褒められた行為ではなかった。だからアナベルは異国の言葉の詩集を読みたいから、という建前を掲げてもいた。女が詩を嗜むことは好意的に取られたからだ。
詩は好きだったが、理由が無ければ勉強もできないのは悲しかった。
それがこちらの国では、試験を突破した全ての者に門戸が開かれていた。
また、職業婦人が随分と多かった。
アナベルの国でも平民であれば必要に駆られて働く者もいたが、それは賤しいことだとされていた。だから貴族の女性で働くなど、眉をひそめられる行為だったし実際にアナベルもいけないことだと思っていた。
それがどうしたことだろう、ヒューバートの国の女性達は皆、生き生きと働いていたのだ。
女性ながら事業を興して成功している者もいた。
(私、何も知らなかったんだわ)
結婚してから二ヶ月もすると目から鱗が落ちる思いだった。
祖国とこの国の間には一つの国が挟まってはいるが、それでもこんなに女の立場が違うなんてと唖然とする。
(これは、並みのご令嬢では戸惑うばかりだったわね)
驚いて途方にくれただろう。
一方のアナベルは衝撃を受けた後は戸惑うどころかメラメラとやる気が出てきた。
自分は今までなんと小さくまとまっていたことだろう、と思ったのだ。
父や弟の補佐で満足していたのが情けない。ウェイル家でも屋敷の差配をして余力があればヒューバートの仕事を手伝おうと考えていたのだが、そんなことではいけないと感じた。
もっと主体性を持ってアナベルがやりたいこと、アナベルしかできないことをやらねば、と奮起したのだ。
(もしかしたらこの結婚は、私のこういう出しゃばりな部分を買ってくれたのかしら)
ヒューバートの姉のイライザはアナベルに輪をかけて勝気で自信たっぷりの人である。陰では“女帝”とも呼ばれているらしい。
アナベルはそんな女帝にひと目で気に入られたのだが、これが奥ゆかしい年端のいかぬ令嬢であったのなら歯牙にもかけられなかったに違いない。
ヒューバートはイライザとの相性を考えて自分を選んだのだろうか。
その考えはアナベルを少し浮きたたせた。
ヒューバートは忙しい合間をぬってアナベルと食事を共にしようとするし、気遣いは細やかだ。
初夜以降、寝室を訪れることはなく女として愛されていないことは明白だが、人としては好意を持ってくれているとも感じる。
そんなヒューバートにアナベルは好感を抱きつつあった。
相変わらず笑顔は嘘くさいし、きっと裏では女遊びもしているに違いないが、少なくともヒューバートは自分の本質を見ていてくれたのだと嬉しかった。
それならアナベルも人としてヒューバートに向き合おうと思う。
アナベルは結婚してからずっと冷たく他人行儀にヒューバートに接してきたのだが、ここにきてその態度を少し軟化させた。
❋❋❋
「へネスっ、最近アナベルが俺にも笑うんだ!」
執務室にて、自領の来季の耕作計画を見直していたヒューバートは入ってきたへネスに得意満面で伝えてきた。
「それはようございましたね」
「やっと心を開いてくれている気がする、ああっ、アナベル!」
へネスはちらりとヒューバートの手元の書類を見る。
どうやら全く進んでいない。
しばし逡巡した後に、ここはまず主人に思いの丈を吐き出してもらい、すっきりしてから仕事にかかってもらおうと決めた。
「確かに最近の奥様は物腰も柔らかいです。ここへ来た当初は常に戦闘態勢でしたからね。気負ってらしたのでしょう」
「うん。凛とした固い蕾のようなアナベルも素敵だったが、今の花開いたようなアナベルも素敵だっ、好きだ」
「ええ、侍女達もうっとりしてます」
「そろそろ寝所を訪ねてもいいだろうか?」
へネスは眉毛をぴくりと上げた。
乳兄弟の弟分な主人は仕事となるとできる人なのだが、アナベル相手だと完全にポンコツである。
ヒューバートも己のポンコツぶりは自覚しているようで、普段アナベルに接する時は仕事モードに切り替えて対応している。
へネスとしては、ヒューバートの仕事モードも嘘くさくてどうかと思うが、いきなり「アナベルウウウっ」は引かれるだろうからまだマシだろう。
そうしてやっとアナベルの態度がほぐれてきたのに、いきなり迫ってどうする。
「それはダメでしょう。まずは外出にお誘いするとかでは」
「いや、ダメだな。寝所に行ったらまたびっくりさせてしまう、ここはまずデートだな!」
妻アナベルの話をする時、ヒューバートはへネスの言葉なんて聞いてないことが多い。へネスの助言はまるっと無視されたが、助言した通りの答えは出した。
