日本中が涙した、ある映画泥棒の最期
「どうしておれは捕まらなければいけないんだ?」
これは、彼が逮捕される瞬間に警官に向かって言った言葉である。
「お前なんか生まれてこなきゃよかったのに……」
彼は運が良くなかった。彼が生まれたのはとても貧しい家庭だ。小さな家で母と二人暮らし、父はいない。そもそも誰が彼の父なのか、母もわかっていなかった。
彼の母は子どもが嫌いだった。いや、大嫌いだった。そのため、彼は一度も親からの愛を受け取ったことがなかった。もちろん幼い頃から名前を呼ばれたことも一度もなく、いつも「お前」と呼ばれていた。そして一日に何度も何度こう言われた。
「お前は間違いで生まれた子だ。お前なんか生まれてこなきゃよかったのに……」
何年も何年も言われ続けた結果、彼はいつの頃からか「おれは間違いで生まれた子なんだ」と思うようになった。
「学校に行きたきゃ勝手に行けばいい。行きたくなければ行かなければいい」
小学一年生になった彼が最初に母に言われた言葉だ。彼の母は彼に興味がなかったので、一度も勉強をしろと言うことはなかった。そのため彼はまともに勉強をしたことがなく、勉強する気がないので、教科書をまともに読んだこともない。学校に行っても授業中はほとんど寝て過ごした。
そもそも彼にとって学校とは給食を食べる場所でしかなかった。朝起きて給食が食べたいと思えば学校に行き、思わなければ学校を休んだ。友達はおらず、学校に行ってもいつも一人、教室の端で空を眺めていた。
学校行事には参加したことがなかった。みんなで何かをするということが面倒だったので、彼は全ての行事をサボった。
たまに教育熱心な先生が彼をなんとかしようとしたが、彼自身現状に不満がなかったので教師の思いが届くことはなかった。何人もの教師が彼に手を差し伸べようとしたが、例外なく皆諦めて彼の側から去っていった。
「お前のせいでパチンコで三万もすっちまったじゃねえか!」
彼は中学を卒業する四日前に家を出た。母が連れてきた新しい彼氏がいつも通り自分勝手な人間で、家にやってきたと思ったらいきなり彼の顔面に右ストレートを放った。彼は殴られたことに腹が立ち衝動的に家を飛び出した。
家を飛び出した時は二時間ほど外で時間を潰したら帰ろうと思っていた。しかし、母の彼氏の顔など二度と見たくないと思いこのまま家を出ることを決意した。
家を出た当初はコンビニや公園のベンチで夜を凌ぎ、各地を転々としながら生活していた。金がないので掏摸や万引きなどの犯罪を繰り返し、何とか日々生き延びていた。彼は犯罪を犯すことに対して抵抗がなかった。なぜならそれをしなければ生きていけないので、生きるための仕事と思っていた。
幸か不幸か彼は器用だった。完全に独学だったが、彼は盗むのが上手かった。証拠を残すことなくやり遂げ、怪しまれそうになったらその地を後にする。学はないが勘が良かったため、一度も捕まることなく経験を積んでいった。家を出て二年経つ頃には、金に余裕のある生活ができるようになっていた。
「おれから財布を取ろうとするなんて、お前なかなかいい度胸してるな」
彼が十八歳になった時に転機が訪れる。よく晴れた真夏のある日、彼は大通りですれ違いざまに色黒の男から財布を盗もうとした。
ズボンのポケットから財布を抜き取ろうとしたその瞬間、彼はぐいっと色黒の男に腕を掴まれ、そのまま路地裏に連れて行かれた。そして何度も何度も殴られた。
痛かった。過去に母の彼氏と名乗るいろんな男に殴られたが、彼らの暴力が可愛く思えるぐらい色黒の男の拳は強かった。彼は殴られながら、どうしてバレたのだろう、と不思議でたまらなかった。いつの間にか痛覚は麻痺しており、殴られながら自分がバレた理由ばかり考えていた。
何発も何発も殴られ過ぎて顔の形が変わり果てた頃、色黒の男は殴るのをやめた。
「お前、まだ意識はあるな。最期に何か言い残すことはあるか?」
ぐったりと地面に横になる彼に色黒の男は聞いた。
「……どうして、おれが財布を盗もうとしたのがわかったのか……教えてくれよ」
彼はそう言うと意識を失った。色黒の男は、命乞いではなくミスの原因を聞いてきた彼に対して興味を持ち、彼を組織に連れて帰ることにした。
「ロク、お前は手先が器用だ。だから一回映画を盗撮してこい」
彼は男に組織に連れて行かれ、そこで怪我の治療を受けた。そして怪我が治ると彼は組織で働くことが決まった。彼は組織で「ロク」と呼ばれた。理由は簡単だ。彼が色黒の男に拾われてきた六人目の男だったからだ。
