待たせてごめん(1)
クラブハウスの一角にある陸上部男子部室には、学生鞄は置き忘れられていなかった。
念のため覗いてみたミーティングルーム内にも同様である。
まだ部長職の移行期間とはいえ、香川から鍵だけは引き継いでいて本当にラッキーだったと思う。
変な時間にこうして確認しに来ることができているのだから。
家の鍵と一緒にせず陸部バッグのほうに忍ばせておいたこともまた幸いした。
心底ホッとしながら沖田侑希は再度施錠した。
それにしても……と再び傘を開き、首を傾げながらゆっくりと元来た道を戻り始める。
(ということは、昇降口にでも置いたかな? いや……それとも誰か職員室に届けてくれたとか?)
私物を最後にどこに置いたか記憶が曖昧というのは何とも情けない話だ。
罪悪感で頭がいっぱいだった、と言えば聞こえはいいかもしれないが……。
電車の中でまたしても翔に笑われたのは言うまでもない。
とりあえずその彼を拾って東棟生徒昇降口に向かおうと、気分を切り替えて顔を上げる。
――と。
鈍感な頭を冷やしているはずの幼馴染の立ち位置が、先ほどよりだいぶグラウンド寄りになっていた。
(なんであんな所に……)
しかもよく見ると、傘の下には誰か――もう一人……?
「あれ……? 西野?」
歩み寄りながらよくよく目を凝らし、気付いたら声に出して訊ねていた。
ハッとしたように翔の陰から顔を覗かせたのは、やはり西野彩香本人だった。
「沖……田くん……」
心なしか疲労の色が浮かんだ、怒ったような表情で彩香がゆらりと歩を踏み出してくる。
翔の傘から外れて一瞬雨に打たれても、気にも留めていないらしい。
いつもの明るさや元気といったものもまるで無く、何か思い詰めてでもいるような様子に、わずかに胸騒ぎがした。
こちらの傘にじゅうぶん入る距離になるまであわてて傘を傾けて追って来ていた翔の、どこか沈んだような切羽詰まったような表情も気になる。
「西野? どうし――」
すぐ目の前で立ち止まった彼女は、よく見ると全身びしょ濡れだった。
「沖田くん、柚葉に何したの?」
「え」
自分が高瀬に?
彼女がどうかした、のだろうか。
(あ……)
考え込むまでもなく、まざまざと数時間前の様子が蘇ってくる。
知らぬ間に翔との会話を聞かれていたらしく、その直後、泣きながらミーティングルームを飛び出して行ったあの時――――あれが今日高瀬柚葉を見た最後の光景だ。
あの後、彼女に何かがあったということなのだろうか?
先ほど翔にも語ったとおり、泣いていたことはやはりずっと心に引っ掛かってはいたのだが――。
「ごめん違った。何もしてくれなかったから、今こうなってるんだよね?」
静かだが怒りのこもった瞳で真っ直ぐ見上げられ、知らず「え……」という微かな声をもらしていた。
いったい彼女は何の話をしているのだろうか。
「どうして? なんで憶えていてあげなかったの?」
「え……『憶えて』って」
「柚葉ずっと待ってたんだよ?」
――待っていた?
「彩香……だからそれは侑のせいじゃなく俺の――」
「何があったとしても! そんな……っ、大好きだった子のこと――柚葉のことだけは忘れちゃいけなかったんじゃないの!?」
後ろに佇んでいた翔が苦しげに声を絞り出すのを遮って、彩香がさらに声を荒げながら近寄ってくる。
「大事なこと綺麗サッパリ忘れて自分は今の恋に燃えてるとか、もう……ふざけんなよっ!って感じなんだけど!」
「高瀬を……って、え? 何? 二人とも何の……」
掴みかからんばかりの勢いに目を見開いて、だがまったく要領を得ない思考をまとめようと片手は無意識に額に向かっていた。
いつの間にか和らいでいた頭痛が、またじわりと揺さぶり起こされそうな気配。
忘れてはいけない相手……?
何があったとしても、憶えていなければならないはずの――?
――『柚葉ずっと待ってたんだよ?』
「それって……え? まさか……」
まさか……高瀬が、例の「アズ」という子……?
「ごめん、あたし滅茶苦茶なこと言ってるよね! わかってるよ!? さっきのだって別に沖田くんのせいとかじゃなく何か別の理由で泣いて取り乱してただけかもしれない。でも――でもわかんないんだもん! 誰も何も教えてくれないし! 自分で考えてわかるほど頭良くないし!」
「ちょ……ちょっと待って西野……」
「でも! ちゃんと沖田くんが柚葉のこと憶えててくれてたら――早く思い出してくれてたら、きっとこうはなってなかったよね? それだけはわかるよ」
抑えられてはいるが強い語調で言い切って、彩香がすっと一歩離れる。
下から睨みつけるような視線は緩められないまま。
「覚悟して。沖田くん」
「え――」
「もし柚葉に何かあったら、あたし沖田くんを絶っっっ対に許さないから!!」
力いっぱい叫んだかと思うと、弾かれたように彩香は駆けだしていた。
翔と自分を避けて向かったのであろう先は、おそらく裏門の方角――
裏門!?
