決壊(5)
「――」
驚愕を孕んだ自身の声に、部屋の中にいた二人もピクリと反応したのがわかった。
が。未だ室内まで目にすることのできない彩香がそれに気付くことはなく、
「あ、あのさ……ちょうどよかった。探してたんだ! 今日ちょっとわかったことがあって、あたし柚葉に話――」
何やら焦り気味にまくし立てながら、辛うじて立ち膝状態になって詰め寄ってこようとしていた。
「――――って、え……柚葉泣いてんの?」
そして涙でぐしゃぐしゃに濡らした顔を、この他人優先の親友が見逃すはずはなく――。
「ごっ、ごめん! そんなに強くぶつかっちゃた!? 大丈夫!?」
「――」
驚きで見開かれた瞳と止まらない大粒の涙が今の衝撃の――つまり自分とぶつかったせいだと思い込み、自らの痛みも忘れて心配そうに顔を覗き込んでくる彩香。
「ど、どうしよう病院行こうか! どこが痛い!?」
彼女のほうが遥かに派手に倒れ込んでいたというのに。
部活許可がおりたとはいえずっと安静続きで、誰よりも気を配らなければならないのは彼女のほうなのに……。
どうしてこんなときまで彩香は――
「と……とりあえず保健室に」
「!」
気が付けば、伸ばされた手を避けようととっさに後ずさってしまっていた。
「……柚葉?」
なんで?とばかりに目を瞠る彩香をこれ以上見ていられなかった。
彩香の横もすり抜けて、再び駆け出してしまっていた。
「え……柚葉っ!?」
後方で驚いたような声が上がっている。
でも振り返れない。止まれない。
幸いその声が追ってくることはなかったが……。
居たたまれなさに、まともに顔を見ることもできなかった。大切な親友だとあらためて認識したばかりだというのに。
純粋に心配して差し出された彼女の手も取れずに。
(あたし……なんて最低……!)
できれば今一番会いたくなかった。
彩香が悪いわけじゃない。それはじゅうぶんすぎるほどわかっている。
でも――
でもそうしたら、自分のこの滅茶苦茶になった感情は……想いはどこへ押しやればいい!?
侑希には今はもう他に好きな相手がいる気がする……と、怖いと思いながらも語ったのは自分ではないか。
じゅうぶん考えられることだから、と。
それが――
その相手が……たまたま彩香だった。よりによって彩香だった。
でも、それだけだ。
それだけのことなのに……。
彩香には別に好きなひとがいるのだし、それだけ、と確かに思えるのに。
現にこうしておもいきり避けるような態度をとってしまっている自分は何なのだろう?
やはり最低だ。何が親友だ。
純真な彼女の前で自分だけどんどん嫌な人間になっていくようで……。それがたまらなく怖いとさえ感じた。
今のこんな自分は、親友に心配され気遣ってもらう資格も価値もない……!
――『自信なんて持てるわけないじゃん。どうしちゃったの、柚葉?』
ふいに、自らを完全に無価値なものとして語っていた彩香の言葉を思い出していた。
ぎこちないながらも足は懸命に動かし続けたまま。
――『…………だろうね。わかんないと思うよ、柚葉みたいなヒトには』
――『どうせあたしなんか誰を好きになったって無駄だし』
――『こんなの見てくれるヒトなんているわけないじゃん』
(何、を……)
怒り、悔しさ、虚しさ、悲しみ――――湧き上がり押し寄せてくるこの感情が何なのかもうわからない。
把握しようとも思わない。できたところで意味なんかない。
さらに怒涛のようにあふれ出てくる涙で、すべてがもうどうでもいいことのように思えてくる。
何を……言っていたのだろう、彼女は?
あんなにも望んでくれるヒトがいたのに。
あんなにも――!
やり場のないすっかり判別のつかなくなった感情のままに、気がつけば荷物も何も持たずに校門を出て、なおも柚葉は走り続けていた。
◇ ◇ ◇
「え……え?」
ミーティングルーム前に半ば呆然と佇んだまま、取り落としてしまった荷物も拾わずに彩香は親友の駆けて行った方向を見つめていた。
とはいっても、もうその姿は完全に視界から消えていたのだが。
(何……だったの、今の?)
そういえば大喧嘩中だったっけ、と今さらながら自分たちの冷戦状態を認識する。
が、喧嘩中は喧嘩中でも今までの態度とは明らかに違う逃げ方ではなかったか。
そう、逃げたのだ柚葉は。この手を振り払うようにして。
まるでショックを受けなかったわけではない……が、それよりも――
(……あんな大泣きの柚葉って、初めてじゃない? 何かあった?)
思わず眉根を寄せ、ぐしゃりと前髪を握り込んでいた。
あの様子だと自分とぶつかったせいばかりではないのかもしれない。
少なくともさっきまで――解散の号令がかかるまでは普通に見えた。
とすると……
額に手のひらを当てて考えを巡らせ始めた矢先。
キイ、と鳴った音につられて背後を振り返る。
柚葉によって開け放たれたままだったミーティングルームのドアから、背の高い人物が姿を現していた。
「……早杉さん」
陸部用ショルダーバッグを肩に掛け、学校鞄を小脇に抱えた制服姿の早杉翔がゆっくりと踏み出してくる。
目を合わせてはくれたものの返事はなく、その表情がどこか硬いように思えたのも少しだけ気になった。
(二人、一緒だった……? もしかして何か――――やっぱり昔の話をしてくれたとか……!?)
ハッとして、ろくにスカートから土や汚れを払わないまま、彼の元へと駆け寄っていた。
同じ部屋の中にいた彼なら今しがたの柚葉の状態について何か知っているかもしれない、というその一心で。
「あ、あのっ……見ました? 今、柚葉が――!」
そうして。
ドアまで近付いて初めて、室内にもう一人――男子生徒の姿があったことに気が付いた。
「え……沖田くん、も?」
「――」
未だ練習着姿のままの彼の表情も、心なしか強張っている……ような気がした。
名前を口にしたとたん、わずかに顔を逸らされたようにも見えたが、気のせいだろうか。
(三人で……ここに?)
別段おかしなことではない。
どの部も使っていいことになっている部屋だし、陸上部もちょっとした話し合いや記録整理でたびたび使用している。
少し前、陸部顧問関口の言いつけで急遽スパルタ鬼コーチ(翔)による数学の課外授業が行われたのも、まさにこの部屋だ。
だから、この二人とマネージャーの柚葉が練習終わりにここに居合わせたとしても何ら不思議はないはずで……。
だが――
(この雰囲気って……いったい?)
ひどく取り乱した様子で、泣いて走り去った柚葉。
うつむきがちな硬い表情で、無言のまま立ちつくす男子二人。
仲が良いはずの彼らが…………気のせいだろうか、お互いに先ほどからただの一度も視線を合わせようともしていなくて――――
胸騒ぎがした。
元よりそれほど勘が働くタイプではないし、ちゃんとした気遣いのできる柚葉のような女子力もほぼ無いが。
「え……あの」
紛れもなくこれは良くないほうの予感、だ。
「何か――あった、の?」




