想いの先へ(8)
「早杉さん……っ」
呆然とした体でゆらりと顔を上げたかと思うと、とたんに弾かれたようにその制服姿の小柄女子は駆け寄って来る。
一連の反応と速度を見る限り、弾丸のごとく迫り来る人物はやはり彩香本人で間違いない。
だが、グラウンド側から現れるとはいったい――?
裏門からでも入ってきたのだろうか?
なぜわざわざ遠回りを……などと考えながら、翔も気持ち速足で歩み寄ってやる。
「何やってんだおまえ、傘もささねーで……」
そうして今さらながら彩香にも傘を傾けてやろうとして、思わず息を呑んだ。
「――!」
どれほど長い間この雨にさらされたのか、全身びしょ濡れだったのだ。彼女が。
暗がりの中でもそうとわかるくらいに。
こうして傘の中に入っている今、何の気休めにもならないほどに。
「おまえ……いつから雨に――」
「は、早杉さんっ!」
――が。
突然。開け放したままだったカーキシャツの合わせ部分を、下から伸びてきた手にガシッと掴まれた。
「すいません、ででで電話電話電話っ! れ、れれ連絡先をどうかっ! どうかお頼み申しますっっ!」
「え?」
酷い濡れ具合に未だ愕然と目を見開いていたこちらの様子にはお構いなしに、彩香がものすごい勢いで何ごとかを捲し立ててくる。
「嫌ならメルアドだけでも教えてください! あ、あのっ……今すぐ早杉さんに超ーーー訊きたいことがあってっっ!!」
「……おい」
「ごめんなさいすいません、嫌ですよね!? こんな変な女に――! わかってはいます、大丈夫ですっ! でも今、今だけっ! どうしても緊急事態っていうかアレなんで、そこは目を瞑っていただけると!」
「彩香――」
「でも絶対絶対売りさばいたりとか悪用とかしないし、あっ……イタ電もしません! 用事済んだらすぐに消去しますからっ! 信じられないなら目の前ででもっ――」
「こら」
ヒトの話を聞かずにまくしたてる濡れネズミ――ならぬびしょ濡れの猫に、げしっ、とたまらずチョップを食らわせてやった。
「でっ」
あの入院から最近まで一応大事を取っていた脳天だし、もちろん極限までかなーり手加減はしてやった。……つもりだ。
それでも痛がらせてしまったのだとしたら……ちょっと申し訳ない気もするが。
だがあのまま何もせず言うに任せていたら、彩香の焦りとは裏腹に緊急事態とやらの貴重な時間をガンガン無駄に費やしてしまっていただろう。
「……いいから落ち着けおまえ。ほらもう直に会ってんぞ? 連絡先より先に、まずその緊急のナンタラってのを訊け」
「――――」
ここでなぜか謎の空白が五秒。
「――うおっ、た……確かに!」
「…………」
本気で跳び退きそうな勢いで驚く少女に、ついガクリと項垂れたくなってしまった。
いかん、落ち着け。相手はこの彩香だ。
いちいち呆れて突っ込んでいたら話が進まない。
「あ、あのですね、ゆ、柚葉がまだ家に………………って――」
「?」
「――どわっっ!? ご、ごめんなさいっ! 服濡らしちゃっ――」
何かに必死なあまり無意識にこちらのシャツにとりすがっていたことに初めて気付いたらしい。
焦りまくった様子であわててバンザイしたかと思うと、大きく一歩後ずさった。
傘から外れた体には当然大粒の雨が降り注ぐ。
「何やってんだ、バカ。風邪ひくだろ」
先ほどよりは幾分弱まったとはいえ、依然まともな降りと呼べる勢いだ。
滴をまき散らしながらさらに離れようとするその腕を引っ掴んで、無理やり傘に入れてやった。
「ひーっ! 滅相もありません相合傘なんてっ!」
「んなこと言ってる場合か。濡れるっつーの!」
「い、いえもう……どうせこんなになっちゃってるので、お……お構いなくー!」
「あーうるせえ、黙って入れ」
よほど同じ傘が嫌なのかまだ逃げようと腰が引けている感は否めないが、腕を掴んで容赦なく引き戻してやる。
まるで嫌がる飼猫を無理やり風呂に入れるかのようなこの苦労はいったい……?
