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湯宿の名前は、風にまぎれて ―忘れられた温泉と最後の名簿―

ーーーふと、古い地図を家で見つけて興味本位で開いたときに目についた「樽尾温泉」の文字。それは少し不思議な出来事の始まりだった。


俺は斎藤。石神市の高校に通う高校2年の男子だ。今はちょうど夏休みが始まったばかりで、胸躍る高2の夏……なのだが、一つ問題がある。

「社会の宿題だりぃな……」

その内容はこうだ――「最低でも県内、できれば市内にある伝統や伝説について調べてレポートとして提出すること」。

「社会じゃなくて、これもう民俗学じゃん……」

そうぼやいたところで、宿題が消えてなくなるわけじゃない。

俺の高校の社会担当は、大学では民俗学や社会学が専門だったらしく、その教員が赴任してからというもの、高校2年の夏休みの宿題は“名物”として校内で有名になっている。

その教員いわく、 「たまに自分の知らない伝承や歴史があるんだ。そういうやつには最高得点を出してるぞ。ああ、別に被りとか気にしてないからな。ただし丸写しはダメだぞ」

気は乗らないが、俺は宿題は早めに終わらせるたちだ。さっさと片付けるために、家にある資料をあさり始めた。


俺の家は、地元では結構歴史のある家らしく、蔵には何に使うかもわからない古い道具や古文書の類も多くある。社会の先生いわく「君の家は古い家系だそうじゃないか!良いレポート期待してるぞ!」

勝手に期待されても困る。しかも、期待外れだったときのことを考えると正直怖い。


その場では一応、 「先人が散々調べてるので何も出てこないかもしれないですよ?期待外れだったからって、悪い成績つけないでくださいね?」 と返しておいた。


「かあちゃーん、蔵の鍵貸りるぞー」

「あー、例の宿題ね、いい題材見つかるといいね」

家事をしている母親にそう伝え、蔵の鍵を手に取る。


蔵の扉に手をかけると、古びた蝶番がギィ……ギイイ……と嫌な音を立てた。内部はひんやりとしていて、埃と古木の匂いが鼻をつく。

「さて、なにか良い資料は・・・」

俺は蔵の中の紙の資料を保管している棚に向かった。


「お、これは古い石神市の古い地図か?」

出てきたのは1970年代の古びた地図だった。黄ばんだ紙の感触と、滲んだインクの匂い。


ふと気になってパラパラとページをめくっていくと、山間部に差しかかったあたりで目が止まった。

「樽尾温泉?」

初めて聞く名前だ。石神市に、こんな温泉があったなんて。

宿題のテーマからはちょっと外れるかもしれないけど、妙に心に引っかかった。



「はぁ……結局いい題材見つかんねぇわ」

資料は山ほどあるものの、どれもすでに内容が整理され尽くした書物ばかり。あの先生を満足させられそうなネタなんて、そう簡単には転がっていなかった。

「しかし、さっきの樽尾温泉、ちょっと気になるよな」

なぜか妙に印象に残っていた。俺はその地図を母屋に持ち帰ることにした。


「樽尾温泉?聞いたことないねぇ」

母屋に戻ったあと母親に聞いてみたがそんな温泉しらないと言うことである。

他の家族に聞いてもそんな場所知らないとのことだった。

「本当に、そんな事あるのか?」

家族全員が知らない? しかも市内の温泉の名前だぞ?俺はますます興味を惹かれた。


最悪、この温泉のことを調べて宿題にしてやるか。そんな考えも頭をよぎった俺は、気がつけば、本格的に調べる準備を始めていた。


翌日。改めて蔵を調査することにした。あの温泉の情報が、まだどこかに残っているかもしれない。

最初に調べた民俗資料の棚には何もなかったので、別の場所から探し始める。

調査開始から1時間ほど経った頃、蔵の一番奥にある古いタンスの中から、それは見つかった。

「樽尾温泉 宿泊名簿!?」

なんと樽尾温泉の宿泊名簿が出てきたのであった。


それは分厚く、黒い紐でしっかりと綴じられている。相当古いものなのか、ところどころ破れていた。

俺はすぐにそれを手に取り、内容を確認する。

「これは……かなりの量だぞ。最初のページは……1925年か」

かなり歴史の長い温泉宿だったようだ、それ以外の場所は破けていたり滲んでいたりしてよく読めない。

「こんなに読めないことって、あるか……?」

それは誰かが意図的に読めなくしたのかのごとく何も読めない状態になっていた。


そして最後のページに差し掛かったとき。

「……斎藤誠二!?」

俺の名字は斎藤。そしてその名前が、名簿のいちばん最後に記されていた。確実に、この名簿がこの蔵にある理由と関係している。その下には、筆のかすれた文字で、短歌のような一節が添えられていた。