「ご自分でそこに辿り着かれてひと安心です」
「よし! デートに誘おう」
「でしたらお仕事を片付けてしまいましょう」
「うん。そうしよう。やるぞ! 待ってろ、アナベルウウウっ」
ヒューバートのやる気にへネスはにっこりした。
この様子なら午前中に急ぎのものは片付きそうだ。
そうして猛然と仕事をこなしたヒューバートはアナベルをデートに提案すべく、午後のお茶に最愛の人を誘った。
❋❋❋
「あなたにお願いがあるんですが」
ヒューバートから誘われた午後のお茶で、いつもの嘘くさい笑顔で切り出されたアナベルはここぞとばかりに自分も口を開いた。
「私もお願いがあるんです」
お茶にと誘われた時点で、伝えたいことがあったのだ。
「えっ、俺に?」
「はい」
「なになに? なんだい? 何でもどうぞ、何でも叶えるよ」
みるみる顔を赤くして迫ってくるヒューバート。
アナベルは思わず身を引いた。
「……こほん。取り乱してすまない。君が俺にお願いなんて初めてのことだから動転してしまった。もちろん、出来る限り対応はしよう。話してごらん」
いつもの様子に戻ったヒューバートに、アナベルはあらかじめ用意していた一冊の小さな薄汚れた本を取り出した。
「これは?」
「詩集です。とある小国の女性が書いたものです」
「ふむ」
ヒューバートは丁寧に本を開く。そこにはアナベルの国の言葉でもヒューバートの国の言葉でもない見慣れない言語が綴られていた。
「内容は自然と愛とをおおらかに謳い上げたものです。どれも素晴らしい詩なんです。でもマイナーな言語で書かれているので読める人が限られていて、何とか翻訳版を出版したいんです。祖国でも働きかけたんですが、著者が女性ということで相手にしてもらえませんでした」
「我が国ならできそうなのかな?」
「ええ、お義姉様に紹介していただいた事業主さんで興味を持ってくれる方もいて、話が進みそうです」
「よかった。お願いというのは出資か何かだろうか」
ヒューバートが完全に仕事向きの顔になる。
アナベルはそうやって冷静に判断しようとするヒューバートを好ましく思った。
良くも悪くも妻からの提案を色眼鏡で見たりはしていない。
「いいえ、出資ではなくて。その、話は進んだのですが、なかなか良い翻訳者が見つからなくてですね。それなら、せっかくだから私が翻訳をしてみないか、ということになったんです」
照れながらアナベルは伝えた。
「それはすごいじゃないか」
「ありがとう。でも私も趣味で何となく訳していただけなので、翻訳者としてとなると不安で……だからきちんと著者の国で学びたいと考えました。それは留学というものだとお義姉様よりお聞きしました」
「うん?」
ヒューバートの顔が一気に曇る。
「幸運にも、こちらの国に商団を派遣する方とも巡り合いまして連れて行ってもらおうかと思っています」
「…………」
「行くだけで一ヶ月ほどかかるようですし、山岳地帯になるので雪の時期は身動きが取れないらしく、半年ほど留守にすることになるのですが、お許しいただけるでしょうか?」
「…………………………」
「あの……?」
「許可できない。結婚してまだ二ヶ月だ」
ヒューバートは冷たく告げてきた。
もっともなことだとアナベルは思う。だが引くわけにはいかない。せっかくのアナベルのやりたい、アナベルにしかできないことなのだ。
「承知しています。鉄道事業も動き出していますものね。でも祖国の父や縁故のある方にはきちんとお手紙を出して取り持っておくつもりです。十分に根回しをしておくなら、とお義姉様の許可は既にいただきました」
「あんの、クソ女帝…………俺の気持ちも知ってるくせに」
ヒューバートは低く低くうめき、ぎりぎりと拳を握りしめた。
「旦那様?」
いつもと全然違うヒューバートの様子にアナベルはそっと呼びかけた。
がばりとヒューバートがアナベルを見る。
「いまっ、“旦那様”って呼んだ!?」
「……ごめんなさい、馴れ馴れしかったですね」
「謝らないで、責めてない、一切責めてないっ!」
身を乗り出したヒューバートにアナベルはびくっと身をすくめた。
そんなアナベルに気付いたヒューバートは居住まいを正すと口調を元に戻す。
「……あー、これからもそう呼んでほしいな。何なら名前で呼んでもらえた方がいいと思う」
「ヒューバート様、とお呼びすればいいですか?」
「くうっ……ああ、うん。いいね。呼び捨てでもいいかもしれない」
