くらやみ
その日、まだ午前中なのに、体育館はじとっとしていた。この暑さも、体育座りをしたお尻にあたる固い床も、よどんだ空気も、すべての不快が僕にのしかかっていた。それは周りが暗闇だから、より強く感じられる不快さだった。
電気を消して暗幕を下ろしている体育館の中、壇上のスクリーンに映し出されている映像も、スピーカーから流れてくる音声も、何も頭には入ってこなかった。
その不快がなければ、体育館に流れる気まずさを嫌というほど感じ取れたと思う。暗闇の中で男子と女子二列になって隣り合って、教室よりも近い距離にいること。列になって座る時、どんな顔をしたらいいか分からない。恥ずかしがるのも、ことさら平気な顔をするのも、違う。どういう反応をしたらいいか分からない。そういう気まずさがこの暗闇の中ではより強く感じられる、はずだった。
でも、僕はその時、別のことを考えていた。
僕は後悔していた。
長袖のシャツを着てきたこと。汗ばんでいるせいで首の周りや腕にシャツが張り付いてきもちわるかった。
靴下につつまれた足も蒸していた。ハイソックスじゃなくて短いのを履いてくればよかったと思った。足裏からふくらはぎまでがじめじめした。
でも一番後悔していたのは、体育館に来る前にトイレに行かなかったことだ。
ビデオを見始めてすぐ、おしっこをしたくなった。
すごくしたくなった。
僕は、制服のズボンの前をぎゅっと握りしめていた。
隣に女子がいることが分かっているので、暗闇の中でも「そこ」に手を伸ばすのは抵抗があった。見えてないと分かっていても、「そこ」に手をあてているところを女子に見られてしまった時に向けられる表情が思い浮かんでしまって躊躇してしまう。
そうしている間に、ほんの少し、「じょ」っとおしっこが出てきてしまって、僕はあわてて「そこ」を抑えたのだ。
ビデオが後どれくらいなのか分からない。時計が見えないので授業があとどれくらいか、どれくらい我慢すればいいかが分からなかった。
少しだけ出てしまったおしっこが、パンツの中で冷たくなってきていた。
このままだと、おもらししてしまう。
考えないようにしてきたけど、その可能性に僕は怖くて泣きそうになった。
中学生になったのに。
みんながいるのに。
女子も横にいるのに。
そして僕は、僕の横に座っている女子が、小谷さんだということを思い出した。
小谷さんは小学四年生の時、学校でおもらしをしたことがある。
僕は小谷さんと同じクラスだった。
小谷さんは授業中に、椅子に座ったままおしっこをもらした。
僕の席は小谷さんの斜め後ろだった。気が付いたら小谷さんのショートパンツのお尻にシミができていて、それが大きくなって、足元にみずたまりが広がった。
小谷さんはおしっこをもらしたまま椅子に座っていたのだが、小谷さんの後の席の女子がおもらしに気づき、小さく「キャッ」と言って机を持ち上げて小谷さんから離れた。
その女子は蔑んだ表情で、床に広がったおしっこを見ていたが、少ししてから「ねえ」と言った。
「先生に言いなよ。」
小谷さんは何も言わず黙って下を向いた。
するとその女子はさらに、
「早く先生に言ってよ。くさいんだけど。」と言った。
小谷さんは席を立ち、黒板の前の先生のところまで歩いていった。ショートパンツから、足をつたっておしっこが床に落ちていくのが見えた。涙がすっと小谷さんの頬を流れるのが見えた。小谷さんは先生に自分がおしっこをもらしてしまったことを伝えようとしたが、しゃくりあげてうまく喋ることができなかった。
ショートパンツのお尻に丸いシミを作った小谷さんは、先生に連れられて教室を出ていき、体操服に着替えて戻ってきた。先に戻ってきていた先生が雑巾で床のおしっこを拭いていたけれど、掃除の時間にさっきの女子が「きたないからもう一回ここ拭いてよ。」と先生に聞こえないように小谷さんに言った。小谷さんは唇をぎゅっと噛んで、床を拭いた。
その日の帰りの会で、先生は小谷さんのおもらしのことを話し、クラスメイトを一人ずつ立たせて意見を言わせた。
教室の中で一人だけ体操服を着た小谷さんはずっと下を向いて、ひざの上に置いた自分の手を見つめていたが、最後に先生から「立って、今思っていることを言いなさい。」と言われた時、わっと泣き出してしまった。
おもらしの後、小谷さんはクラスの男子には毎日のようにからかわれた。
