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「そなたは今日から妾の狗じゃ」
小さな貴人はそう言って、赤黒く汚れた狗に桜の花弁のような美しい手を差し伸べた。
見上げたその貴人の後ろには赤い椿の花。
その庭にはいつも花が咲いていた。
「天帝の御意光のおかげ」
と婢達は花骸を集める。
その庭を美しく保つために、毎日咲いては散っていく花を
幾度も幾度も拾い集めていた。
庭は苔の上も、玉砂利の上も、いつでも美しく、市井の路地の花のように木の根元に汚れた花を散らすことはなかった。
そして、その庭の主もそのような世界があることを知らずにいる。
常春の庭
散ることのない花の咲く庭。
実際は咲いては、決して実を結ぶことのない花が静に散る庭。
トサリとかそけき音がした。
振り向くと空に咲いていた花が一輪、地に落ちていた。
赤い美しい姿のまま地に落ちた椿花。
木立の影に飲まれるように咲く花。
けれど、闇にのまれてなお、美しく咲く花。
狗はその花に手を伸ばした。
そっと救うように墜ちた赤い椿の花を。
その庭はいつも花が散っていた。
実をつけることなくただ咲いては散っていた。
「マオ!探したよ!!」
人気のない書庫の端で、埋もれるようにして本を読んでいたマオに声をかけてきた人物が居た。
のそりと顔をあげると、そこには濃い灰色のローブに包まれた見知った顔。
自分と同じ異人と呼ばれる人物。
名前は…
「君へ仕事の依頼が入ってるよ、経験豊富な魔法使い様におねがいしたいことがあるってさ」
名前は何だったか。
何年たっても相変わらず名前が覚えられない。
ここの名前は長ったらしくて、舌がからみそうなほど難しいから。
狗という名が懐かしい。
狗は二文字だから。
「今日は何回目だい?全く人使いが荒いよねこの塔の人間はさ。ぼくらをなんだと思ってるんだかさ」
憤懣やるかたないと憤る彼にも自分にも同じ首輪がされている。
この塔の主に楯突かないように縛る首輪。
マオは何度かこの首輪が、持ち主の首を落としたのをみたことがある。
魔力のある者は、この塔に堕ちたその日から、死ぬまでこの首輪に縛られる。
たとえ意にそわぬことでも、この首輪があるかぎり、しなくてはならない。
否はない。
ただ狗のように従うだけ。
「さあ。いきなよ依頼人は最下層だって。その本は僕が片しておいてあげるよ、じゃないと面倒だろ?」
ふわりと本が数冊浮いた。
追跡の魔法を応用したものが、ここの本には全てついている。
本棚へ戻すのはそう難しいことではない。
けれど、この魔法使いはあえて手伝ってくれたのだ。
その意味がわからないほどマオは疎くはなかった。
おそらく、不釣り合いな大物を釣り上げようとした愚か者がいるのだ。
マオはこくりと頷いて、ボソリとごく小さな声でありがとうと呟いた。
マオは人と話すのが苦手だ。
そんなマオの態度にこの相手は慣れているので気にもしない。
マオは急いで地下に向かった。
塔から与えられたローブが重苦し体にまとわりつく。
ローブの色は漆黒。
このローブは魔力の量によって染まる色が違う。
マオはこの塔の誰よりもローブの色が濃い。
塔にはいたるところに魔法陣がかかれている。
それは用途に応じて様々な形の陣を描いている。
そのなかでも地下には特に大きな魔法陣がある。
大規模な召還は大概が地下で行われる。
マオが地下に向かうにつれて、非常に大きな魔法が使われているのがわかった。
召還魔法だ。
地下室へ向かう道では至るところで、パチパチと魔法陣から溢れた魔力が小さな雷をつくりだしている。
最下層に到達するとギイッと重いドアを開ける。
まず目にはいったのは床に倒れている布の塊。
灰色の布のローブはこの国の魔法使い。
それから黒に違い灰色は異人の魔法使い。
その、どちらも床に臥している。
「遅いぞマオ、早くそこの役立たずどもの変わりに魔法陣に力を注げ」
マオよりも色は薄いが黒に近い色のローブを纏う男が、床に倒れている魔法使い達を顎で示してそう言ってきた。
男の名前はナノ。
短いから名前が覚えやすい。
マオはこくりと頷いて魔方陣の上に靴を乗せた。
ぞわりととわりつく魔方法から放たれる細い光の糸。
それがマオの魔力を啜っていく。
すると薄暗く明滅していた魔法陣の光が強くなり、それと共に陣の中心が光りはじめた。
足りなかった魔力が補充され、魔法陣が正常に起動するようになったのだ。
中心の光が一際明るくなり、それが人の形を成していくのを見ながらマオは眉を潜めた。
おかしい、召還対象の魔力量を考えれば魔法陣の抵抗がもう少しあってもいいのではないか?
まるで召還対象からこの陣に干渉しているような奇妙な感覚。
それにこの気配…これは…本当に人間なのだろうか?
これは一体何を召還しようとしているのだろうか。
マオはちらりとフードの下から向かい側の壇上にいる男達の様子を伺う。
男達はどこか鬼気迫る様子で魔法陣を見つめている。
ああ、この顔は知っている。
追い詰められている小動物の怯えた顔だ。
そして、死を覚悟してなお足掻いている、そんな顔だ。
か弱き爪で一筋の傷痕を残すためだけの最後の足掻き。
こういったときは大概良くないものが召還される。
強すぎる想いが魔法の作用を歪めるからだ。
ああ、嫌だなと思った。
この国では、異人の魔法使いは使い捨てだ。
消耗品のように壊れたら棄てられる。
大きすぎる対象を召還すれば対価を払わされるのは魔法使いだ。
魔力を使いきった魔法使いはその魂までも魔ほう陣に吸い込まれてしまうから。
床に転がる魔法使い達のように。
この国の魔法使いは死んでも蘇生をしてもらえる。
けれどマオのような異人の魔法使いは、そんな待遇を期待できない。
死んだらそこで終わるだけだ。
つまり、今日はマオもそこに転がる骸となるのかもしれない。
凄まじい勢いで根こそぎ魔力を奪われ、思わず膝をつく。
震える指で光る魔法陣を撫でた。
あのとき臥していた動かなくなった彼らもこんな気持ちだったのだろうか?
魔力以外何も持たぬマオ。
狗のように従順なマオ。
この塔の主の求める通りの、従順な魔法使いとなったマオ。
誰かの求める形に填められる。
どこにいても昔から変わらない自分。
変われないまま、あと少し魔力を吸われたら終わるのだ。
結局、望みは叶わなかったな。
そう思った瞬間、魔法陣の輝きが急激に失われた。
ふわりと、体にかかっていた負荷がとれた。
床に描かれた光らなくなった魔方陣は、ただの汚い文字の羅列でしかなかった。
今回もなんとかやり過ごせた。
けれど、それが幸せなことなのか…どうなのか、マオにはもうよくわからなかった。
床についた指先にひやりとつめたい赤い花びらが触れた。
ぽってりとした滑らかな赤い花弁。
時折、喚んだ対象のまわりのものも一緒に来ることがある。
この国に咲かない椿花。
あぁ、懐かしい花だ。