ロクは組織がどういうものかよくわかっていなかった。なんとなく真っ当な仕事をしているわけではなさそうだと思ったが、あまり気にしていなかった。ロクは組織にいる大半の人間から自分と同じような匂いを感じていた。そのため組織はロクにとってとても居心地の良い場所だった。
ロクが組織に来て二ヶ月が経ち、怪我をしていたことをすっかり忘れた頃、色黒の男に呼び出された。そして撮影機材と一緒に映画のチケットを渡された。
「前の撮影担当がヘマして消えてな、今代わりを探してるんだ。ロク、お前は手先が器用だ。だから一回映画を盗撮してこい」
ロクは撮影なんてしたことはなかったが機材を見た瞬間、これは自分が得意な領域だと感じた。ロクの目が生まれて初めて輝いた瞬間だった。
映画館に行き映画を盗撮する。ロクが初めて盗撮したのは全米が大絶賛したというある少女のサクセスストーリーだった。映画によってロクの心が動くことはなかったが、映画を盗撮するという行為に何故かロクの心は震えていた。
初めてロクが盗撮した映像には雑音やブレがなく、かなり質が良かった。この日から映画を盗むことがロクの仕事になった。
「お前の撮ってくる映像は質が高くて評判がいいんだ」
ロクが映画を盗むようになって半年が経った頃、色黒の男が言った。ロクはこれまで人に褒められたことがなかったのでどう反応すればいいのかがわからなかった。
「何にニヤニヤしてるんだお前? 気持ち悪いやつだな」
色黒の男はそう言いながらも、ロクの嬉しそうな顔を見てつられてにやけていた。色黒の男も複雑な過去を持っていたので、ロクの気持ちが分からないわけではなかったのだ。
ロクは映画を盗むことで組織に貢献した。組織もロクを使える人材と判断し、そこそこいい待遇をしてやった。ロクはいつの頃からか自分のことを「映画泥棒のロク」と名乗るようになり自分の仕事に誇りを持つようになっていった。
ロクはその頃から自分のことを「間違いで生まれた子」だとは思わないようになっていた。
「すみません、ちょっと鞄の中を見せてもらえませんか?」
人生とは何が起こるかわからないものだ。昨日までの日常が、がれきの様に突然音を立てて崩れることもある。映画泥棒のロクの逮捕はとても呆気ないものだった。ビルの屋上を駆け抜ける逃走劇なんてものはなく、映画館のロビーであっさりと捕まった。そもそもロクは逃げようとすらしなかった。
ロクは組織に捨てられた。
盗撮動画の違法配信に対する取り締まりが強化され、組織は盗撮動画の配信をやめることにした。しかし、やめるのが少し遅かった。
組織は警察に賄賂を渡していた。しかし、組織が想定以上に儲けていることを嗅ぎつけた警察は、もっと金を寄越すか首謀者の首を差し出せと迫ってきた。
組織は金を払いたくなかったので誰かに罪をなすりつけることにした。組織は考えた。誰を差し出すのが一番組織にとってダメージが少ないかを。そして答えはすぐに出た。学がなく、自ら映画泥棒と名乗る男にしようと。
ロクは当初何故自分が捕まったのか分からなかった。そもそも映画を盗むことに対して罪の意識が全くなかったため、まさか自分が捕まるなんて思っていなかった。だから、逮捕後に罪の意識がかけらもない人間を相手にした取調べがスムーズに進むはずもなく、取調室ではだらだらと時間が流れていった。
「おれは悪くない。おれは生きるためにできることをした。ただそれだけだ」
ロクは何を聞かれてもそれしか言わなかった。
「お前は組織に捨てられたんだよ!」
個人情報というものを全く持ち合わせていなかったロクを警察は持て余した。ロクは自分の本名も年齢も把握していなかったので、警察は組織にごみをつかまされたと怒ったが、賄賂を受け取った上に欲張りな要求をした立場上文句が言えないでいた。当然ながらそのストレスはロクに向けられ、毎日毎日取調室では怒声が響いた。
ロクに対して百八回目の、お前は捨てられたゴミ野郎だ、という暴言が吐かれた時、ロクの中で何かが変わった。
ロクはふと、何故自分はここで怒鳴られているのだろうと疑問に思ったのだ。特に理由はないが、ただなんとなく気になったのだ。そして突然自分が何者なのかが不安になった。
「なあ、おれは何者なんだ?」
ロクは警官に尋ねた。二週間続いた取調べでロクが唐突に、しかも初めて質問してきたので警官は驚いた。そして曇りのない真っ直ぐな目で質問してくるロクに対して警官は興味を持った。警官もロクがどういう人間なのかが知りたくなったのだ。警官はゆっくりとロクが覚えている限り古い記憶から順番に話すように促し、それを記録していった。
ロクの人生の記録内容は警官の想像を絶するものだった。しかし話している本人は特に気にしている様子もなく、自分の過去を何故か楽しそうに語っていた。辛いはずの過去を懐かしむように話すロクの姿に警官は心を打たれた。
