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熱を出した次の日も体はどんよりと重いままだった。
おそらく妖魔がマオが寝ている間に大量の魔力を使ったのだろう。
しかも…
「具合がわるいっていうのにマオはついてないねぇ」
ならび歩くマオに気軽に話しかける少ない相手。
濃い灰色のローブの色は覚えるのに名前が覚えられない相手。
「僕はアイツは嫌いだよ」
嫌悪を露にする相手にマオは呼び出されたのだ。
この塔に異人の魔法使いを縛り付けている男。
召還した異人の魔法使いを使い捨てることとで今の地位を手にいれた男。
その魂まで汚している肥え太った男。
「僕はここで待つよ、帰りは担いでいってやる」
マオを見送る男の顔が、苦いものを食べたように歪む。
いい奴だなとマオは思う。
いい奴だけれど名前が長いのが残念だ。
「遅い!私を待たせるな!!」
扉を開けると同時に何かが飛んできた。
ガシャリと音を立ててマオの目の前で灰の入った香炉が見えない壁に当たって砕けた。
マオは、動じることなく礼をする。
男の悋気を感じて、じりじりと首輪が熱を持つ。
脅しでしかないが、命を握られている魔法使いにとっては十分に脅しとなる熱だ。
男はカツカツと靴をならしこちらに近づくと、マオの下げた頭を押さえつけた。
ローブ越しに髪の毛を捕まれる。
「先の召還をしくじったと聞いたぞ、召還した妖魔が客を殺めたと、どういうことだ?」
今さらか、とマオは思う。
この男の仕入る情報の遅さは致命的だ。
それに、死んだあの男は断罪された謀反を企てていた反王制派、そんな男の召還に応じたとあったら、この塔も中立などといってはいられないというのに。
まだその事に思い至らないらしい。
拝金主義のこの塔のことだ、山のように積まれた財宝に目が眩んだのだろう。
「客はどうなった、あの場で生きていたのはナノとお前だ」
マオが見たのは半分溶けていた姿だけだ。
そう伝えると、マオのローブを掴んだままの手がマオをブンと放る。
マオの体は呆気なく床に転がる。
「まったく、使えん奴だ。ならばお前の妖魔を出せ」
「できない」
「何?」
「陣が未完成で通常の契約に…なっていな…ガッフ!」
話の途中で勢いよく蹴られ言葉が止まる。
「この役立たずが!ーーッ!ーー!!」
激昂した男はよくわからない言葉を叫びながらマオを容赦なく足蹴にする。
マオは体の内部が損傷しないように小さな結界を張る。
以前皮膚の外まで結界を張ったら凄まじく怒られたので、それからは程ほどに怪我をするようにしている。
痛みはあるが、痛がった方が細工がばれないので痛みは消さない。
「ーーー!!ーーーッ!ー!!!」
マオは蹴られながら思う。
五月蝿い男だと。
醜い矮小なる男だ。
広角に泡をためて叫ぶ様は豚のようだ。
いや、豚に失礼か。
しかし、そんな男にこの塔の全てのものが支配されている。
そしてなぜだかわからないが、マオはこの男を見るたびに奇妙に懐かしいと思う。
知っている誰かに似ているのかもしれない。
何が似ているのだろうか?やはり、どろりと濁った瞳だろうか。
影に潜む妖魔達がいつだって喉元に食らいつこうと狙っている男。
誰からも好かれない憐れな男。
きっと、ここではない何処かでも、自分は気まぐれで足蹴にされる狗でしか無かったのだろう。
夢は結局、虐げられた狗の願望が見せる夢でしかなかったのだろう。
男の息が切れる頃、ぼろぼろのローブの中でマオはこっそりため息をついた。
扉の外で待っているといった男の言葉に偽りはなく、ぼろぼろになったマオは男に担がれて部屋まで戻る。
直ぐに治して男の逆鱗にふれるよりは、暫く痛みを我慢して部屋で治癒した方がいいので、男には申し訳ないがマオは大人しく担がれる。
「治す魔力はのこってる?」
「…多少は」
「顔がすごいことになってるよ」
「どうせ、髪で見えないから、いい」
「もう少し身なりに気をつければいいのに…」
せっかくかわいいのに…と呟く男のほうがよっぽど愛らしい顔をしていると思う。
そもそも、可愛らしさはマオに必要ではない。
けれど、体は痛かったが名を覚えられぬ男のくれる優しさはじんわりと心をあたたかくしてくれた。
部屋の扉をしめたあと、マオは数歩歩き、ごろりとあの日からきれいになった床に転がった。
歩いて寝床に行く体力も魔力もう残っていなかった。
丸くなり空気中に漂う僅かな魔力を集め、少しづつ傷を治していく。
踏みつけられた手は赤斑だ。蹴られた腹と背中も熱い。もう少し魔力があればとりあえず痛みを消せるのだけれど、大喰らいの妖魔を使役している今はそれさえ難しい。
空間が揺らいだと思ったら目の前に靴があった。
妖魔が戻ってきたらしい。
「お前、何をしているのだ?」
「ねてる」
マオはガサガサの声で返事をする。
妖魔が側にしゃがみこんだのがわかる。
ひょいとマオの手を持ち上げる手
「怪我を治さんのか?」
遠慮も何もない力加減にきしむ肩と痛みにうめき声がでた。
「うん?なんだ、魔力が殆どないではないか」
興味を失ったと言わんばかりに放られた手が、ぼたりと床に落ちる。
痛い。
魔力が無いのはお前を養っているせいだ。
とマオは思ったが、答えるのも億劫でため息とともに目を閉じた。いや、蹴られた顔が腫れてきているので瞼を開けようにもほとんど開かないのだが。
