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ある日ことばがわからなくなったら。

作者: 緑のノート

※作者には差別、偏見を助長する意図はありません。

 世界が切り替わった。

 そうとしか表現できないできごとだった。

 車内アナウンスが、突然意味の分からない音の連なりになってしまったのだから。

 その瞬間、男は朝の通勤電車に揉まれていた。ちょうど次が降りる駅だった。

 男は耳を疑った。いつも利用している駅の名前が全く聞き取れないのだ。

 わけが分からず駅名が表示されているはずのモニターに目をやり、更に唖然とする。

 モニターに表示されているのは、見慣れない記号の羅列だった。

 想像してみてほしい。日本語が、知らない外国語やどこかの古代文字に置き換わってしまったのを。

 男が混乱している間にも電車は駅のホームへ滑り込む。このタイミングのアナウンスは日本語と英語のはずだったが、やはり聞き取れない。ドアが開いたのでやむなく他の乗客と同じように電車を降りた。


 駅のホームは通い慣れた景色そのままだった。

 しかし駅の掲示板に駆け寄って確かめると、やはり日本語は見慣れない記号の羅列に置き換わってしまっていた。そして時折通り過ぎる人々は日本人の顔立ちだが、話している言語は到底日本語には聞こえない。

 改札口に向かってもその状況は同じだった。知らない文字の羅列。聞き取れない言語を話す人々。


「くそっ、どうなってるんだ!」


 通勤客が迷惑そうな、或いは好奇の視線を向けては去っていく。他は無関心だ。この状態を異常視しているのは男だけらしい。自分だけが日本にいながら外国に迷い込んでしまった。そんな錯覚に襲われた。


 改札口で立ち尽くしていた男は、通勤途中という嫌な事実を思い出した。

 「急に日本語が分からなくなった」等という無茶苦茶な理由では休めない。


「今何時だ」


 スマートフォンを取り出して、安堵した。

 そこには日本語で、【4月21日金曜日 8:04】と表示されていた。

 



 その後男はなんとか始業時間までに会社にたどり着いた。他の同僚はすでに朝礼のために整列していた。みんな見知った顔だ。

 紛れ込むように整列位置に並ぶ。

 前を見るとちょうど部長が口元にマイクをかざしたところだった。いつものように「今から朝礼を始めます!おはようございます!」とやり始めるぞ。と思っていた男は、胃に重しが入ったように気分が悪くなった。


「―――!―――!」

「―――!」


 聞き取れない。

 ここもなのか。

 部長の掛け声に合わせて、他の社員も同じフレーズを一斉唱和する。男もいつものように「おはようございます」と言いかけたが、声が出なかった。

 部長は話を続けていくが、今日の連絡事項が全くわからない。

 最後に何か「よろしくお願いします!」のような言葉を部長と他の社員で唱和して、朝礼は終わってしまった。

 同僚が自分の席に就いていく。

 連絡事項が理解できなかったのなら、他の社員に聞けばいい。

 ……それだけの話じゃないか。

 取り残されていた男は、ゆっくり自分の席に向かった。


「先輩」


 自分の席に座り、向かいのデスクの先輩社員に声を掛けるが、気付かないのかパソコンを打っている。


「先輩!」


 先輩は静かに目線を上げた。


「あの、今日の朝礼の件ですが――」

「―――?……――」


 しかし咎めるような目つきで何か言うと、自分の仕事に戻ってしまった。

 言葉が通じない。その事実が重くのしかかった。


 それからは苦行だった。

 パソコンのキーボードも画面も、作業の進捗が書いてあるホワイトボードも、同僚の会話も、何一つ分からない。もちろん電話なんて取れやしない。後輩がいたので取らずに済んだが、取っても一言も分からなかっただろう。

 作業するふりをして、パソコンに向き合って、一時間をやり過ごした時だった。

 スマートフォンの通知音が鳴った。会議のリマインダーだった。

 肩を叩かれ、振り返ると先輩だった。何か話し掛けてくれている。そういえば昨日、会議の資料を作っておいてと言われていたのだ。社内に新しい企画を通すための大事な資料作りを任されたのだ。

 作ってから確認のため持ち帰っていた資料を、カバンから取り出す。


「あ……」


 資料はちゃんと持って来ていた。しかし日本語だった。

 先輩の、穏やかに見ていた目が、何やってるの、という正気を疑うような冷淡な色に変わっていく。

 決定的に何か誤ってしまった感覚に息が詰まる。資料はクリアファイルから抜け落ちて、床へ滑り落ちた。


「――――……、――――?――?……――」


 先輩が何か男に言う。その語気には苛立ち、面倒くささ、呆れ。そんな感情がない交ぜになっていた。最後は何を言っても無駄だと思われたのか、鼻を鳴らしてこちらに向き直るのをやめてしまった。


(資料は問題ないのに。昨日ちゃんと作っておいたんだ。急におかしくなったのはお前らの方じゃないか)


 そこで誰かの声がした。続けて先輩が答える声が聞こえる。顔を上げると後輩Aだった。二人の会話が始まる。

 黒い感情が湧き起こった。

 Aは外国人採用枠で採用された奴だった。男は下手くそな日本語にいつもイライラさせられていた。コミュニケーションが成り立たないのだ。日本に来るのなら、ちゃんと勉強してから来いよと思っていた。

