天邪鬼な僕と嘘をつけない彼女
嘘をつけない人生はきっとひどく息苦しい。けれどそんな在り方に惹かれる者だっている。
『いいかい。嘘は人を駄目にするんだ。人間関係を破綻させちまう。だから決して、嘘をついてはいけないよ』
それが、おばあちゃんの最期の言葉だった。濁った、けれどどこまでも真っすぐな目で見て告げられたその言葉に、私は強く頷いた。
「わかった。約束する」
私の言葉を聞いて満足そうに笑ったおばあちゃんは、静かに目を閉じた。細くて冷たい手が、私の手のひらの中から零れ落ちた。
お母さんが静かに泣く声を聴きながら、私はいつまでもおばあちゃんの言葉を頭の中で繰り返していた。
嘘をついてはいけないよ――
◆
僕はこいつが嫌いだった。
柊コトハは、清廉潔白なやつだった。
自分が正しいと信じて疑わなくて、他人に自分の価値観を押し付けるやつ。そして何よりも腹立たしいことに、柊は一切嘘をつかなかった。
先生に内緒にしておけと言えば、必ず柊は馬鹿正直に報告した。先生に尋ねられなくても、だ。
だから柊は、僕たちの敵だった。
許しがたい悪、告げ口マン。馬鹿正直女。
どれだけ悪口を言っても、「あなたたちが悪いのよ」と彼女は告げた。
確かに僕たちは悪かったかもしれない。けれど、変な柊だって、クラスの輪を乱す悪い奴だ。
だから僕は誓ったのだ。僕は、柊の敵だと。許しがたい悪である柊を、僕だけは決して許さないと。
柊との戦いを誓ってから、はや三年。僕たちは中学生になっていた。
相変わらずクラス委員長として馬鹿真面目に活動をする柊は、けれど最近、女子たちを味方に得ていた。
なんでも僕の言動はあまりにも度が過ぎているのだとか。
一体僕の何がおかしい?ガキみたい?馬鹿?うるさい?
「僕がガキならお前たちもガキだな」
そういえば、彼女たちは顔を真っ赤にして僕に罵声を浴びせた。
けれど柊だけは、いつも涼し気な顔をして僕を見ていた。その目は僕を見ているようで、けれど多分、僕の姿を映してなんていなかった。
残暑が厳しいある日、僕たちは男連中で連れ立ってだらだらと廊下を歩いていた。
その時聞こえて来た声に思わず僕は眉をひそめた。
「……あ、斯波センか?」
斯波直哉。口先だけのやかましい奴。僕の中では、柊以上の敵となった奴だった。
「どうするよ、樹。しばくか?」
「放置でいいだろ、面倒な」
言いながら、僕はさっさと教室に入ろうとして。
ふと、斯波センに怒鳴られている女子の姿が目に留まった。真っ白な肌をした柊が、そこにいた。
知りません、わかりません、私は見ていません――繰り返すたびに、斯波センの口調が激しくなっていく。
話を聞く限り、社会科準備室にしまってあった僕たちのクラスの文化祭用の作品が倒れて、準備室の備品が壊れてしまったのだという。
謝罪をする気配がない柊を前に、とうとう斯波センの頭の血管が切れる音がした。
「この!嘘をつくな!」
瞬間、沸騰するような思いが溢れた。柊が、嘘をつく?アホか、そいつは馬鹿が付くほどの真面目女なんだ。柊が嘘をつくはずがない。そもそも、柊一人を責めるのはおかしい。文化祭関係の物が理由で学校の備品が壊れたのなら、その責任は文化祭委員にあるはずだ。それがどうして柊を責める理由になって、しかも柊の人格を否定するような罵声を浴びせることになるのか。
そう、柊にとって、嘘とは人格の否定のようなものだ。
斯波センが手を振り上げた。体罰――と考えるよりも前に体が動いていた。斯波センの腕を握りしめる。
「な、佐竹!何をする!?」
気づけば僕は、柊と斯波センに割って入っていた。深呼吸一つ。それから、斯波センを睨み返す。
怯んだような声が、斯波センの口から洩れる。
