待たせてごめん(4)
数分遅れで駆け込んだ明るい駅構内。
濡れた傘を手に行き交う人の流れはそれなりに多かったが、沖田侑希の姿はすぐに見つけることができた。
ただでさえ人目を引く容姿であるというのに、水も滴るなんとやら状態になった爽やか王子が目立たないわけがない。
改札の横で無駄に色気を垂れ流して涼しげに佇む彼の名を呼び、遅れたことを謝りながら翔と二人でバタバタと駆け寄る。
――と。
やっと来たかとばかりに口元をほころばせて手を振りかけた侑希の表情が、ぴきりと固まった。
「?」
こちらを見たまま、何か信じられないものに遭遇したかのように目を見開いているが――
どうしたというのだろうか。
それどころか、そんな幼馴染の視線をたどってついと隣に視線を落とした早杉翔までもが、
「お、おまえ……っ」
ギョッとした表情を見せたかと思うと、着ていたカーキ色シャツをなぜかあわてて脱ぎ始めた。
「これ羽織れ。あ、いや、制服脱いでコレ着ろ。どっちにしてもそのままじゃ風邪ひくし」
「へ?」
「これも完全に無事ってワケじゃねーけど、それよりはマシだろ」
間抜けにもポカンと口を開ける彩香の目の前に、カーキ色のリネンシャツが押し付けられるように差し出されていた。
「ほれ。トイレででも着替えてこい」
「え……い、いいですそんなっ。とんでもない! どうせここまで濡れちゃってるんだし今さら――。逆に早杉さんの濡らしちゃったら申し訳ないし」
「遠慮してる場合じゃねーんだよ、状況よく見ろアホっ!」
「あ、アホって……」
先ほどの仕返し、だろうか。
すっかりいつもの調子に戻っている翔は――
なぜか怒っている。
というより、困っている……?
数分前までの翳りと憂いを帯びて弱り切った姿は見る影もない。
いや、むしろそれに関してはホッとしてはいたのだが……。
「え、だってソレ貸してくれちゃったりしたら、寒がり小僧の早杉さんのほうが困りますって絶対」
この人物が寒さを苦手とするという情報はすでに侑希より得ていた。
よって、思わず眉根を寄せて指差ししてまで「結構ですよ」アピールをしてみる。
実際、「小僧って何だ、小僧って!」と元気に喚いてはいるが、薄墨色の半袖Tシャツ一枚になった翔は見ていて少々寒々しい。すったもんだで濡れてしまったせいもあってなおさらに。
余計な先入観のせいでそう(寒そうに)見えるだけ、なのだろうか。
さっぱりわからず首を傾げるしかできないでいる彩香に、ああもうっと言わんばかりに翔が一歩にじり寄った。
「見えてんだよ、緑っ!」
「み、ミドリ? だ……誰?」
間違えて前カノの名前でも呼んでしまったのだろうか。
緑さん? 翠? 美登里とか?
っていうか、ほほう……。翔は幼いころから一途に瑶子さんだけというわけではなかったのか。
「そーじゃなくて……だああああっ!」
まあカップルもいろいろあるのだろうしな……と微妙な顔でうなずきながらもしつこく首を傾げつづける濡れネズミ女と、その首に無理矢理シャツを巻き付けそうな勢いで喚いている長身男。
珍妙な掛け合いはそれなりに注目を浴びてしまっていたのだが、当の二人にはやはり気付ける余裕は……あるはずもなかった。
「はっきり言わないからだよ、翔」
周囲の視線からさりげなく庇うように前に立ち、えらく爽やかな声音で――それでもやや困ったように――笑って侑希が口を挟んだ。
「西野、透けてる。中」
「え、透け……って……」
キョトンとオウム返ししかけて――――サーッと血の気が引く。
何やらマズい記憶にぶち当たってしまった。
そういえば部活終了後、どうせ暗いしあと帰るだけだし……と汗ばんだキャミを脱ぎさっていた、ような気がする。
しかも、そうだ。
確か今朝選んだブラの色は――ミントグリーン!
