夢から消えた少女
「おーい、苺! いねえのか!?」
その日の夜、眠った俺はいつものように夢空間の中にいた。
見渡す限りに広がる野原は見通しやすさを考えてのチョイス。
今の夢空間の広さは半径百メートル程の球体――遮蔽物はなく、この夢空間全体を見渡すことができる。
「まさか地中に隠れてる? それともまた大気に溶け込んでいるのか?」
こりゃあまたかくれんぼをご所望か?
そんなことを考えながら俺は意識を夢空間全体に行き渡らせて苺の気配を探る。
夢空間は空間全体が俺の体の一部のようなもので、自分の手足のようにコントロールすることができる。
いくら苺が肉体を夢に溶け込もませようとも、その存在を感知するのは簡単だ。
「おーい、いい加減出て来いよ! 今日は一日一緒に遊んでやるからさ!」
今日はラナナスとのライブもあったし、この前のファーストライブの後みたいに、苺になにかいい変化が起こってないかと期待していたのだが……。
苺は呼びかけに反応しない。
それどころかいくら気配を探っても苺の存在が感知できなかった。
おかしい……。
そう思うと同時に、胸の中がざわついて落ち着かなくなってくる。
こんな事、この一年間で今まで一度もなかった。
あの日、あの薬を飲ませた日から一日たりともこの夢空間から苺が消えるなんて事は一度も……。
確かに機嫌を損ねて何日か姿を見せない事はあった。
それでもこの空間のどこかにいるという気配は常にあった。
だが今はどうだ?
まるで存在がすっぽりと抜け落ちてしまったかのように苺の気配を感じない。
「おーい! 隠れてないでいい加減出て来いよ!」
焦りを押し殺しながら、俺は努めて明るい声で呼びかける。
だがやはり呼びかけても反応が無い。
不意に俺は夢空間の外に意識を向けた。
現実世界へと繋がる空間――夢と現実との狭間。
もしかしたら夢空間の外に?
そんな事を考えつつ何気なく夢空間のようにその空間に意識を浸透させようとして……。
なにか膨大な力に触れた気がした――。
背筋が寒くなり、怖気に身体が震えだす。
なにか腹の底からどす黒いものが込み上げてきて、俺を呑み込んでしまうかのような。
決して触れてはいけないなにかがそこにある。
俺は意識を夢空間に戻す。
そして今感じた恐怖を振り払うように、より声を張り上げて……。
「……」
「なんだ、いるんじゃねえか。まったく……びっくりさせるなよな」
背後に唐突に少女が現れた。
それは俺のよく知っている、毎日生活を共にしている家族の姿だ。
苺はいつものように無表情でこちらを見つめてくる。
俺はそんな彼女の前まで近づくと、そっと頭を撫でた。
「開会式も終わって俺達のブースもいいスタートが切れた。一段落もしたし今日は一日ずっと遊んでやるぞ。何して遊ぶ?」
俺の問いかけに苺は反射的に口を開きかけた……ように見えた。
今苺が何か喋ろうとした?
だがやはり声が発せられなかったのか、苺は口を閉ざしてしまう。
普段なら口を閉ざしたまま無言で見つめ返してくるだけだ。
それが今日は自分から積極的に意思を伝えようとしてくれた。
明らかな進展だ――。
ファーストライブの時以上に、苺から感情の機微が感じ取れる。
やはり今日のラナナスとのライブが刺激になったのかもしれない。
あの心を震わせる熱狂が、腹を打ちつける振動が、この少女に何らかの変化をもたらしたのかもしれない。
「……」
それからじっと苺の言葉を待ったがやはり声は発せられなかった。
草原に座り込むと、苺は俺の隣で緑の草の上に座った。
「今日は久々にラナナスとのライブだったな」
苺はこくりと頷く。
やはり反応が大きくなっている――いい兆候だ。
「予定外のステージと楽曲だったが、結果的にはあれで知名度も高まったし、ブースに人も大勢押し寄せたな」
苺は口元を緩める。
得意げか? やはりいつもより反応が分かりやすい。
ならばどんどん会話を試してみるか。
「グッズも飛ぶように売れたし、追加分も用意しねえとな。もしお金が溜まったら新しい音響機材を買うのもよさそうだな」
苺は再びこくりと頷く。
「新しいメンバーを探すのもいいな。そろそろオーディションとか開いてみるか?」
瞬きを返してくる。
苺は俺の言葉の一つ一つに反応を示してくれる。
それが嬉しかったからだろうか。
俺はついぽろりと不用意な事まで口にしてしまっていた。
「どうせなら巨乳の娘がいいなあ。お前もルエラも控えめだからな」
「むう……」
「……えっ? おい、今声出たか?」
苺が慌てたように両手で口を塞ぐ。
「いやなんで口塞ぐんだよ。もし喋れるなら喋ってくれた方が嬉しいんだが?」
「あ、ああ……、あっ……」
俺が顔を覗き込むと苺は口をゆっくりと開けて声を発しようとする。
だがその声は掠れてほとんど音にはならなかった。
俺は苺を抱きしめて頭を撫でてやる。
「よかった……声、出たな」
俺は嬉しくてつい抱きしめる力が強くなった。
俺の喜びが伝播したか、いつの間にか草原全体が綺麗な花畑に変化していた。
「あっ、うっ、あっ……」
「どうした? なにかして欲しい事があるか?」
顔を覗きこんで問いかけると、なぜか苺が顔を赤くした。
それと同時に不意に視界が霞んだ。
どうやら現実世界の俺の瞼に太陽の光が当たっているらしい。
眠りが浅くなっていくのが感じられた。
そろそろ起床の時間だ。
「んじゃ、そろそろ行くな。今日もしっかり練習だ。この調子で一回戦も突破してやるぜ」
夢空間が輪郭を失っていく。
「お前のためにも絶対勝ち上がってやるからな」
そうだ、ライブを重ねればこの苺だって回復していく。
だったらいずれはこいつを元居る場所に戻してやる事もできるかもしれない。
ならば苺の声と歌を取り戻す――!!
そう決意を新たにしながら俺の意識は現実へと浮かび上がっていった。
「……んっ?」
何かが廊下を走る気配がした。
朝から慌ただしいな、と思いながら廊下の方を見れば、部屋のドアが開いたままになっていた。
……まさか、またルエラか!?
以前寝ている俺の顔をじっと見ていた事があった。
その気配があまりにも禍々(まがまが)しかったからだろう。
夢の中の苺が教えてくれて起きてみれば、闇の中に爛々(らんらん)と輝く双眸があり、思わず悲鳴を上げたのはここ最近の話だ。
「この調子だとまた新しい盗撮カメラを仕込まれたかもな。あとでしっかりと部屋を調べておかねえと」
そう呟きつつ俺はベッドから出て伸びをし、窓を開ける。
今日は外がどんよりと曇っていた。
こりゃあ午後辺りから雨が降るかもしれない。今日は洗濯を控えるか。
それと苺が罠に掛かっていない。
まああれだけのライブをしたから、さすがに昨夜は満足して自分のベッドでぐっすり眠っていたのだろう。
「だったら二人に精のつく朝食を用意しねえとな」
最近は家計も潤ってるし、肉中心の料理でも出してやろう。
一回戦は近い――けど準備は順調だ。
最近はなにもかもがうまく回り始めている。
さて今日はなにをしようか、明日はなにを始めようか……。
こうなると考えるだけで楽しくなってくるな。
思えばこんなにうきうきとした気分で一日を始めるのはほんと久しぶりだ。
あの日からずっと……マイナスをゼロにする事ばかり考えていたからな。




