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「我を喚ぶとは愚かな人間がいたものだ」
クツクツと笑う声に、喚んだ相手が高位の者だとわかる。
意識も自我も失うこともなく召喚された者はとても強い力を持つ。
「おお!素晴らしい!!」
野太い男の興奮した声が部屋に響き渡った。
あぁ、こいつは終わったな。
しゃがみこんだままのマオは、指先に触れるひやりと冷たい赤い花をぼんやりと見ながらそう思った。
人の形をとる妖魔は高位の存在。
高位の存在は呼び出した者が自分よりも弱い者ならば従わない。
時折、酔狂な者が永き時の暇潰しに従う場合があるが…
この者の声はまだ永すぎる生に飽いているものではない。
それに、この男のように澱んだ魔力はそもそも妖魔に好まれない。
「今日からお前の主人は私だ!その力をガッ…ぎゃァアアッ!!」
聞き苦しい悲鳴とともに、じゅうじゅうと何かが焼けるような音がした。
そして、ボタリ、ビチャリと粘度の高いものが溶け落ちるような音。
もわりと焦げた肉と血の匂いが鼻につく。
「お前のような豚が私を喚べるわけがないだろう?我が名は主となる者だけが知ればよい」
妖魔の滑らかな声を聞いていたマオの頭の中にするりと文字が浮かんだ。
緋榧
久しぶりに見る絵のような文字。
そうだこれは故郷の文字だ。
しかし、何と読むのだろうか?
長く故郷の文字を見ることの無かったマオには、この妖魔の真名を読むことが出来なかった。
コツリと靴音を鳴らして近づく黒い靴。
床の赤い花の横に降りたのを見る。
マオはすっぽりと被ったローブの下から靴の主の姿を見上げた。
赤紫の瞳。
こんな色の木の実をどこかで見た気がする
光を吸い込むような漆黒の髪。
懐かしい。
マオはしみじみとそう思った。
故郷では皆が黒い髪をしていたから。
「主…とは呼ばぬ」
声が頭の中に直接降ってくる。
こちらを主人だなんて微塵も思っていない傲慢な声だ。
きっと、この生き物は目的が他にあるのだ。
だから召喚に応えた。
何かのためにここに来る必要があった。
ここはその踏み台でしかないのだ。
マオは確信を持ってそう思う。
這いつくばった体が重い。
それに何より眠い。
召喚は今日、何回目だったろう?
「ふん、脆弱だな」
高慢な男の声。
フードに半ば塞がれた視界に白いものが現れるた。
白い手。
差し出された手は指先の爪まで美しく、インクや煤で汚れた自分の手とは大違いだ。
姫の手だ。
相手は男なのにマオはそう思った。
記憶の中の美しい姫の手。
労働を知らぬ傅れし者の手だ。
懐かしい。
そう、昔はこんな手をよく見ていた。
そういえば、毎日、その爪を艶やかな赤に染めるのは狗の仕事だった。
惚けたように白い手を見ていたマオを男は、仔猫を持ち上げるように首裏のローブごと持ち上げた。
「その命刈られたくないのならば、我の邪魔をせぬことだ、容易く喚ぶでないぞ。」
なんという傲慢な声。
それに、とても懐かしい。
思わずくすりと笑うと訝しげな気配が漂う。
「お前の名は?」
「……マオ。」
「ふん、下賎なお前に相応しい貧弱な名だ」
自分でもそう思う。
狗なのに猫という名前だなんて。
手を離されると、どさりと床に落ちた。
その拍子に尻餅をつく。
軽く床を蹴って裂けた空間へ、飛び立つ妖魔の姿をぼうと見送る。
その後の記憶はマオには無かった。
『狗は妾の傍で臥しておればいいのじゃ』
高慢な童子の声が命ずる。
狗は『はい、狗はひぃ様のお傍におります』と答えた。
はい。ひぃ様のおそばに。
ずっと傍に。
狗は…狗は嘘をついた。