「お…お…おしっこっ、もれちゃ…って」と泣きながら先生に言うところをみんなの前で真似された。
女子たちは教室の隅でひそひそ話をして、小谷さんの方を見て、クスクスと笑っていた。
五年生になってクラスが変わっても、小谷さんは四年生でクラスが同じだった人におもらしのことを言いふらされていた。
テストでいい点をとっても、授業であてられて答えることができても、体育の授業で目立っても、小谷さんは「おもらしした子」だった。
じょうっ
暗闇の中、僕のパンツの中におしっこがあふれだした。
もう、がまんできなかった。
パンツの中があったかくなった。
顔が熱くなって、眼に涙がたまるのがわかった。
おしっこはすぐに止まらなかった。
足の付け根に食い込んだパンツのゴムにも、おしっこが染み込むのがわかった。
体操座りをしたお尻の下にそっと手を伸ばすと、制服のズボンはぐっしょりとぬれてしまっていた。
中学生なのに。
トイレじゃないところで、おしっこをしてしまった。
パンツの中におしっこをしてしまった。
小谷さんも、こんなふうに我慢できなかったんだろうか。
涙が一粒、頬を滑り落ちた。
おしっこが出きった時、いつの間にかビデオは終わっていて、突然電気がついた。僕はあわてて目をぬぐって周りを見回した。
おしっこのみずたまりが、大きく、大きく、広がっていた。
みずたまりはゆがんだ円を描いていて、僕の左側、一番遠くに伸びているところ。隣の女子のスカートまで、届いてしまっていた。小谷さんの、制服のスカートまで。
僕の頭の中はまっしろになった。
膝を抱きかかえてうつむきたかったけど、体が動かなくてそれさえもできなかった。
僕のおしっこで、僕がもらしたおしっこで、女子の制服を、小谷さんのスカートを汚してしまった。
どうしよう。
気が遠くなって、パンツの中のでおしっこがつめたくなっていく感覚だけが残った。
まわりがざわざわしているのが聞こえた。
ぬぐった後に涙がこぼれてきそうになる。泣いているところをみんなに見られたくないと思うけれど、体はやっぱり動かない。おしっこのみずたまりの中で、僕は体育座りをしたまま前を向いて涙をこぼしてしまわないように口をぎゅっとかみしめた。
小谷さんが立ち上がった。小谷さんは自分のスカートをちょっとだけ見た。小谷さんのスカートの右側は裾から腰の半分くらいまでが濡れてしまって大きなシミになっていた。
それから小谷さんはふっとどこかへ行ってしまった。
それを見て、僕の体がやっと動いた。
手で顔を覆った。そうしないと声を上げて泣いてしまいそうだった。
長い時間うずくまっていた。
ずっと、まわりはざわざわしていて、誰かが動き回る足音も聞こえていた。
パンツの中のおしっこがつめたくなっていくにつれ、おしっこのにおいが強くなっていった。
ふいに小谷さんの声がした。
「足元拭くから、立ってくれる?」
僕はびっくりして顔を上げた。
小谷さんが僕の横で、床を雑巾で拭いていた。そのまわりには先生が何人かいて、同じように床を拭いていた。
「立てる?」
小谷さんはそう言うと僕の手をとって立ち上がらせた。ズボンの下でパンツからおしっこが垂れて、足をつたっていくのが分かった。
小谷さんはまたしゃがんで、僕の足元の床を拭いた。
他の生徒たちは遠巻きに僕と小谷さんを見ていた。小声で喋っている人もいる。
僕は下を向いた。
制服のズボンの前は下の方がぬれていて、腿から裾まではところどころおしっこが流れた後がシミになっていた。
どっと涙が出そうになった。
「きがえに行こう。」
顔を上げると目の前に小谷さんがいた。
「保健室、行こう。」
僕はうなづいた。
小谷さんと僕は、体育館の出口に向かって歩き出した。
誰もいない授業中の長い廊下を、僕たちは歩いた。
パンツと制服のズボンが僕の肌にところどころ張り付いていた。ハイソックスにも流れ落ちたおしっこが少しずつ染みていくのがわかる。
保健室までもう少しというところで、僕は立ち止った。
小谷さんもそれに合わせて止まる。
僕は振り返ってズボンの後ろがどれくらい濡れているのか、見た。
お尻の部分は丸く、シミになっていた。ズボンの前よりもずっと広く大きいシミだった。
それから、僕は小谷さんのスカートを見た。
スカートの横、僕が座っていた方だけ、濡れている。