「ヒューバート」
「っ………………」
「ヒューバート?」
「!!」
「? ヒューバート?」
「※!✩★?❋!!」
「具合でも悪いの? ヒューバート」
「〜〜〜〜っ、いやっ、ちょっと失礼!」
ヒューバートは勢いよく立ち上がるとソファのクッションを手に取り、部屋の隅まで行ってうずくまった。
『アナベルウウウウウウウウっ!』
「?」
(今、呼ばれたような気がしたけれど)
アナベルはキョロキョロと辺りを見回すが呼んだ人はいないようだ。
「大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫。うん、平気。それよりも、俺も、んっ、んんっ、アナっ、んんっ、アナ……ベル、と呼んでもいいだろうか?」
ヒューバートは立ち上がると戻ってきてそう聞いてきた。
「いいですよ。それより留学の件ですが、できれば行きたいのです。無理を言っていることは分かっていますが」
「…………」
悲しそうな顔で黙り込むヒューバート。しばらくしてから彼は長く息を吐いた。
「アナベルが行きたいなら止めないよ。鉄道事業の方は何とかなる」
「ありがとうございます。出発は一月後の予定なんです。しっかり根回しして行きますね」
「うん」
「そういえば、ヒューバートのお願いは何でしたか?」
「あー、はははハハハ、ハハハ、はあああああ」
乾いた笑い声と大きなため息が部屋に響く。
「どうなさったの?」
「俺のはもういいんだ…………いや、よくないな、ここはデートは諦めるけど文通にしよう! アナベル、留学は許可するけど手紙を送って欲しい。週に一度は出してくれないか?」
「週に一度もですか?」
ちょっと面倒くさいなとアナベルは思う。
「俺も書くから!」
必死なヒューバート。
そんな風に必死に頼まれると拒むのは気が引けた。面倒くさいだけで無理なことではない。
「分かりました」
「ありがとう! あと、不安だから誓いのキスがしたい」
「へっ?」
「へっ? じゃないよ。新婚なのに半年も離れるんだ。何でもいいから形が欲しい。名目は政略的な結婚だったから、俺たちは式はしてない。誓いのキスすらしてないだろう」
どこかギラギラした目でヒューバートが迫ってくる。たじろぐアナベル。
「それは、そうですけど」
「誓いのキスをしよう。今、ここで」
「い、今?」
「うん、今。さ、立って」
ヒューバートは有無を言わさずにアナベルを立たせると自分はアナベルの正面へとやって来た。
アナベルの両肩がまあまあ強い力で掴まれて、強い光を宿した瞳がアナベルを射抜く。そこには一欠片も嘘くささはない。
(やだ……なんかドキドキする)
ヒューバートのことは嫌いではないし、キスくらい平気なはずなのに心臓が煩い。
そんなアナベルにヒューバートは真っ直ぐに告げた。
「私、ヒューバート・ウェイルはアナベルを妻として、あなただけを生涯愛すると誓います」
「…………」
真面目に告げられ、アナベルはじんわりと感動してしまった。自分はひょっとして愛されているのだろうか。
「アナベルも誓って」
促されて我に返り、アナベルはヒューバートの言葉を復唱した。
「私、アナベル・ウェイルはヒューバートを夫として、あなただけを生涯愛すると誓います?」
語尾が上がってしまったのは文言が合っているか自信がなかったからだが、ヒューバートは怖い笑顔になった。
「疑問形はやめよう?」
「………あなただけを生涯愛すると誓います」
「………うん、キスしてもいい?」
アナベルは小さく頷く。
そっと顔が近づいてきて、唇が落とされる。
優しい触れるだけのキスだ。
なんてことのないキスなのにヒューバートの唇は震えていて、アナベルは生娘のようにドキドキした。
そして、ヒューバートには恋人なんかいないのかもしれないと思った。
この誓いのキスの後、アナベルはとにかく慌ただしく過ごした。留学の準備に留守の間の手配にと目の回る忙しさだ。
そんな忙しさのふとした合間に、ヒューバートとしたキスを思い出したりもした。
そして一ヶ月後、アナベルは留学へと旅立つ。
キスのせいか、ほんの少しだけ後ろ髪を引かれる気がした。
❋❋❋
半年と少し後。
「お帰り、アナベル」
久しぶりのウェイル子爵家に着くと、馬車の扉が開けられ懐かしい声がかかる。
「ただいま戻りました。ヒューバート」
アナベルは差し出された夫の手を、はにかみながら取った。