――いや、猫など飼ったことないが。
「っていうか、あ、アレ? 早杉さん、も……もうシカトはしなくていいんですか?」
「え」
「だってさっき――」
言われるまですっかり忘れていた。
何か誤解しているらしい侑希の目の前でこの相手と言葉を交わすのを躊躇い、つい何も応えないまま歩き去ってしまっていたのだった。
無視したと思われて当然の態度だった、と今さらながらバツの悪さを感じる。
「あれは………………いや。悪かったよ」
「――」
あれこれ言い訳せず謝罪の言葉を口にしたとたん。
見上げてくる顔がなぜか泣きそうに見えて、一瞬胸をつかれた。
(なんだ……? 俺……)
いや……でも見間違いかもしれない。
現に彩香の顔は、今涙を流されても雨雫と見分けがつかないほどに濡れそぼっている。
思ったより深く、罪悪感めいたものが自身に根付きでもしてしまったのだろうか。
「……で、高瀬がどうしたって?」
微かだが不可解な自身の動揺を抑え込みながら、先ほど彼女が言いかけていた内容をあらためて訊ねてみる。
「あ……」
「や――待て。先に制服乾かしたほうがいいか。どっかに――」
「そ……っ、そんな時間ない!」
逃げ腰を一時中断していた彩香がハッとして顔を上げた。
そうしてはいられない、とばかりに頭を振って。
「ゆ……柚葉がどこにも居なくて……!」
「どこにも……って――――家に、帰ってないのか?」
まさか、あれから?
あの時のことが原因で――?
思わず眉根を寄せて訊ねると、あわてたようにこくこくとうなずいて、さらに続けるべく彩香は息を調えた。
「全然電話にも出なくてメールも……。思い当たるとこ全部回ってみたけどどこにも……! さっき家にも掛けてみたけどやっぱりまだ帰ってない、って……」
「――ずっと一人で探してたのか?」
あれから……?
数時間前、侑希と自分の諍いの一部始終を聞いてしまい、高瀬柚葉が泣きながらミーティングルームを飛び出して行った状況を思い出す。
あの時からずっと……こんなにびしょ濡れになるまで――?
「さっき……何があったんですか? 柚葉、何か言ってませんでした? 何か心当たりとか……。絶対あの時何かあったんでしょ?」
「……」
何かあったかと訊かれたら、それはもう……大アリだが――。
長い間一途に待っていた侑希が彩香に想いを寄せている、と知ってしまったのだ。
そのショックは決して小さくはなかっただろう。
が、そこまでは察することはできても居場所に関しては当然のことながらまるで見当もつかない。
中学時代からの大親友であるこの彩香でさえ八方塞がりだというなら、知り合って間もない自分にはなおさら何の心当たりも思い浮かぶはずがない。
「柚葉のお母さんには心配いらないって言われたけど、あたし……もうどうしたらいいか……。あんな柚葉見たの初めてだし、とにかく気になって――」
不安でたまらないのだろう。当然だ。
普段からは想像もつかないほど弱々しい声を絞り出して目線を下げていく様子に、居たたまれない思いが込み上げてくる。
少なからず今回は自分たちのせいでもあるのだ。
――いや。
そもそもすべての元凶がどこにあるかなんて、考えるまでもなく明らかではないか……。
込み上げる後悔と罪悪感に、情けなくも目を伏せるしかなかった。
「あ、あたしやっぱりもう一回探してきます。もしかしたら何か困った状況になってるのかも――。し、失礼しますっ」
「や……ちょっと待て。一人で闇雲に走り回ったってどうしようもねーだろ。俺らも今――」
言いながらクラブハウス側を振り向こうとした、ちょうどその時。
「あれ……? 西野?」
先ほどと変わらず手ぶらで傘をさしただけの侑希が、いつの間にか歩み寄ってきていた。




