第七十二話 銀雪に惑う・Ⅲ
簡潔に一言で言うなら、それは蒼白色の馬だった。
体躯は巨人にでも飼われていたのかと錯覚するほど巨大だ。足だけで僕らの数倍以上もある。身体のあちこちを氷雪に飾り付けられている。
さながら雪国の貴婦人。眉間から生えている一本の氷の角は天を指す。悠然とこちらを見下ろしている深い青の双眸、或いはその立ち姿から余裕と高貴さすら感じた。
金縛りにあったように動けない僕らを馬はジッと見つめている。その首をゆっくりと近づけ、ルーペで拡大したものをじっくり観察する研究者のような好奇心を青い瞳に灯していることがなんとなく理解できた。
誰かが唾を呑んだ音が聞こえた。多分、リルだと思う。ただそれを確認する余裕なんてあるはずもなくて、ただ目の前の圧倒的な上位者が、次の瞬間に何をしてくるのか見逃した死ぬという確信だけが僕の目線を強く固定している。
【────────!!!!】
突如として霊馬が嘶く。響き渡るその声にニヴルヘイムの空気が揺れた。天地にビリビリと響き渡るその嘶きは雄大で美しく、明らかな理性を感じさせるものだった。
僕らはそれよりも霊馬が行動したことに意識が向いていて、嘶きを知覚した直後に得物を手に取って構えた。
嘶きが止まると、入れ替わるようにして突風が吹き始めた。今まで殆ど凪状態で荒れる様子も予兆もなかったのにいきなりだ。冷たい風が吹き荒れてる。
次第に強くなるとそれは吹雪となり、あっという間に僕らを包み込んでしまった。それでもなお吹雪は荒く激しくなる。白い暗闇が僕らの視界を奪い、苛烈な風の勢いと冷たさが僕らの身体をどんどん凍り付かせていく。
「集合!」
焦りを帯びたリルの号令が聞こえた。その瞬間僕の身体が考えるよりも先に動いて、号令が聞こえてきた方へ一目散に駆ける。
「シルバー・グローリー!!」
リルが霊臓を発動して僕らを覆う球体型の結界を展開した。風雪が結界に遮られて僕らを直接脅かすことはなくなったが、どんどん苛烈になる猛吹雪によって雪が目に見えるほどの速さで積もっていく。
「スルト! 火で融かせないのか!」
「無理だ! お前らも焼けちまう!」
雪を融かせばなんとかできるかもという考えから提案してみたが、却下されてしまう。
このままだと生き埋めになる。可能性が脳裏を過った直後、最後の砦である結界にヒビが生じた。
「嘘! 結界が凍って────」
リルが言い切る前に結界が砕けた。薄氷が砕けるようにして崩壊した。
なだれ込んできた雪に飲み込まれた僕らは、押し流される感覚を全身に受けながら意識を失った。
♢
[ニヴルヘイム山頂 王家の祭壇]
霊験あらたかなる雪山の頂。雲の上にあるそこにはテミスを祀る王家の祭壇がある。祭壇の最上段には大きな女神像があり、それは遥か先にある王国の方角を向いている。その足元には女神像に膝をついて熱心に祈りを捧げる男がいた。
「……」
────オットー・フォン・メルゴー。
第48代目テミス王国国王、その人である。王冠も錫杖もマントもなく、ただ公平の天秤の紋章が刻印されたコートに袖を通しているだけであるが、目を閉じ膝をついて祈るその姿からは隠しきれない品格がにじみ出ている。
祈る国王の鼓膜に嘶きが薄っすらと届いた。
「……ニヴルヘイムの主よ。喜んでいるのか?」
ゆっくりと目を開いた国王が嘶きに呟く。
「やはりかの者は……」
独り言を途中で止めると国王は立ちあがった。
「盗み聞きとは感心しないな」
いつの間にか背後に立っていた存在へ国王は目線を向けずに言い放った。
「……失敬。深く集中されていたようでしたので……」
「…………次からは気にせず話しかけてもよい」
国王は疲れたように息を吐く。
「して何の用だ? グリムよ」
「スルト達のグループがスレイプニルと遭遇しました」
