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その日は、部屋から書庫に行くまでの道すがら珍しく何も起きなかった。


常日頃マオ達異人をからかう暇な魔法使い達も居なかった。


新品の服を汚されずに済んだことにほっとする。

せっかくあの妖魔がマオにくれたものなのだから、できるだけこのままの状態で居たいと思うのだ。


コツコツと音を立てて階段をあがる。


書庫は分野ごとに部屋で区割りされており、階段の途中には休息できる場所が作られている。

普段はその場所に居座る魔法使い達がなにかしらしてくるので要注意なのだが…

少し開けたそこにはナノと名前の長いもうひとりが居た。

「マオ、珍しく小綺麗な格好だな」

「本当だ!似合うねぇ」

二人にそう言われマオは気恥ずかしげにこくりと頷いた。

気付いてくれたことが嬉しい。

「あの妖魔か?」

ナノは何故か満足気に頷いている。

さらりと揺れるナノの髪の色はマオの好きな黒だ。

「へぇ、うまくやってるんだ、良かったね」


ニコニコとナノの隣で笑う相手の名前をなんとか思い出そうとするが…やはり難しい。

「ローブが汚れていないのも珍しいな」

いつも、何かしらかけられて汚れているのがいつものマオのローブだ。


「だれにも会わなかったからな」


そう、今日は何故か塔のなかにほとんど魔法使いが居なかった。

いつも、態々遠くからこちらに近づいてまで、マオのローブを汚したり裂いたりする、この国の魔法使い達が居なかったのだ。


「ああ、今日はアイツが王城に証人として呼び出されているんだ。アイツの子飼の魔法使い達は保身に必死なんだ。だから書庫もガラガラだったな」

「アイツ?」

名を伏せられた相手が誰だか解らなかったマオは首をかしげた。


「この塔から出て王城に呼び出されるアイツといえば一人しか居ないだろ」

ナノは器用に片眉を上げながら嫌そうな顔をした。

ナノの隣でも同じように顔を歪めて

「この前マオをボコボコにした肉の、塊りみたいなアイツだよ」

と嫌そうに吐き捨てた。


「ああ、ロラン=レティエンヌか」


マオは思い当たった人物像の名前を口にした。


『え?』


目の前の二人の声が重なった。

あの醜悪といえる肉塊のような体をフウフウ言いながら揺らすあの男は、その外見とは真逆のような麗しい音の名前を持っていた。

マオは会うたびにその名前をつけた彼の名付け親の想いを考えて、なんとも言えぬ気持ちになる。

その想いを彼はどう、受け取ったのだろうかと。


「マオはアイツの名前を知っているのか?」

「ああ、ナノは見えないのか ?このあたりに浮かんで見えるだろう?」


マオはくるりと胸の中心にくるりと手で円を描いた。

実際は墨で描いてあるように見える訳ではなく光る魔力の線が、その者の名前を浮かび上がらせているのだけれど。

マオは二人の反応に困惑を深める。


「二人は見えないのか?契約者同士は名が見えるのだと思っていたのだが…」


戸惑うマオの正面に酷く真剣な顔をしたナノが回る。

「いや、基本的に契約者であろうとなかろうと、相手の真名は見えない。おそらくそれはマオの能力なんだろう」

「凄いよマオ!それじゃあ、マオのアイツとの契約はどうなっているんだろ?」

「真名の縛りそのものは有るんじゃないか?だが、俺たちとの契約とは違うのだろうな」

「違う?」

「ああ、アイツが異人と呼ぶ魔法使いを召喚するとき、必ず生け贄を何人か用意をしているんだ。マオも見てるだろ魔法陣に喰われた奴等を。あいつらが生け贄だ。

魔法陣に喰われた魔法使いの魔力は召喚対象に強制的に送り込まれる。それは世界を渡る際に再構築される魔力と混じり、召喚対象は急激な魔力の変化に酩酊状態になる。

意識が混濁した状態の召喚対象から強制的に真名を奪い不当な契約を結ぶ。場合によっては記憶そのものを封じる。だから召還された魔法使い達はあいつに逆らえない。」


「ナノや僕はまだマシだよ、真名の一部は奪われたけどあの不当な契約の一部をとっさにレジストする力があったからね。おかげで記憶の欠損が少ない。記憶は力そのものだからね。