はは、いい気味だ。柊を殴ろうとし、あまつさえ柊を嘘つき呼ばわりした罪は重い。
できる限り悪の顔を意識する。頬を吊り上げ、僕は斯波センにすごむ。
「なぁ斯波セン。その地球儀、多分僕が折ったわ」
「な、ぁっ!?」
二人の話に上っていた被害を、僕のせいだと告げる。嘘だと、どうせすぐにわかる。だが、どうでもいい。むしろすぐに嘘だとばれて、無実の人間を罵倒したと斯波センが非難を浴びればいい。
このクソ野郎には、それくらいの罰があってしかるべきだ。
「なぁ、で、どうした?罪のない柊が、壊したことを隠したってか?はっ、オツムが弱いんじゃねぇのか?社会科準備室の扉と同じくらい馬鹿だな」
頭の血管が切れた音がした。斯波センが僕の頬を張った。
乾いた音が廊下に響き、斯波センが少しだけ我に返った顔をした。その顔が、すぐに青ざめる。
「気が済んだか?暴力教師?」
「な、これはお前が俺を煽るから……」
「馬鹿言うな。どんな理由があったとしても、体罰は体罰だ。それにお前、柊のことも殴ろうとしていただろ、なぁ!?」
一歩を踏み出し、睨む。斯波センが後じさりする。彷徨う視線が、無数の生徒の姿を捉える。非難の目に耐えかねて、斯波センは同僚の教師が騒ぎを聞きつけて来るまで「違うんだ」などと繰り返しつぶやいていた。
「痛ってぇ……しみるな。それに説教が長すぎるんだよ。事情説明じゃなかったのかよ」
途中から説教に変わった報告会はとうとう一時間続き、完全下校時刻ぎりぎりになっていた。外は西日が差し、うす暗くなった廊下を歩くのは僕一人だった。
頬をさすりながら入った先、教室にはただ一つ人影があった。
「……なんでまだ帰ってないんだよ」
てっきり誰もいないと思っていたそこには、窓の外の景色を眺める柊の姿があった。
振り返る柊の肩の上で、切りそろえられた黒髪が揺れる。真っ黒な瞳が、僕を捉えた。
その目が、苦手だった。全てを見透かすような、じいちゃんと同じような老獪めいた視線。
「……何か用か?」
「地球儀を壊したって、嘘でしょ」
「嘘だったら何だってんだ?」
嘘だというのは事実だ。何しろ昨日、僕は学校に来ていない。どうにも体調が悪くて、朝から病院に行っていたのだから、昨日壊れた地球儀には何の関係もない。
「どうして、嘘なんてついたの?」
「あのままだと文化祭の準備が進まなかっただろ?だからまあ、お節介みたいなもんだよ」
眉間に深いしわを寄せた柊が睨む。溜めた人差し指が俺の額を弾いた。まぁ、痛くはなかった。
「何すんだよ」
「嘘はついちゃだめなのよ。嘘は人をおかしくするの。人間関係を狂わせるの。嘘をつき続ければやがて心が嘘を本当のことだと思っておかしくなってしまうの。それに、嘘という逃げを覚えると、それが習慣になってしまうの」
「……へぇ、つまり僕を心配してるってこと?」
「そう。同級生が嘘つきなのは心配」
淡々と告げる柊の顔に、感情はうかがえない。何を考えているかわからないところが気持ち悪くて、けれど柊はそういう奴だとわかっているから、今更怖いとは思わなかった。
「どうして、嘘をついたの?」
柊の真っ黒な瞳を見ながら、考えた。本当のことを言ってもいい。お前を嘘つき呼ばわりしたあの野郎が気に食わなかったと。けれどそれはなんだか、つまらない気がした。
ああ、つまらない人間は目の前にもいた。いつだって表情を動かさず、心も動かさないような冷徹人間。嘘の一つもつけない機械のようなコイツを驚かせてみたかった。
「ねぇ、もしかして佐竹君って、私のことが好きなの?」
返事を、探す。好きかと問われれば、嫌いだった。けれどただ正直にそう言っては、面白くない。