「――西野!!」
マズい!とハッとして後を追い始めた時には、彩香はすでに十メートルほど先を猛スピードで駆けていた。
「え、おい……侑!?」
傘を放り投げての突然の猛追に、背後で翔が驚いた声を上げる。
うつむきがちだったためか、わずかに反応が遅れたらしい。
あわてて後から追いかけて来るのはわかったが、今は説明する間も惜しい。
打ちつける雨も跳ね上げる泥も気にしてはいられなかった。
門を出るまでには追いつかなければ、と目の前を疾走する彩香をただ懸命に追う。
ずっと帰宅部だった翔は直ぐには思い至らないだろうが、夕方以降思いのほか交通量が増すのだ、裏門前のあの通りは。
道幅もそう広くはなく、車と接触しかけてヒヤリとした部活動生も少なくないだろう。
実際何年か前にちょっとした事故があったらしく、顧問も徹底して注意喚起をしていた。
彩香もそのことについては去年から知っていたはずなのだが、今は怒りと興奮ですっかり頭から吹き飛んでいるらしい。
その原因も元はといえばすべて自分らしい――のだが。
今はいい。
反省も問いただすのも後だ。
「待て西野! 危ない!」
これが一般的な――普通の女生徒なら軽く追い付きあっという間に捕まえているところなのだが、さすがは短距離走者というべきか。
安静期間をまったくブランクとも感じさせない走りをされ、思うように一気に差を縮められないのがもどかしい。インハイ出場が聞いて呆れる。
それでも古い石柱の裏門を目の前にして、あと少しでようやく追い付けるかに思われた――
――その時。
夜とはいえまがりなりにも通学路になっている細い通りを、一台の乗用車が急ハンドルで曲がって来るのを目にする。
「!」
さらに加速してこちらに近付いてくる暴走車の存在に、興奮状態の彩香は気付いていないらしい。
速度を落とすことなく門を駆け抜けようとする姿に、危険を知らせる脳内のシグナルはいっそう強く反応してくる。
「止まれ西野!」
「彩香!!」
背後まで迫ってきていた翔も危険を察知して声を張り上げるが、
(間に合わない……!?)
より近くまで追い付いていた自分なら――と思わず必死で手を伸ばす。
急な方向転換が無理ならこのまま勢いを殺さず、いっそ反対側に――――いや、いや駄目だ!
とるべき行動を瞬時に判断して、渾身の力で地面を蹴りつけていた。
「え……っ」
側面からまともにライトに照らされ彩香の動きがわずかに鈍ったのと、それは同時のことだった。
急ブレーキにタイヤの軋む耳障りな音。
唸る車を間一髪で避け、引き寄せた彩香を腕に庇ったまま勢いよく跳びすさっていた。
「――っ!」
彼女の頭部を胸に抱え込んだまま、勢い余って自身は肩からブロック塀に激突する。
痛みと衝撃が、貫くように全身を駆け抜けた瞬間――
いつかのクラクションと衝突音、遠い叫び声が歪に重なって反響した。
耳の奥でこだまする幼い呼び声――自分の名前を必死で呼ぶあれは……
(そうだ……あれはあの時の、翔の泣き声……)
ドライバーらしき男の怒鳴り声と車の走り去っていく音が鳴り響くなか。
その場に崩れ落ちた二人のもとに、水飛沫を上げながら必死の形相で翔が駆けつけた。
「大丈夫か、おまえら!?」
まずは彩香を譲り受けて抱え起こし、濡れた路面に膝をついてこちらにも手を貸そうと屈みこんでくる。
「侑!?」
「お、沖……田く……」
必死な表情で怒ったように心配げに覗き込んでくる幼馴染。
と、茫然自失ながら震えが止まらないらしい彩香。
青ざめて涙ぐんだまま、唇はうわ言のようにごめんなさい……と繰り返しつぶやいている。
「おい侑! わかるか!?」
「わ……かる」
二人のことはちゃんとわかる。
言いながらゆっくりと息を吐き出し、上体を起こそうと試みる。
肩やら背中やらにわずかに痛みはあるが、翔が心配するほどではないらしい。
日頃の鍛練の賜物か、と笑ってみせようかと思ったほどだ。
ただ――
「……っ!」
「待て、無理すんな。いま救急車――!」
「いや、翔……」
痛む額を押さえ、あわてなくていいという意味を込めてもう片方の手のひらで彼を制してやる。
それどころではなかった。
自分の中では今、どこからか湧き出たような――突然刷り込まれたような様々な像が音が、そして声が駆け巡っていた。
縦横無尽に浸透するように……いや、それこそ隅々まで侵食されるような勢いで。
そうだ……。
あの時もこんな感じで駆け寄ってきたのだった。
小さな翔が目に涙を浮かべて、何度も謝りながら……。
意識が途切れる直前も、病院のベッドの傍らでも。
「……大丈夫。本当に。二度も同じ理由で運ばれたくない」
「おまえ――」
「大丈夫だから……。ちょっとごめん、黙ってて」
……そうだった。
謝られているのはこちらなのに、このままでは彼が去ってしまうのではないかと――
そういえば怯えていた時期もあったのだと、思い出した。
それからというもの、謝られるのも気を遣われるのもすごく嫌いになって……。
かといって本気で張り合うと、事故の前と同様、走ること以外はまったく勝負にならなくて――。
「ふ……はは、は……」
「侑……?」
「沖田くん……」
いつの間にか笑いが込み上げてきて、二人に思いきり怪訝そうな顔をされてしまった。
「……いや大丈夫。おかしくなってるんじゃないよ。ただ俺、昔から翔が大好きだったんだなあ……って」
そう。
何をやっても勝てないが離れていかれると本気で寂しい。
変な意味ではなく心からそう思える友だった。昔から。あの事故に遭う前から。
そして、そんな翔よりも誰よりも――
「迎えに行こうか、西野」
「え……」
翔に会うもっと前から。
ずっとずっと会いたかった――いつまでも一緒に居たかった女の子が、自分には確かに存在したのだ。