「!!」
ミドリって……ミドリってこれかー!!と合点がいくなり、今度は一気に首から上に血が上った。
とにかく隠さねばとガバリと自身の肩を抱き締め、そのままぐるりと隣を振り仰ぐ。
「なっ、なななんでもっと早く教えてくれないんスかあああぁ!?」
気付いたら湯気まで立ち上りそうなほど紅潮した顔で、噛み付かんばかりにがなり立てていた。
駅に入ってきてからやけに振り返られるなあ、と思ってはいたのだ。
ただその理由を、ずぶ濡れすぎて人目を引いているだけだと、このおバカな頭は完全に思い込んでいた。
そんなバカでおめでたい浅はかな自分をとにかくおもいっきりぶん殴りたい。
いやそれよりも!恥ずかしいやら情けないやらで今すぐ穴掘って潜りたい!である。
目の保養にも何の足しにもならないような貧相なスッケスケの姿で、明るい建物内を駆けて来ていたかと思うと、冗談ではなく目眩まで湧き起こってくる。
「ひどくないですかっ! 早杉さんっ!?」
「い……いや、気付かなかったのは悪かったけど――――っつか、そこ俺のせいにするか?」
「だだだだってずっと隣にいたんだから少しくらい『あれ?』とか思うでしょ、普通っ?!」
「だから気付かなかったんだっての! ずっと暗がりに居たんだからしょうがねーだろ」
「そ……だ、だってだってあんな近くで話してて(て……手まで握って!!)全然気付かないなんて、そっそんなバカな――!」
「ホントだって! 気付いてたらもっとガッツリ見たわあああ!」
「うぎゃーっ! 何言ってんの何言ってんのバカじゃないのっ!? やっぱ変態! ありえない! 信じらんないんだけどっ!」
「はああっ!? 当っったり前だろ、エロに興味ねえ男なんかいるかー!?」
「はいストップ」
大口を開けてさらに何か言いかけた翔を遮って、呆れ顔に微かに笑みをのせた侑希が間に割り込んできた。
「西野、あと六分で電車来るから早く。戻って来なかったら先に行くよ?」
「!?」
プリンススマイルで爽やかに宣告しているが、今は本当にただ一つの目的しか見えていない様子である。取り巻く空気がそう物語っていた。
友人の一人や二人容赦なく見捨てて置いていくということくらい、今の彼なら平気でやってのけるに違いない。
冗談ではない。
自分だって……自分だってこんなに今すぐ親友に会いたいのに。
「いや待って! す、すすすいません、じゃあコレお借りしますーーー!!」
ぱぱっとシャツを受け取るなり、叫びながら公衆トイレに向けて一目散に駆けだしていた。
(そ……そして瑶子さんすみませんっ、彼氏さんの服お借りします! こんなお見苦しいモノをお見せしてはほらっアレですんでっ! ホントにホントにすいませんー!)
(お……大きいなさすがに……)
個室が二つだけ並んだ狭いトイレ内。
手洗い場に設置された鏡の前で、壁際ギリギリまで下がってつま先立ちになる。
わずかに自分の下半身までを鏡に映すことができて、ようやく彩香はホッと息をついた。
ブカブカの借り物七分袖シャツの裾からちょこんと覗くグレーのプリーツスカート。
いきなり太ももだけ出るようなエロい感じにならなくて本当によかったとは思うが……。
ついさっきまであのヒトが着ていたもの、と思うと――――安堵のため息もあっという間に引っ込んでしまった。
同時に暗い道端で手を取ってしまった状況と逆に包み込まれた手のひらの感触を思い返し、瞬く間に顔中――いや首までもが熱くなる。
(ってうわあああああ、あたしキモっ! ヤバっ! 変態くさっ!)
ひょっとして自分こそが変態ではないのかと思うと、動揺も冷めやらぬ内にわずかばかり落ち込んだ。
(ど、どうしよう……。二人の前に戻った時、顔引きつったりとか変に赤くなったりとかしなきゃいいけど……)
赤面した頬を両手でぱたぱたと扇ぎ、鏡の中を凝視しつつ――――はたと切羽詰まった状況を思い出す。
(ってそんな心配している場合じゃないって! 爽やか王子に置いて行かれる!)