『湯けむりに 紛れて消えし 声のなか 名簿ひらけば また逢えるかも』


その瞬間、胸の奥にぐわっと何かが込み上げてきた。

この名簿は、ただの記録なんかじゃない。

――あの温泉が、誰かに思い出してほしくて託した“心そのもの”だ。


気づけば、俺はぽつりと声を漏らしていた。

「……何だこれは、この名簿は、あの温泉の思いそのものじゃないか……!」

そして、もうひとつの思いが胸を打つ。

――この名簿は、ここにあるべきじゃない。

今まで誰にも見つけられなかったこの記録を、本来あるべき場所へ戻してやらなきゃいけない。



次の日。

朝から、樽尾――いや、「樽尾温泉」跡地に向かう準備を進めた。


ネットでの調査は思いのほかあっさり終わった。

市のコミュニティバスの時刻表に「樽尾」というバス停が載っていたのだ。

バスは市街地を離れ、山間部へと向かう唯一の路線で、「樽尾」はその終着点だった。


古い地図に記されていた地形と、ネットの地図に出てくる地形。

二つを見比べて、俺は確信した。

間違いなく、そこが“樽尾温泉”のあった場所だ。


駅の裏手にある小さなバス停で、俺は静かにバスを待った。

乗り込んだ車内は、平日の午前中らしく人もまばらだった。

市街地を過ぎ、道が山へと入る頃には、俺ともう一人、年配の男性だけになっていた。


しばらくして、俺は勇気を出して声をかけてみた。

「すみません、樽尾温泉って知ってますか?」


老人は一度窓の外に視線を投げてから、首をかしげた。

「……樽尾温泉? はて、そんな温泉あったかのう。確かにここらは樽尾じゃが、温泉なんて聞いたことないのう」


その返答は、俺の中にひんやりとした違和感を残した。

本当に誰も知らないのか?

それとも、この場所だけが何かに“忘れられた”のか?


