10
気付けば明るかった空は茜色に染まっていた。
マオは開いていた目録をパタンと閉じた。
その音はマオの心の中にあった僅かな希望を諦めさせるのには丁度いい音だった。
結局、1日かけても、マオの召喚された日の記録は見付からなかった。
マオの名前とまではいわないけれど、召喚時に交わされ約定のひとつでも解ればと思っていただけにその結果はマオの心を抉った。
気落ちしたままコツコツと書庫塔の階段を降りていく。
夜にヒイロは戻ってくるだろうか?
そう思いながら書庫塔の中央階に降りる。
この塔には5つの塔があり、それぞれが4階づつ上層と下層に延びている。入り口のある中央層のみ全ての塔と繋がっている。
召喚塔、書庫塔、素材塔、居住塔、指令塔、それらを繋ぐ回廊で作られた建造物だ。
中央階は奇妙な空気だった。
昼間、居なかった魔法使い達がざわざわと落ち着かない様子で行き交い、それを異人の魔法使い達が冷やかな視線で見ている。
何があったのかわからないマオはきょろりと辺りを見回し、見知った顔を探す。
マオの疑問に答えてくれそうなナノとエルヴィロスは書庫塔の対角線上にある居住塔の近くで立ち話をしていた。
二人はマオに気づいたらしく此方に向かって手をあげた。
小走りに二人に向かって走ったマオのフードを乱暴に掴むものがいた。
「マァオぉぉ!!!」
捕まれたそのままの勢いで床にたたきつられ、マオはゴロゴロと転がった。
「お前は何てものを、なんてものを!!」
ぐらぐらとゆれる視界の中に激昂し口から泡
を飛ばしながら叫ぶ男が居た。
状況が掴めぬまま、ボスッ鈍い音とともに腹を蹴り飛ばされマオの小さな体はいとも簡単に床を滑った。
「マオッ!!」
二人の声がする。
マオはあまりの衝撃に息が吸えない。
ヒュッ、ヒュと聞こえる忙しなく短い呼吸音の間にバタバタと近づく足音、ナノとエルヴィロスだろうか。
「動くな!!」
という喚きの直後、足音がとまり、呻くような声だけが聞こえる。
「お前の妖魔のせいで今まで築き上げだ私の、わたしの地位がッ!」
浅い呼吸をくりかえしながら、わずかに顔をあげるとぐらつき霞む視界の中にうつったのは塔の主ロラン=レティエンヌだった。
大量の脂肪を華美な布に包んだような奇妙な姿。
ゴヒュッっとマオの口から奇妙な音とともに胃液と血の混じった液体が溢れ、石畳を汚した。
それをぼんやりと見ていたマオは再び蹴られ、ごろごろと床を転がった。
いきなりのことに結界の展開が出来なかった体は、かなり損傷したらしい。
痛みと衝撃に起き上がれず、床に這いつくばる 。
息をするたびに刺すような痛みとボコボコと嫌な音がする。
鈍痛かが絶え間なく腹部と肺に走り、額も切れたらしく、目に入った血で視界の片側が真っ赤にそまった。
何かを大声で喚き散らしながらロラン=レティエンヌの巨躯がマオに再び近づいてくる。
ぐわんぐわんと回る視点、呼吸もままならず結界は結べそうにない。
もう一度、蹴られたら終わる。
それは予感ではなく確信だった。
叫ぶ男とマオの間にぶわりと黒い霧が現れその霧の中からヒイロが姿を表した。
けれど昼間に会った姿とは変わっていた。
その顔の横、黒い髪の中から見事な羊角が生えていた。
絵画に描かれた悪魔のような見事な角。
不安を煽るその角、けれどその角が不思議と懐かしい。
そうマオは感じた。
ヒイロがロラン=レティエンヌに近づいていく。
「見苦しいのはその姿だけではなく行動も酷いものだな。さあ、吐け12年前にお前が結んだ契約を!」
「しらん!!私はそんなものはしらん!!『この妖魔を縛れ!』」
男の言葉に従ってこの場にいる魔法使い達が一斉にヒイロを縛り始めた。
「穢らわしい妖魔ごときが!さあ、マオ起きろ!この妖魔に命じろ、しねと命じろ!!」
喚き散らすこの肉塊は何を言っているのだろう?
マオは奇妙に冷静に騒ぐロランをぼんやりと見る。
しかし、意思とは裏腹に契約主の命令に体が従おうと動き出す。
ぼろぼろの体が糸でつられているかのように勝手に引っ張りあげられいく。
ギシギシと痛みが体中に広がる。
息がうまくできない。
まるで溺れているような感覚に、ハッハッと小さく息をする。
目の前では鎖や植物、綱や糸と様々なもでがんじがらめにされたヒイロがいた。
「マオ!!何をしてるはやくしろ!!」
怪我をしながらも契約主の命令に従う体はブルブルと奇妙に震えながら立ち上がろうとする。
しかし、幾度となく蹴られたぼろぼろの体は、命令に従うことはできず、ぐしゃりと床に崩れる。
「チッ!役たたずめ」
マオはヒイロの真名が読めない。
読めないのだから真名で縛ってヒイロを自害させることは出来ない。
そうわかっていても、マオはその言葉を口にはしたくなかった。
命じろ。
死ねと命令するのだ。
殺せ、妖魔を殺せ、コロセ、ころせ
頭の中は男のガサガサとした声でいっぱいだ。
逆らう意思に反応して、マオの首輪が急激に熱を持ち始めた。
塔の主に、契約主に逆らうことは即ち死を意味する。
何度も目の前で首が落ちる所を見ている。
わかっている。
けれど
ヒイロに対する命令はマオの口から出ることはなかった。
主人は守るものだ。
自分に従うものを守るのが主人だ。
それは違えてはいけない大切な約束。
「断る」
それはマオの矜持。
貶されるのも、力を奪われるのも、蹴られるのも、我慢ができる。
けれど、自分にだって守るべきものがあるのだ。
誰も殺したくない。
誰にも死んでほしくない。
この手で、この口で、自ら人を、妖魔を、殺めるとこはしない。
自らの意思で命を奪うことはしない。
マオの目の前でたくさんの命が消えていった。
この男の命令で、星の瞬きのごとく、たくさんの命が消えていった。
召喚された魔法使いが死んでいった。
たくさんの妖魔がころされていった。
そして、それはマオのせいでもある。
マオはただ、茫洋と、この男が罪を重ねるのを側で見つづけていたから。
この男の飼い狗として。
だから…
マオは声に力をのせる。
『ロラン=レティエンヌ、私はお前の命令を聞かない』
マオだけが知るこの男の本当の名前。
この男の狗であるマオだけがもつ唯一の牙。
この塔の中で、マオとマオの妖魔のヒイロだけが、この男の完全なる支配下には居ないのだ。
「なっ!なぜその名を…」
「私の真名をお前が奪えなかった、それだけ」
ブチブチとヒイロが拘束を引きちぎる音がする。
もっとも、あそこから抜け出してもヒイロがマオを助けることはないだろう。
マオが死ねば、ただの使い魔のヒイロはもといた世界へ強制送還されるだけだ。
それでいい。
マオがこの気まぐれな妖魔の主として出来ることは、マオとこの男から自由にしてやることだけだ。
「馬鹿なことを言う。あれほど力のあったお前の名前だ、偽物などと云うことがあるものか、だが…まあいいだろう」
ロランはにたりと笑った。
自分の優位を疑いもしない、自分よりも劣るものを見下す、絶対的優位者の笑み。
マオはこの顔を何度も見てきた。
「お前の首輪は私の意思に反応しているようだ」