「……そうだ。僕は、お前を、柊を好きだ。だから嘘をついた。お前をかばった。それだけだよ」
気づけばそんなことを言っていた。
期待した。少女のように頬を赤く染めた姿が見られるんじゃないかって。せめて動揺くらいはするんじゃないかと、そう思った。
むしろ、僕のほうが恥ずかしかった。言ってから、なんてこっぱずかしいことを言っているんだと激しく後悔した。
「……そう」
ただそれだけ、柊はつぶやいた。
窓から吹き込んだ風が大きくカーテンを揺らした。西日が射しこみ、電気の消えた教室が明るくなる。
ただ無駄に僕が恥ずかしくなっただけかと、そう思いながら机に向かい、鞄の中に荷物を詰め込む。
「……わかったわ」
「何が?」
突然口を開いた柊へと、鞄を背負いながら振り返る。やっぱり感情のうかがえない顔で僕を見ていた柊が、口を開く。
その淡い唇の動きは、スローモーションのごとく視界に映った。
「付き合いましょう」
「…………は?お詫び行脚にか?」
「違う。異性として、あなたと付き合うと言ったのよ」
「どうしてそうなる?」
頭が痛かった。頭痛が痛いと表現してもいいかもしれなかった。自分とは価値観の違う異星人を前にしているような気持で、僕は柊の言葉の続きを待った。
「私は、使命を感じたの。嘘つきなあなたを、私が矯正してあげるわ」
「いや、別に矯正してもらう必要はないな。それに、お前が好きだって言ったのは嘘だ」
「嘘。気恥ずかしさを今更誤魔化す必要はないわよ」
「だから好きだっていうのが嘘なんだよ!」
「怪しいわね。ここまで必死に否定するということは、やっぱり私のことが好きなんでしょう?男の子は異性に振り向いてもらうためにいたずらをするというし、私につっかかってきていたのも、私のことが好きだからだったんでしょう?」
「僕はそんなガキじゃない」
「まあそんなことはどうでもいいのよ。私はあなたを矯正する必要を感じた。関わる上で、恋人関係というのは都合がいいの。だから恋人になりましょう?」
それだけ告げて、柊は自分の荷物を持って教室から出て行った。
「何だよあいつ……やっぱり訳がわかんねぇ」
そうして僕は、柊コトハと恋人関係になった。
◆
佐竹樹という人間は、一言で言えばガキだった。承認欲求が強い子ども。自分を見てほしくて、認めてもらいたくて、どうでもいい嘘を重ねる男の子。
まるでオオカミ少年のようだと思った。やがて彼は、自らのついた嘘のせいで破滅する。その破滅が、許せなかった。私の見ているところで嘘を重ねて駄目になっていくのを黙って見ているなんて、おばあちゃんに顔向けできなかった。
だから私は、佐竹君と付き合い始めた。
佐竹君は、私と恋人関係になったことを言いふらしたりはしなかった。正直、予想外だった。彼のことだから、クラスの皆の前で私との関係を告げると思っていた。クラスでも目立つタイプの自覚がある私と恋人関係になったという情報を広めれば、多くの人たちが私と彼を見る。
他者の視線を求める彼はそうするだろうと、私は根拠もなく考えていた。
けれど、佐竹樹という人物は、私が想像していた人とは少し違った。
例えば、佐竹君は勉強に関してはひどくまじめだった。提出物はしっかりこなし、授業態度も悪くない。その一方で休み時間などは男子で集まって下品な言葉を重ねたり、明らかな嘘を平気でついたりする。授業外での先生への態度も良くない。
かと思えば、並んで下校する際にはさりげなく車道側に立って私を守るようなそぶりを見せる。ああ、これは私のことが好きだからだろうか。でも、多分違う。
佐竹君は、多分本音を言えないタイプだ。いつだって自分の想いは心の中に隠し、口先だけで言葉を交わす。
だから、佐竹君の言葉は誰の心にも届かない。