脱いだ制服を引っ掴んであわててトイレから飛び出していた。
でも……と、元の場所に駆け戻りながらあらためて心からホッとしている自分に気付く。
遠くで待つ二人にいつもどおりの和やかな空気が戻っていた。
部活後ミーティングルーム前で感じたあのぎこちなさ、何とも言えないあの冷えたような雰囲気はもう微塵も感じられない。
短時間でいろいろありすぎて、今のこの状況にどこか高揚して浮き足立って自分が勝手にそう感じているだけ――なのだろうか?
(ううん……やっぱり違う)
はっきりとは掴めないが、不思議な安心感に支えられているのは確かだ。
近づくにつれてその温かな思いをあらためて実感する。
「あ、来た来た。西野こっち」
一足先に改札を抜けて待つ二人のうち、先に気付いた沖田侑希がいつかのようにひらりと片手を挙げた。
最近疲れていたりどこか様子の違った彼を取り巻く空気が、今はただ穏やかで和やかで、元どおり(ひょっとするとこれまで以上に?)やわらかなものに変わっている。
この数時間の内に二人の間で何かあったか……それとも記憶の変化によるもの、なのだろうか?
それについてもわからないが。
不思議にももう大丈夫だと、何も心配いらないと思わせてくれるような、そんな笑顔だった。
「あーあ、けど間に合っちゃったかあ。来なかったら翔を置いて先に行こうと思ってたのに」
「は? なんでだよ」
「俺一人で行けばじゅうぶんだし。っていうか今からでも西野連れて消えてくれていいよ?」
「おまえな……」
静かだが何やら妙な言い合いをしながらホームへの階段へ向かっていく二人を追って、彩香もあわてて改札を通り抜ける。
「あ、あのすいません早杉さん、服……。ちゃんと100回くらいクリーニングに出してからお返ししますからっ」
「100…………擦り切れるって。何年後に返ってくんだろな、それ」
「えーと」
「本気で計算すんな……。適当でいい。つか出さなくていい」
先に立って階段を降りていく侑希が後ろのやり取りにクスクス笑っている。
本当に疲れも翳りも一切見当たらなくなってはいる、が。
でも――安心してばかりはいられない。
「沖田くんも、ホントにごめんなさい……」
「え?」
「体……大丈夫? さっきの……」
車の前から引き寄せて庇ってくれた時の、あの衝撃。
それほどとは思っていなかったイザコザで入院にまで至ってしまった自身の経験があるため、なおさら気になっているのかもしれないが。
「ごめんなさい、あたしのせいで……。ホントにホントにどこも何ともない?」
自分のせいで侑希に危険が差し迫ってしまったという事実から目を背けてはいけない。
それと空気の変化とは別問題だ。
ああ、と軽く笑って、階段を下りきった侑希が振り返る。
「大丈夫。こっちこそごめん」
「え」
「さっき待ってる間、ざっくり翔から聞いてた。俺の記憶のせいで西野にもずいぶんヤキモキさせてたみたいだから」
「いや、あ……あたしは、別に……」
そんなもの――大事故一歩手前のあの状況に比べたら本当に何でもない。
ほとんどが独りよがりなキューピッド作戦(旧)によるものだったし、なおさら謝ってもらうことではない。
「うん、まあ……一番の『ごめん』は柚に言わなきゃだろうけどね」
そう言って肩をすくめた侑希の表情は、これまで見た中で一番優しい笑顔だった。
『柚』に――
安心感。
それはたぶん……いや間違いなく。
侑希がいつも以上に穏やかで優しくて、そしてどっしり構えているから。
『柚』がどこにいるのか確信があるのだろう。
幼いころからこんな感じだったのかもしれない。
きっと、何でも分かり合える二人だったんだ……。
そう思うとまたじわりと温かな感情が込み上げた。
大丈夫。
きっと今度こそたどり着ける。柚葉に。
その確信が嬉しくて――
嬉しいと思うのになぜか胸が痛くて、でも温かくて……。
(柚葉……大丈夫だよ。待ってて。思い出した「侑くん」が今いくよ……)
込み上げそうになる涙をどうにか堪らえて唇を噛みしめた時、湿った空気を震わせて二番線に下り電車が滑り込んできた。