おそらく、用意された生け贄の量と召還対象の魔力量の多さが酩酊度に影響するんじゃないかと僕は思うね」


なるほど。


「じゃあ、ロラン=レティエンヌは私の真名を奪えなかったんだな…私は真名を知らないから」


ロラン=レティエンヌという名前で二人がなんとも微妙な顔をした


「真名を知らない?」

「そう、私は一度も真名をよばれたことがない。私は幼い時に召喚されたせいで、そのあたりの記憶が特にあやふやなんだ。

使い魔と契約をしようと何度か真名を思い出そうとしたが、どうしても真名は思い出せなかった。

それで気付いたんだ、思い出せないんじゃなくて、そもそも私は真名を知らないんだと。

だから、私とロラン=レティエンヌとの契約は通り名で縛られている仮の契約に近いんだと思う」


ただ、マオという名が本来の名前の一部なのか、それとも記憶に強く残る狗も名前の一部なのか…


「私も幼かったし…訳のわからぬままに結んだのは確かだろうな」。


「マオはいくつの時にここに来たの?」

「私は8つか9つだった気がする」

ここにはずいぶん長くいるような気がするけれど…

「そんなに小さな時に来たの?僕はここに来てもう5年経ったな。僕が来たときには君が最古参だと言われてたよ」

そう言われて急に思い出した。


この魔法使いの名前がエルヴィロスだということを。

あの男。ロランがエルヴィロスを召喚したその場に自分も居たことを。


「あの頃、ここの魔法使い達は4年と持たないと言われてたから、マオがここに少なくとも7年間居ることは確実だね」


確かにそのくらい居てもおかしくはない。

エルヴィロスの言葉にマオはこくりと頷いた。

「ロラン=レティエンヌは…」

いくつの頃から召喚をしはじめたのだろうか?と言おうとしたマオの前でエルヴィロスはブフッっと奇妙な音を立てた。ナノも同じように奇妙な顔をしている。


「ぶはっ!あの、あの顔であの体でロラン=レティエンヌ!!」

大爆笑しているエルヴィロスの横でナノも机に手をついて口元を抑えている。

ひいひいと笑うエルヴィロスを見ながら、ぼんやりとここに七年も居るのかと思った。



7年という月日が長いのか短いのか…マオに判断がつかなかった。







「迷子になられた時は、そこから動かないでください。ひぃ様は私が必ず探しだしますから」


狗は真剣な顔でそう言った。


狗はある日を境に急に成長しはじめた。

最初は姫様とほとんど変わらなかった身長も今では狗の方が頭ひとつぶん大きくなった。

「狗は半魔だから仕方がありませんわ」とトノエは言う。


大きくなった分かくれんぼは下手になってしまった。



そんな狗をみて、姫様はもう少の間小さいままでもよかったのにという。

「大きくなったので前より遠くからでもひぃ様を見つけることが出来るようになりました」


狗が自慢気にそう胸をはると、姫様はくすりと笑った。

「妾も大きくなったそなたは遠くからでも見つけやすいからのう」

そう言って姫様は素早い動きで椿の木の後ろに隠れた。

枝振りの立派な椿の木は姫様をすっかりかくしてしまう。

「そなたが迷子になったときは妾が探してしんぜよう。迎えに行くまで臥してまつのじゃぞ?さぁ、十数えるのじゃ」


小走りでかけていく足音。


狗は言いつけ通り十数えて姫様の後を追った。

かくれんぼは始まったばかり。



ひぃ様、どこにいるのです?

ずっと待ていなかったから、見つけてくれないのですか?

それともまだかくれんぼが続いているのですか?



みつけて。



ここにいるから。

ここで待っているから。




迷子なのは……

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