 でも今二人はちゃんと会話している。


(これじゃあまるで――)


 冷や汗が滲み出るようだった。

 男は、早退した。

 部長になんとか体調が悪いのだと伝えて、逃げるようにカバンを掴んで退社した。


 早退なんて初めてだった。必死に就職活動して掴み取った仕事だった。だから、一生懸命に仕事して先輩や部長に認められようとやってきた。

 でも、それだから分かってしまう。

 言葉の分からない人間に務まるような生易しい仕事ではないのだ。

 悪い夢で片付けられたらいいが、それにしてはここはあまりにも“日本”だった。言葉と文字を除きさえすれば。


(なんで突然こんな訳の分からない状況になったんだ。なんで“日本語”がなくなったんだ)


 自問自答しても何も心当たりはなかった。男は悔しかった。昨日まで先輩も部長も、俺の働きを、能力を認めてくれていたのだ!それが、言葉が、言葉なんていうものが変わっただけで、人並みに働くことが許されないなど!

 左目から一筋流れたものを無視してエントランスから外へ出た。




 どんな訳の分からない状況にいようとも、身体は正直である。外に出ると空腹を感じた。一軒のコンビニが目に入った。たまに昼食を買いに行く会社に近い店だ。ちょうど昨日も行ったところだった。

 コンビニに入店するとおなじみの音楽が鳴る。レジを見ると、外国人留学生が立っていた。何度か見たことがある顔だ。

 品揃えを見ると文字こそ読めないが、昨日と同じでほっとする。適当に菓子パンと飲み物を持ってレジに置く。しかし一万円札を出すと、店員の留学生に不審な目で見られた。

 何か言われた。分からないので黙っていると、じっとこちらの目を見たまま、ゆっくりとレジスターを開けて、一枚の紙幣をひらりと取り出した。

 お札だ。しかし、見慣れない、数字だと思われる記号が記されている。


「お金まで違うのかよ」


 字は違うが、同じお札じゃないか。お札を手に持って軽くサッカー台を叩くと店員の留学生が少し口調を鋭くして何か言い始めた。それでも通じないと分かったのか、何か先程の言葉とは違う言葉で話し掛けてきた。


「分からない、分からねえよ!」


 堪らなくなって食い下がる。物すらまともに買えないなんて。


「これ一万円札だよ!俺が働いて稼いだ金だ!お金なんだよ!なんで使えないんだよ!」


 相手の声もどんどん大きくなる。バックヤードで人が動いたのがちらりと見えた。


 周りの見えなくなっていた男の肩に、ぽんと大きな手が乗せられた。

 振り返ると制服を着た体格のいい男が、何か話しかけてきた。思わず唾を飲み込む。

 警察官だった。




 連れて行かれた警察署で取り調べを受けた。

 狭い金属質な取調室で、硬い椅子に座らされ、強い語気で責め立てられた。

 持ち物を調べられた時に、免許証や貨幣を持っていたことも災いした。彼らにしてみれば、いわば精巧にできたニセモノ(・・・・・・・・・・)である。それらを見た瞬間彼らの顔が、鋭さを増した。しかし記された文字が彼らの言語と異なることによって、幸いと言っていいのかは疑問であるが、偽造犯に仕立て上げられることはなかった。首を捻っている彼らの様子を見るに、男が彼らの文字を分からないのと同様に、漢字や平仮名には見覚えがないようだった。

 それから取り調べは、意思疎通が満足にできないため、そして男の様子が不法滞在者にしては不自然な――まるで言葉が通じない以外はこの社会に精通しているために、趣旨を変えていった。警官が男の事情を聞き出そうと努力し始めたのである。

 男はいくつか文字を見せられたが、知っているものは一つもなかった。スマートフォンで外国語の音声を聞かされたが、ここにも知ったものはない。男が首を横に振ると、警官は落胆した。

 逆に警官に、会社の名前や駅の名前、都市の名前、国の名前を並べ立ててみても顔を顰められただけだった。身振り手振りも加えて自分の名前、住所、生まれた街の名前なども伝えてみたが、警官は首を横に振るばかりだった。

 会社や駅がそのままなのだ、自分の住まいや戸籍があるはずと期待していた男は、社会からぽつんと切り離された気がした。


 ふと、学生時代に教師が熱弁していた「自分が自分であることの証明方法」について思い出した。


「自分が自分であることは、どのように証明するか」


「自分のことを誰も覚えていない。家族すらも。その状況で、どのように自分を証明するか。お前らも考えてみろ」


 教師はその後何と言っていただろうか。

 会社の人間は男の顔を知っているようだった。おそらく"男"の名前も知っているだろう。

 しかし、果たして電車に乗って会社に通っていた一人の人間の名前が分かったとして、それは同一人物――自分だと言えるのだろうか。

 もう、わけが分からなかった。

 

 この悪夢は日が変わっても、朝目覚めても終わらなかった。

 日本語は男の世界に戻ってこなかったのである。

お読みいただきありがとうございました。

シニフィエ/シニフィアンのシニフィアンが置き換わってしまった感じです。

言語って重要です。でも一朝一夕でうまくなるもんじゃないです。

だからこの島国の孤立言語を学んでくれている希少な人を無暗に叩くのは、個人的には嫌だなあと思います。

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