「知っておる。今しがた嬉しそうな嘶きを聞いた」
「?」
踵を返して横を通り過ぎた国王にグリムは追従する。祭壇を発ち、二人は山を下りていく。
「つかぬことをお聞きしますが…………"嬉しそう"、というのは一体?」
「気にするな。こっちの話だ」
「御意」
グリムはそれ以上何も尋ねなかった。自分如きが軽率に踏み込んで良い話ではないと判断し、それ以上気にしないように努めた。
「それで、スレイプニルは今何を?」
「嘶きの後、すぐに住処へと帰りました。…………が、帰り際に引き起こした吹雪と雪崩に巻き込まれた23名が死亡判定。既にベースキャンプへと強制転送されています」
「件の新人たちもか?」
「はい。本来であれば、ですが…………」
グリムは一部をわざとらしく強調しながら、言葉を言い切らずに国王の返答を待った。国王はそれに頷く。
「うむ。まだ続けさせろ。本当に死ぬまで」
「…………」
「不満か? ならば少しだけ教えてやるが、あの三人がここで死ぬことは絶対にあり得ん」
非難するような沈黙を差し向けるグリムに気が付いた国王はそう断言してみせる。だが、それが逆にグリムの疑念をより強固なものにした。
「何を根拠に」
「それは言えぬ。そも言ったところで理解できんだろうよ。だから言わぬ」
「ダメです。それだけでは認められません」
グリムは国王の言葉を拒否した。国王は少し面食らったような顔をすると、すぐに溜息を吐く。
「相変わらず頑固な奴だなお前は。あの時から全く変わっておらん」
「陛下が奥歯にものが挟まった言いかたしかしないからですよ。並々ならぬ事情があることは重々理解しておりますが、我々としてはもう少し情報を提示してもらわないと困るのです」
少しだけ砕けた口調になった国王にグリムは訴えかける。日ごろの不満がありありと見て取れるその発言に国王はハッと一笑した。
「何度言えば分かる。話したところで貴様らは理解出来ぬと言っておるだろう?」
「何故そう言い切れるのです」
「あの三人はここで死なないことになっている」
「…………はい?」
グリムは立ち止まった。
「これは神によって定められた決定事項である。他でもないテミスがそう告げたのだ。あの三人の死はもっとずっと先の話なのだよ」
「一体、何をおっしゃっているのですか……?」
「我も分かっておらぬよ。一方的に教えられただけだからな」
グリムの困惑が加速する。黙り込んだグリムを見た国王は特に反応を示さず、グリムの顔を隠すヘルムから視線を外してまた山を下り始めた。
「閑話休題、今の我は国王ではなく遭難した登山者だ。誰が一番に我を保護するか、或いは殺すのか…………良ければ賭けてみるか?」
「これは訓練であって遊戯ではありませんが?」
「少しくらい良いではないか…………。我とて一人の人間なのだ。たまには息抜きくらいさせてくれ」
「……………………私はアレクに賭けましょう」
「よし! そうこなくてはな!」
しぶしぶといった様子で賭けに乗ったグリムに国王は満足そうな声を洩らした。
「しかしアレキサンダーを取られてしまったか…………我もアレキサンダーに賭けたかったのだが」
「先に言わない陛下が悪いです」
「それもそうだな。こういうものは早い者勝ちだと相場が決まっておる」
舗装された山道をゆっくりと下りながらオットーは考える。しかし、答えは既に決まっていたのか、考え込んでからそう長く経たない間に口を開いた。
「ではここは一つ、エルド・L・ラバーに賭けてみようじゃないか」
「エルドにですか」
「そうだ」
「なぜ?」
「教えんよ。面白くないではないか」
オットーは振り返らず、自信ありげに笑って見せる。
「…………」
その笑顔はたちまちのうちに憂いを帯びた無表情へと変化したが、オットーの後ろを歩いていたグリムが気付くことは無かった。