記録をとりながら、警官はたくさんの人にロクのことを知ってもらいたいと思った。この感動をたくさんの人と分かち合いたいと考えたのだ。しかし、それと同時にもう一つ考えが浮かんだ。こいつをうまく使えばいい儲け話になると。
警官はロクに了承を得ることも、もちろん上司に相談することもなく、学生時代の友人に連絡を取ることにした。
「面白いネタがあるんだが使ってみないか?」
警官は物書きをしている友人にメールを送った。
『この夏、一人の男の人生に日本中が涙する……』
ロクの記録を下地に、警官の友人である作家は喜劇のように面白おかしく、悲劇のように物悲しく物語を紡いだ。そして、読んだ人の心に物語を深く刻み込むために、クライマックスは涙を誘う感動の展開にして一冊の本にまとめ上げた。
その本は書店員の間で瞬く間に話題となり全国の書店で平積みされ、出版不況をものともせずに作家の本は売れに売れた。作家はすぐに時の人となり注目を浴びた。そんな作家のもとに映画化の話が来るまでそれほど時間はかからなかった。
映画化の話は面白いほどスムーズに進み、なんの問題もなくクランクアップを迎えた。映画は新進気鋭の若手俳優が主演を務めたこともあり公開前からかなり話題になった。テレビ、動画配信サイト、SNSでも広告が流れ世間の期待値はどんどん上がっていった。
公開初日には全国各地の映画館の前に行列ができた。期待値が高くなり過ぎて映画を観てがっかりする人が続出するのではないか……そんな不安の声もあったが杞憂に終わった。公開初日三日間の興行収入は日本国内で公開された映画の観客動員・興行収入の歴代一位となり、映画の宣伝文句が嘘偽りなく事実となった。この映画によって本当に日本中が涙した。
映画は当初予定されていたよりロングランとなり、原作の本はさらに売れた。ほとんど無名だった作家の名前は、今では日本国内で知らない人がいないと言われるほど広く知れ渡った。
「名作って聞いたのにこの程度か……」
ロクは自分の話が映画になっていることを知らなかった。そもそも本になっていることすら知らなかったので知る由もなかった。
何年かの刑期を終えて刑務所を出たロクは、出所者を積極的に雇用している小さな町工場で働いていた。手先が器用だったのでロクは現場で重宝されていた。
ある日、職場で最近流行っている映画が話題になった。映画の話を聞いたロクは、組織での仕事としてでしか映画館に行ったことがなく、映画そのものを楽しんだことがなかったことを思い出し、試しに流行っている映画を観てみようと思った。もちろん職場で話されていたのはあのロクの記録を基に作られた映画である。
二時間の上映時間。ロクは寝ることなく最後までちゃんと観た。上映後、周りの観客は満足そうに席を立っていった。嬉々と感想を述べ合う者もいれば、中にはハンカチで涙を拭いている者もいた。ロクはそんな周りの観客たちの反応を不思議そうに眺めていた。全ての観客が劇場を出て行くまでロクは席を離れなかった。
「名作って聞いたのにこの程度か……金と時間の無駄だったな……」
ロクはクライマックス御涙頂戴の感動の展開に特に違和感を覚えた。途中まであったリアリティさがなくなり、無理に泣かせようとしてくるアプローチに苛立ちすら感じた。この日以降、ロクが映画館に足を運ぶことはなかった。
ロクが映画を観た数日後、映画の原作を書いた作家と物語の土台となったロクの記録をとった警官が、儲けの取り分で揉めに揉めた結果、裁判を行うことが週刊誌で報じられた。せっかくの輝かしい功績に、自ら泥を塗った彼らが世間から白い目で見られるようになったことは、最早言うまでもない。
「あれは本当に駄作だった」
ロクは映画を観た六年後に亡くなった。病気だった。晩年は町工場の社長がロクの面倒を見てくれた。病気が判るまでロクは町工場でしっかり働いていた。心優しい社長はロクのことをたいそう気に入っていて、ロクの病気がわかった時、社長の妻とともに最期まで世話をしてやろうと決めていた。
ロクの最期はあっさりとしていた。特に御涙頂戴の展開もなく、社長夫妻に見守られながら入院先の病院で静かに息を引き取った。
ロクは入院してから日記を書くようになった。理由は特にない。書いてみたくなったのだ。一日二行ほどその日にあった出来事や食べたものなど、簡単な内容を書いていた。
「生まれて初めてちゃんと観たあの映画、楽しみにしていたのにくだらなかったな。あれは本当に駄作だった」
ロクが亡くなる前日の日記には、丁寧な字でそう書かれていた。