けれど、なぜだろうか。斯波先生から私をかばった際の佐竹君は、本気だった気がした。
私には、佐竹君が分からない。別に、わかる必要はないのかもしれない。
けれど、知りたいと思った。どうして平気で嘘をつくのか。それが分かれば、彼を矯正して、嘘をつかないようにすることもできるのではないかと思う。
◆
付き合ううちに、柊もまた人間であると思えるようになった。
別に機械だと本気で思っていたわけではない。ただ、自分とは価値観が相容れない異国人、あるいはどこか感情の壊れた奴だとは思えなくなった。
柊コトハという人間は、負けず嫌いで、意地っ張りな奴だった。嘘をつくのが嫌いで、言葉を嘘にしないために本当の努力をする。
「今回の定期テストではどれくらいとるつもりだ?」
それは何てことない、ありふれた下校時の一幕のことだった。季節はもう冬に差し掛かっていて、このころになるとクラスで僕と柊が付き合っていることを知らない生徒はいなくなっていた。
まあ隠しもせずに付き合っていたから、噂が広まるのは一瞬だった。
最初は柊が僕に脅されているんじゃないかなんて不名誉なうわさが広まった。けれどすぐに、僕のことを生温かい目で見るようになった。
多分、僕のことを本音が言えない天邪鬼、好きな子に強く言ってしまう男子だと思ったんだろう。
そこは流石に否定しておいた。僕はそもそも柊のことが好きじゃないって。
けど、連中は一層砂糖を口に詰め込んだような顔をして、ぽんと僕の肩を叩いてきた。これは嘘じゃない。僕は柊が好きじゃないし、付き合おうと言ってきたのは柊の方だ。
どれだけ言いつくろっても、うんうんと頷くクラスメイトが僕の言葉を受け入れることはなかった。
なるほど、オオカミ少年はこんな思いだったのだろうか。暖簾に腕押し。僕は絶望にうなだれるしかなかった。
そんなわけで可哀そうな奴扱いされた僕はクラスの弄られキャラとして、大手を振って柊と関わっていた。
「定期テスト?……そうね、学年五位くらいを目指そうかな」
「五位?一位じゃないのか?」
「一位はすごい人がいるから。でも多分、五位でも樹よりは上でしょ?」
「……言ったな?じゃあ僕はコトハ以上の点数を取ってやるよ。これでお前は嘘つきになるな」
「嘘つきにはならないわ。だって、私は樹より高得点を取るんだから」
こうして、僕たちは勝負を始めた。それから定期試験までの二週間、僕はこれまで以上にがむしゃらに勉強した。
心の中は一つだった。どうにかして柊の鼻を明かしたい。嘘をつけない潔癖な柊を、変えてやりたい。勝負のことを話せば、友人は「恋人を自分色に染めたい」ってことかと言いやがった。違う、そうじゃない。僕は柊の嘘をつかないという在り方が気に食わないだけなんだ。
そう言いつくろっても、やっぱり生温かい視線が向けられるだけだった。
「……嘘」
二週間が終わり、テストの結果が返って来た。成績を示す小さな紙片には、五教科の点数と総合点、そして総合点の学年順位書いてあった。
僕の順位は三位、そして柊の順位は四位だった。
どうだ僕の勝ちだと胸を張って柊を見て――僕の思考は止まった。
大きく目を瞠った柊の瞳から、とめどなく涙があふれていた。周囲から刺すような視線が突き刺さっていた。
「お、おい?どうした?」
「……嘘、ついちゃったのかな?」
ああそうだ。僕はすっかり忘れていた。柊は、とことん融通の利かない奴なのだ。柊は決して嘘をつかない。決意の言葉を現実に変えるべく努力を重ね、彼女曰く、これまで決して嘘をついたことはないのだとか。
今回だって、柊は目標の学年五位、そして僕よりも上の順位を目指して、がむしゃらに努力をしたはずだ。柊はそういう奴だ。だから五位よりも上の順位をとって、けれど僕よりも順位が下だった。