僕のおしっこで。
「こたに…さん。」
僕は口を開いた。すごくかすれた声だった。
小谷さんの顔は見れなかったけれど、小谷さんがこちらに向き直ったのが分かった。
「スカート…よごしちゃって…」
がまんしなきゃ、ちゃんと言わなきゃと思ったけど、どっと涙が出てきてしまった。
「ごめ…ん…なさい…」
小谷さんは、声をあげて泣き出した僕にそっと歩み寄った。
「しょうがないよ。」
「がまんできないことだってあるよ。」
「わたしもさ、小学校の時、おぼえてる?」
そして、小谷さんは僕の手を握った。
「わたしたち、仲間だよ。」
小谷さんは僕の手をひいて、保健室へ連れていった。保健室の先生に「どうしたの?」と言われた時、僕は言葉に詰まって再び泣き出してしまい、保健室の先生に自分のおもらしを伝えることができなかった。小谷さんは僕がおもらしをしてしまったことと、小谷さんのスカートが濡れてしまったことを保健室の先生に伝えた。
カーテンの仕切りの中で制服のズボンを脱ぐと、カッターシャツの裾の所まで濡れてしまっていた。パンツは濡れていないところがないぐらいにびしょびしょだった。
保健室で借りたパンツを履き、先生が持ってきてくれた体操服に着替えてカーテンの外に出ると、すでに小谷さんが着替えを終えて僕を待っていた。小谷さんも、体操服に着替えていた。
汚れた制服やパンツをビニール袋に入れてもらい、保健室を出た僕たちは、誰もいない廊下を歩いて体育館に戻った。
帰り道、小谷さんはまた僕の手をとって歩いた。
体育館に戻った時、みんなは先生の話を聞いていた。体育館に戻った僕と小谷さんに視線が集まった。
その後、お昼から午後、家に帰るまで、クラスの中でみんなは僕と小谷さんをチラチラと見ていた。制服姿のクラスメートたちの中、僕と小谷さんだけがずっと体操服だった。
体操服のまま、ビニール袋に入ったパンツと制服のズボンを持って家に帰った。玄関で母親にどうしたのと聞かれ、僕は学校でおもらしをしてしまったことを伝えた。話している途中でやっぱり涙が出てきてしまった。母親は僕の頭を撫で、妹に見つからないように、洗濯をしてくれた。
学校では、僕は「おもらしした子」になった。
何をやっても「おもらしした子」だった。
学年が上がってから、口喧嘩になった男子から「しょんべんもらしたくせに。」と言われた。
何人かの女子は、陰で僕のことを「おもらしくん」と呼んでいた。
小谷さんもからかわれるようになった。僕のおしっこでスカートが汚れたせい、そして僕のおもらしの始末を手伝ったせいだ。小学校でのおもらしを蒸し返されたり、「おもらし同士で結婚すればいい。」と一緒にからかわれたこともある。
そんな中でも、小谷さんは気にする素振りを見せなかった。
何を言われても、言い返すこともせず、ただ静かに相手をじっと見返すだけだった。
小学生の時のように泣いたりすることもなかった。
僕は、おもらしのことでからかわれると、泣いてしまうことがあった。
そういう時、小谷さんは一瞬だけ僕の方を見て、穏やかな表情で頷いた。
その表情を向けられる時、僕はあの保健室近くの廊下で、小谷さんにつないでもらった手のあたたかさを思い出した。
三年生になると、小谷さんとは別のクラスになった。
けれども隣のクラスだったので、学年で体育館に集まる時は、以前のように僕と小谷さんはいつも隣に座ることになった。僕たちは集会の合間に、少しずつ話をした。僕たちが話をすると、まわりで僕たちのことをヒソヒソと話す声が聞こえてくることもあったけど、僕たちはもう気にしなかった。
人前で男子と女子が話をすることも、「おもらしした子」同士で仲良くすることも。
卒業式でも僕は小谷さんの隣の席になって、僕たちは式の合間に話をした。小谷さんは中学校を卒業した後は親の転勤で遠くの県の高校に通うことになっていた。
僕は小谷さんに、今までありがとうと伝えた。小谷さんはあの穏やかな表情を僕に向けて微笑んだ。
学校生活のスライドをスクリーンに映す段になって、体育館の暗幕が下ろされ、電気が消された。あの時のように。
スライドに合わせて音楽が流れる暗闇の中、僕の手に、あたたかい手がそっと重ねられた。
「わたしたち、仲間だからね。」
小谷さんの声が聞こえた。
僕はそのあたたかい手をぎゅっと握り返した。