やがて老人はひとつ手前のバス停で降り、車内には俺ひとり。

車窓には、曲がりくねった山道と、夏の濃い緑が広がっていた。


スピーカーからアナウンスが流れる。


「まもなく、終点・樽尾です。お降りの際はお忘れ物のないようご注意ください」


背もたれに預けていた体を起こし、俺は席を立った。

鞄の中には、あの宿泊名簿が入っている。


いよいよだ。

記憶から消えたはずの温泉に、俺は名簿を持って帰る。



バスを降りた先は、Uターンのために開けられた簡素な広場だった。

舗装はされているものの、草がところどころ伸びていて、長年整備されていないことがうかがえる。


俺は印刷してきた地図を広げ、方角を確かめる。

「この広場がここだから、この道をまっすぐ行けば樽尾温泉に付くはずだ」


その道はアスファルトではあるものの、ひび割れて雑草が顔を出している。

両脇からは木の枝が覆いかぶさり、木漏れ日がまだら模様を作っていた。

そばを流れる小沢が、さらさらと音を立てている。ひんやりとした山の空気とその音に、心が少し落ち着いた。


10分ほど歩いたところで、急に視界が開けた。

空き地だ。ここが――樽尾温泉の跡地。


「ここが……樽尾温泉跡地……」

敷地の周囲には古い石垣と、数本の大きな桜の木。

春にはきっと、美しい花を咲かせていたのだろう。今は葉を青々と茂らせ、夏の風にゆれている。


「春に来たらきれいそうだな……来年、見に来るか」


ぽつりと呟きながら、俺は空き地へと足を踏み入れた。

その瞬間だった。


空気が――変わった。


ひんやりとした山の空気に、どこか懐かしい温泉の香りが混ざる。

硫黄のような匂いと、木の香り、湯気のような湿気。

目を開けると、そこには――


「……こ、これは……!?」


見渡す限り、和風の木造建築。立派な二階建ての旅館が、そこに建っていた。


「夢……じゃないよな?」


落ち着いてきたところで周りの様子を確認する。

改めて、大きな和風建築の旅館なことがわかる、建物の裏手からは湯煙らしきものもたっており、硫黄の少し混じった温泉のまろやかな香りが鼻につく。

いつしか暑さはやわらぎ居心地もよい。隣を流れる小沢も変わらず涼しげな音を立てていた。


しばらく呆然としていたが、意を決して建物へと近づく。

玄関先に立ったそのとき。


「おやおや、ここにお客さんが来るのは、何年ぶりかねぇ」


背後から、柔らかな声が聞こえた。

びくっとして振り向くと、そこには年老いた女将姿の女性が立っていた。


「う、うわぁ!」

「ふふ、驚かせてしまったかい? 別に、脅かすつもりはなかったんだよ」

「……はい。大丈夫です」


俺はなんとかそう答えた。


「お前さん、斎藤かい? あの人と、よく似ておる」

「……あ、はい。斎藤ですけど……なんで?」

「よく似た人を知っていてね。最後に、私の人生を託した人さ」


“人生を託した”?

俺は一つの可能性を思い浮かべ、尋ねた。


「もしかして……顧客名簿のことですか?」

「ああ、そうだとも。まさか、返しに来てくれたのかい?」


俺は頷き、玄関先に腰を下ろして、女将の話を聞いた。




女将の語りは、静かで、どこか懐かしい風の音のようだった。

彼女は、この宿が自分の人生そのものだったこと、お客さんをもてなすことがどれだけ誇りだったかを語ってくれた。


「栗の季節になるとね、よく栗ご飯を炊いて出したんだよ。クリがこぼれるような年は、おひつにたっぷりね。山の恵みを、皆さん喜んでくれた」


そう言って、優しく笑ったその横顔は、夕陽に照らされてとても穏やかだった。


「この建物が解体されるって決まったときにね……せめて名簿だけでも、と思って。あの人に預けたのさ。きっと、いつか誰かが、見つけてくれると信じてたんだよ」


俺は何も言えなかった。ただ、胸がいっぱいだった。俺は自然と目頭が熱くなり、いくらかばかりの沈黙が流れた。

気がつけば、外は黄金色に染まり、ヒグラシの音が空に溶けていた。あと30分もすれば、本格的に暗くなるだろう。


「それでも……それでも、この名簿はここにあるべきものなんです。俺の家に置いておくべきものじゃない!」


震える声で、それでもしっかりとそう言った俺に、女将は静かに頷いた。


「そうかい。なら、受け取ろう。この子も、ようやく帰ってこられたんだね。ありがとう、斎藤さん。ほんとうに……ありがとう」



その声は、ほんの少し、涙で震えていた。


「……俺、そろそろ帰ります。家族、心配してると思うんで」

「そうだね。今日は、ほんとうにありがとう。また、来ておくれ」

「ええ、また来ます」


俺は立ち上がり、旅館の門へと向かう。

ふと振り返ると、女将が手を振っていたので、俺も手を振り返した。


「また来よう」

そう呟いたそのとき、温泉の敷地を出た瞬間、風がふわっと吹いた。

目を細めて前を向くと――


「……あれ? 来たとき、こんな石碑あったっけ?」


道端に、不自然なほど真新しい石碑が立っていた。

近づいてみると、こう刻まれていた。


――

樽尾旅館跡地

『湯けむりに 紛れて消えし 声のなか 名簿ひらけば また逢えるかも』

――


「これは……名簿の、最後の短歌……?」


声に出した瞬間、胸の奥に何かが広がる。

気づけば、小沢の流れがどこか温かくなっている。

……まるで、温泉の湯が流れ込んでいるようだった。


「……世界が、変わった……いや、戻ったんだ」


そう確信しながら来た道を戻ると、見慣れたバス停が目に入る。


「……名前が……“樽尾温泉”になってる」


その瞬間、胸がいっぱいになった。

やがてやってきたバスに乗り込むと、運転手が言った。


「お、樽尾温泉、見に来たの?」


俺は思わず、にっこり笑って答えた。


「はい! いい場所でした!」


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


その夜。


俺は机に向かい、社会の宿題の原稿用紙を広げる。

タイトル欄に、ゆっくりとペンを走らせた。


『樽尾温泉と、人生を捧げた女将』


その一文字一文字に、静かな祈りを込めながら。


窓の外では、蝉の声がまだ――少しだけ、鳴いていた。

本作は、かつて実在したとある温泉地の記録や記憶を元に描かれたフィクションです。

実際の地名や人物とは関係のない創作ですが、現地の空気、そこにあった営み、人の思いが確かに存在したことに、静かに敬意を込めて書きました。

物語の中で、少しでもその“記憶のような何か”に触れていただけたなら幸いです。

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