この半年の留学はとても充実したものだった。一ヶ月に及ぶ行きの行程だけでも興味深くて貴重な体験ばかりだったし、目的の国での数ヶ月はとても実りのあるものだった。
詩集にある独特の言い回しや、風習にも触れることができた。幾つかの面白そうな本も持ち帰ってきている。
そしてそんな留学生活の半年間に頻繁に交わされたヒューバートとの手紙。
夫との文通でアナベルはヒューバートの自分への気持ちを知った。ヒューバートはいつもアナベルを気遣い、切々と会えない寂しさや愛しい想いを綴ってきていたからそれを知るのはすぐだった。
アナベルは自分はどうやら愛されていたらしいとむずむずしながらそれらを読み、誓いのキスを思い出した。
そしてヒューバートの熱量には及ばないがアナベルもそれなりの想いを返すようになっていく。
笑顔は嘘くさかったが、結婚当初よりヒューバートは優しかったし、仕事ぶりは尊敬できた。何よりいつも本来のアナベルを見てくれていて好きになる素地はあったのだ。
キス一つで好きになるなんて、何も知らない乙女でもあるまいしと呆れてしまうが、誓いのキスでアナベルの心は動き、文通によりそれは少しずつ大きくなっていったのである。
なので半年ぶりのこの再会は少々恥ずかしい。
感覚的には文通で恋を育んだ人と、やっと実際に会えたような感じである。
「会いたかった」
「私も、です」
真っ赤になりながらアナベルは素直な気持ちを伝える。
「はああぁ、アナベル」
ヒューバートはそっとアナベルを抱き寄せ、アナベルは抵抗しなかった。
「文通してよかった」
噛みしめるようにヒューバートが言う。
「ふふ、本当ですね」
「手紙にも書いたけど、夫婦の寝室の模様替えはとっくに終わったんだ。今から連れ込むつもり」
ヒューバートが耳元で囁き、アナベルはますます顔を赤くする。
意味は分かっている。それについては三度も知らされていて、しかも意味については念を押されていた。
最初に手紙に〈夫婦の寝室の模様替えが終わり、いつでも移れるようになっています〉と綴られてきた時は、どう返していいか分からずスルーした。
そうすると次の手紙には〈夫婦の寝室が使えるようになっているが、君が帰ってきた際にはそちらで過ごすということで良いだろうか〉とあった。
どうやらスルーしてはいけなかったようだと、アナベルは〈わかりました〉と返す。
だが〈わかりました〉ではダメだったらしい。
更に次の手紙には〈夫婦の寝室について完成していると書いた件で、君は返信に“分かりました”と書いていたが、あれは寝室が完成したことについてだろうか、それとも暗にほのめかした共寝についてだろうか。特に反論がない場合は共寝について了承を得たというつもりでいる〉とあった。
(反論は、ないけど……了承もしてるけど……夫婦だし、別に嫌とかないし、そりゃ、その内にはするんだろうから、帰ってからなら……)
アナベルは留学先の自室で一人、むずむずそわそわして、反論はしなかった。
「あ、えーと…………ハイ」
煩くなる心臓を必死に押さえながら何とか返事をする。
ヒューバートは宣言通りにアナベルを夫婦の寝室に引きずり込むと、そのまま翌朝まで離さなかった。
そんな風にして留学から帰ったアナベルはヒューバートと甘い時間を過ごすようになった。
その後、甘い時間が落ち着いてからは詩集の翻訳版の出版に向けて忙しくしだしている。
また、アナベルには次なる目標も出来た。
祖国からの留学生の受け入れである。
ヒューバートと結婚してこの国に来てからのアナベルは、祖国との女性の立場の違いに驚くばかりだった。
そしてアナベルは今の方が断然楽しい。
向き不向きはあるし、祖国にだって良い所があるのは知っている。だが女性の立場はもう少し強くあってもいいと思う。
急激な変化は難しいだろうし、押し付けるつもりはない。でも女が活躍する世界もあるのだということは祖国の人たちにも知ってもらいたいと思う。
鉄道が敷かれるにはまだ数年かかるが、行き来がしやすくなれば留学も容易になるだろう。
アナベルはその時に向けて働きかけようと考えている。
できれば、是非とも女子生徒を受け入れたい。
というわけで現在アナベルは燃えている。
時々、ヒューバートが「俺を忘れないでね」とちょっかいをかけてくるほどに燃えている。
Fin
お読みいただきありがとうございます。
「アナベルウウウっ」が書きたくて書きました。
短編らしく楽しくまとめられたと思っているのですが、お楽しみいただけていれば嬉しいです。