柊の中で、この事実は、自分が嘘をついたことになったのだ。
泣き続ける柊を前に、僕は必死に言葉を探した。掛ける言葉は、見つからなかった。だって、僕と柊は一応恋人関係とは言え、互いが互いを理解できない、相反する立場にいる存在だから。
僕には、テストの結果が泣くほどのことだとは思わない。けれど、柊にとっては泣くほどの、それこそ自分という存在が揺らぐほどの衝撃だったのだろう。
その翌日、柊は学校を休んだ。僕の記憶の中では初めてのことだった。
◆
嘘をついてしまった。人生で初めての嘘。
ううん、多分それは、嘘と呼ぶようなものではないのだと思う。学年五位というのは目標、そして樹より順位が上だろうというのは、客観的な数値から予測される事柄だった。前回の試験で学年二十位だった樹より、学年八位だった私が順当にいけば上だろうという、ただそれだけの言葉だった。
けれど売り言葉に買い言葉で樹は私に勝って見せると告げ、そして私の順位を上回った。
それは、賞賛すべき努力と結果だった。樹は私の予想を上回った結果を出して、私は敗れた。
できるだけの努力はしていた。余暇の全てを勉強に注いで、それでも負けた。
それが事実で、けれど、私が告げた「樹より上の順位」という言葉は、嘘になった。
嘘、なのだろうか。少なくとも、正しくない。未来を予想した言葉が嘘に当たるのかどうかはさておき、その結果は、私の心を激しく揺さぶった。
嘘をついてしまったかもしれないという事実に、私は恐怖した。
何より、樹の努力を賞賛せず、私に嘘をつかせたとして彼を憎む気持ちを持ってしまった自分が、許せなかった。
合わせる顔が無くて、私は学校を休んだ。
けれど、恋愛感情が無くても恋人である樹は、学校を休んだ私をたずねて来た。
樹を入れないで、会いたくないという私の言葉をきれいに無視して、お母さんは家に樹を招いた。流石に、私の部屋の鍵を開けて、部屋の中に樹を入れることはなかったけれど。
扉一枚を隔て、私と樹は無言の時間を過ごした。
やがて、樹はぽつりと「悪かった」と告げた。
「違う!」
自分でも驚くほど鋭い声が出た。涙があふれて、視界がにじんだ。
違う、違うのだ。樹は間違っていない。間違っているのは、おかしいのは、私なのだ。私がもっと努力をすればよかったのだ。私が、ただ樹を賞賛すればよかったのだ。私は負けた。努力が足りなかった。今度こそ宣言が嘘にならないように努力すればいい――それなのに、私はこうしてうじうじと部屋に引きこもっている。
自分が、嫌いになりそうだった。嘘をついたことがないという誇らしさも、もう感じられなかった。
私は自分がどれほど心の弱い人間だったか思い知った。
「コトハ。お前は嘘なんかついてないぞ」
扉のすぐ先で樹が告げる。嘘だ、と私はその言葉を否定する。
「嘘じゃない。だって、お前が語ったのは未来のことだっただろ。僕よりも上の順位になってみせるっていう、宣言だった。不確定な未来を確実なものにするために、お前は頑張っただろ」
「……確かに、頑張ったよ」
そうだ。私は頑張った。できる限りの時間を勉強に当てた。それでも、勝てなかった。樹は私の上を行った。私の言葉は、嘘になった。
「お前は、自分の宣言通りの未来を手に入れるために努力をしたんだ。まずはその努力を誉めろよ。認めろよ。自分は頑張ったってさ」
「でも、嘘だった。嘘になった」
「だから嘘じゃないんだよ!お前は言葉通りに努力した。言葉通りに動いて見せた!お前は嘘をついてない!お前は僕と違って、嘘つきじゃないんだよ!」
いいや、私は嘘つきだ。嘘つきの、はずだ。だから私は、罰を受けないといけない。私は、駄目になるんだ。私は、友人を失ってしまう。