「常日頃、酷い見目だとは思っていたが、今日はことさら酷いな。」
マオのボサボサの白髪を摘まんで妖魔はツンツンと引っ張った。
たんこぶがあるので地味に痛い。
「しかし…何度見ても汚い髪だ」
まったくもって余計なお世話でしかない。
確かに妖魔のしっとりとした漆黒の黒髪は見惚れるほどに美しいとは思う。
そういえば昔からマオは黒髪が好きだった。
黒い絹のような黒髪を飽きずに櫛でといたのを覚えている。
「美しくないのならば、せめて見苦しくないよう身なりに気をつければいいものを…」
呆れたようなため息とともに暖かな風 が体を包んだ。
「これで多少は見れるものになっただろう」
ぱちりと目を開けることができた。
痛みもほとんど無くなっている。
赤斑に腫れた手も元通りの墨に汚れただけの手だ。
まさか…
驚いて顔を上げたが、そこに妖魔はいなかった。
きっと、あの妖魔にとって‘らしくない行動’なのだろう。
マオを癒し、何も言わずに姿を消した。
それこそが何よりの答えのように思えて、床に転がったままくすくすとマオは笑った。
そのたびにさらりと柔らかくなった髪の毛が頬を擽った。
その、優しい感触にさらに頬がゆるむ。
本当に久しぶりに笑った。
「姫様、御髪か乱れておりますわ」
側女は風邪に乱された姫様の髪を取り出した櫛ですいた。
「まあ、姫様、今、手拭いをお出し致します」
池の水に触れた濡れた手を拭う布、熱い日差しを遮る傘、肌寒さを感じさせぬ薄羽織物。
「あら、狗は腹が減ったのかしら?」
蝋びきの紙に包まれた焼き菓子が狗の前に差し出される。
いいなぁ、と狗は思う。
そして、側女の持つ不思議な袋をじっとみつめる。
手のひらに収まるほどの小さな小さな香袋なのに。
一体どうなっているのだろう?
どうして袋より大きな物がでてくるのだろう?
「まあ、1つでは足りないの?」
勘違いした側女が掌にもうひとつ焼き菓子を乗せてくれた。
姫様へは『狗が菓子を食べ過ぎるのは体によくありません沢山あげすぎてはなりませんよ』と、言っていたのにどうしてだろう?
首をかしげると側女はくすりと笑った。
「ほんに狗のよう。今日の姫様の手習いは長引いているそうよ、腹を鳴らさぬよう気を付けなさい」
なるほど、そういうことか。
こくりと頷きホロホロとした焼き菓子を頬張る。
甘い、甘くて美味しい。
「姫様があなたの為に手配した御菓子です、心してお食べなさい」
そう言われて、菓子がことさら美味に思えた。
食べ終えた包み紙を大切に折りたたみ懐にしまう。
姫様が狗に用意してくれたもの。
そう、思うと胸がほっこりと暖かくなる。
姫様は狗にとてもとても沢山のものをくれる。
けれど狗が一番ほしいのは…
側女の持つあの袋。
姫様に手拭いを差し出したい。
日陰を作る傘を出したい。
冷風から守る羽織を渡したい。
筆を、紙を、肘掛けを…
姫様が心地よく過ごすものを一番に差し出すのは、姫様の狗の自分でありたい。
…でも…
ダメだと言われたらどうしよう、お前ごときが持てるものではないと、言われたらどうしよう。
そう思うと…願いは口には出せなかった。
肩を落として姫様の手習いが終わるのを待った。
「ひぃ様、今日の勉強は長うございましたね」
「うむ、ちぃとばかり難儀したのぅ」
遅くなった昼餉の後、狗は姫様に髪を弄られていた。
奇妙に編まれた先には歪んだ蝶々結びがいくつもついている。
奇抜な髪型はともかく姫様に髪を弄られるのは好きだ。
柔らかな手が時折頬にふれる。
目を閉じる狗の膝の上にぽすりと何かが落とされた。
「?」
それは椿の花の描かれた小さな香袋。
「そちのじゃ」
恐る恐る手にとると、不思議なことに中に入ったものが解る。
日傘、双六、着物、鋏、手鞠、虫籠、手拭い、硝子玉、鈴、お手玉、千代紙、龍笛、碁盤、地図、将棋駒…
それに沢山の菓子。
「妾の飼う、食い意地の張った狗の為じゃ、今日からは妾の手より他から菓子を貰うでないぞ?」
「ーーっ!!」
言葉にならなかった。
『ありがとうございます』も、『嬉しいです』も、本当感極まった時には出てこないのだとい狗は知った。
代わりにぼろぼろと涙が出た。
喉から出ない声の代わりにぼろぼろと。
この小さな袋の中の玩具はいつも姫様と遊んでいたもの。
それにまだ遊んだことのないものも沢山入っている。
ここには姫様と狗の過ごす『これから』が沢山詰まっている。
「主人に気を使わせるとは手のかかる狗じゃ」
今は見えない姫様の顔はきっと恥ずかしげにしかめられている。
とても見たいと思ったけれど、それを見られることを姫様が好まないこともわかっているから、狗はぐっと我慢した。
「さあ、狗よ、その中から櫛をだしてたもれ」
「…はい!」
狗はしゃくりながら震える手で櫛を出した。
櫛には螺鈿で針型の連なる葉と赤紫の実が描かれていた。
止まったはずの涙がまた出た。
いつから気付いていたのだろう?
いつから作ってくれていたのだろう?
きっと、狗がそれと気づく前から。
ぼろぼろと泣き止まぬ、狗の髪を姫様のもつ螺鈿細工の塗櫛が解かしていく。
その、優しい手が狗の心にあった苦い何かも一緒に溶かされていく気がした。
幸せはこの袋のなかに詰まってる。
やはり幸せは全て姫様の側に在るのだと
狗は心の底から思った。