足場が崩れていくような感覚があった。一歩扉の外へ出てしまえば、全てが終わってしまう。私が積み上げた、「嘘をつかない人」という在り方が崩れしまう予感があった。
とん、と扉を軽くたたくような音がした。樹のくぐもった声が、大きくなる。多分、彼は扉にもたれている。
「たとえ決意の言葉が現実のものにならなくても、嘘にならないように努力したことが大切なんだよ。何度だって言ってやるよ。お前は嘘をついていない。お前は立派だ。嘘をつくまいとするお前は、人間として正しいよ。嘘つきな僕なんかより、ずっとな」
どこか自嘲めいた声で、樹は告げた。
「……嘘つき」
「ああ、嘘つき呼ばわりついでに嘘を重ねてやるよ。僕はお前が好きだ。柊コトハが好きだ。お前と言い合いをする時間が嫌いじゃない。お前と一緒にいると、自分の枠が広がるような感覚があって面白いんだ。お前がいると、僕はもっと努力しようと思う。そう思わせてくれるお前と、これからも、いつまでも、一緒にいたいんだ」
ほら、彼はやっぱり、嘘つきだ。嘘を重ねてやると言いながら、今の言葉には全部、心が載っていた。彼の思いが、溢れていた。
「好きだよ、樹」
「……そうかよ」
小さく告げた樹から、身じろぎの音がする。
どさ、と倒れるような音がした。眠かったのだろうか。学年二十位から三位になるために、それはもう大変な努力をしたのだろうと思った。そんな樹をほめるべく、膝枕でもしてあげようかと考えて、扉を開いた。
樹は、動かなかった。青ざめた顔をしかめていた。苦しそうに、荒い呼吸をしていた。
「……樹?」
呼びかけても、返事はなかった。
悲鳴が、喉を震わせた。
それから先、私はほとんど何も覚えていなかった。ただ、気づけば病院にいたことだけは、覚えていた。
◆
昔から、心臓に病気を抱えていた。移植手術なしに長く生きるのは厳しいと言われていた。
体に負担がかかること――例えば運動することや、激しく怒るなんてことは避けるべきだと、医者から言われていた。
僕が平気で嘘をつき、飄々としたふるまいを心がけるようになった理由の一因は、きっと体の弱さがあったからだろう。
「何て顔してんだよ」
濃い隈を目元に浮かべたコトハは、うめくように何とか笑顔を取り繕って見せた。その笑顔には、彼女があれだけ嫌っていた嘘があった。必死に取り繕った顔が、嫌いだった。泣いてもいいから、本当の顔を見せてほしかった。けれど気遣い屋なコトハは、少しでも僕に不安を与えまいと、微笑を浮かべ、学校のことを面白おかしく語った。
気づけば日々は過ぎ去り、春が来ていた。僕は、冬のあの日、コトハの家で倒れてから、学校に行けていなかった。
病室の中は、時が過ぎるのが異様に遅く感じる。代わり映えのしない日々。変わる窓の外の景色。心臓が痛む。薬のせいか力の入らない体が、死を告げていた。
少しずつ、命の灯が消えかかっているのを感じていた。それを隠しながら、僕も笑って柊と話した。
日々が過ぎる。終わりが、近づいていた。
その日、コトハの顔には覚悟があった。多分、僕がもう長くないことを改めて誰かの口から聞いたのだろう。沈鬱そうな顔をして、コトハと入れ替わりに出て行った母さんが話したのかもしれない。全く、コトハにそんなことを話す必要はないだろうに。
コトハは、これからも生き続けるんだ。コトハに、僕の死という重荷を負わせる必要なんてない。なのにどうして、話すんだよ。どうして、コトハにそんな顔をさせるんだよ。
駄目だ、コトハは、そんな顔をしていちゃだめだ。だって、コトハは、嘘をつかない人だから。どこまでも真っすぐなコイツに、そんな顔をさせるなんて僕が許さない。
「なぁ、コトハ」
窓の外を見ながら、告げた。「何?」とコトハが聞き返す。心臓が痛んだ。いいや、心が、痛んだ。こんなこと、言いたくなかった。けれど、コトハのためだから――
「僕は、お前のことが好きでもなんでもなかったよ。でも、ただ、お前の生き方に憧れたんだ。憧れてしまったんだ。羨んでしまった。それは、僕が諦めた道だから。だから僕は、どこまでも真っすぐなコトハが……」
嫌いだ。
そう告げた声は、震えていた。コトハを見ることはできなかった。言葉は、通じただろうか。どこまで、コトハに伝わっただろうか。
そっか、と静かにそう告げたコトハは、けれど言葉とは裏腹に、勢いよく走り出して病室から出て行った。
大丈夫。コトハはきっと、大丈夫。
多分泣いているだろうコトハを思いながら、僕もまた、頬を熱いものが伝わるのを感じた。
死が目前に迫って、僕はコトハの今後を必死に考えた。コトハは、弱い。人の悪意に鈍感で、人間の弱さにも疎くて、今にも心が飲まれてしまいそうで、ぎりぎりのところで綱渡りをしているような人だった。それでも、僕はコトハの在り方が、生き方が好きだった。僕がいつしか失っていた純粋さを、コトハは持ち続けていた。コトハには、失ってほしくなかった。
それは、僕のエゴだった。
だから僕は、最後の嘘をつくことに決めた。そして彼女に、僕のことなんて忘れて、真っすぐ生きて行って欲しかった。
あるいは、心のどこかで期待していた。半年にも満たない間、僕と関わって来た彼女なら、僕の言葉に気づくんじゃないかって。
僕の嘘の、その意味に。
◆
鎮静剤の効きが悪いのか痛みに苦しむ樹を前に、私はナースコールを押し、彼を励ましながら告げた。これが最後かもしれないと、そう思いながら。
「大丈夫だよ、樹。あなたがいなくなっても、私はちゃんと生きていける。前を向いて、生きていける。だからあなたは、自分のことだけ考えていて。あなたの言葉は、想いは、ちゃんと私に届いたから」
不安で、心細くて、樹がいない未来を想像するとどうにかなってしまいそうで。それでも私は、泣きそうになる気持ちを堪えて、すべてを口にした。
私の声が聞こえていたのかどうかはわからない。わかることはなかった。けれどその時、樹はふっと痛みから解放されたように、私に笑いかけた。
もう大丈夫だな、か、ありがとう、だろうか。そんな笑みを浮かべる樹に、私も精一杯の気持ちを込めて告げた。
「大好きだよ」
それが、樹と交わした最後の言葉になった。
◆
僕は、コトハに嘘をついた。僕はいつからか、コトハのことが好きになっていた。
けれどコトハに、僕のことなんて忘れて前を向いてもらうために、僕は彼女にひどい言葉を投げた。嫌いだなんて、嘘をついた。
コトハが傷つくことを思えば胸が張り裂けそうだったけれど、この言葉がどれだけコトハを傷つけても構いはしなかった。だって、痛みの強さだけ、コトハが僕を想ってくれているのだから。
あるいは彼女が僕を嫌うほど、僕という天邪鬼の在り方を否定する感情が強くなるかもしれない。そうすれば、きっと彼女は、変わらず嘘をつかない人であり続けると思う。
僕が憧憬と共に見て来た、真っすぐな彼女のまま、生きていってほしい。
けれど同時に、こうも思うのだ。「嫌い」というその言葉が、彼女を突き放すそれが、僕にとって精一杯の、彼女を想っての嘘であることに、コトハは気づくかもしれないなんて。
そうして彼女は、僕の強い想いに涙するのだ。
ああ、なんか考えるだけでも恥ずかしい。
コトハは、僕の嘘に、気づくだろうか。
優しい嘘だと、わかるだろうか。
どうか優しくて芯の通った強いコトハが、そのままでいてくれますように。