Past or Present?(3)
「え……」
一瞬、状況を忘れた。
何を言われたのか、どこにどう繋がる話なのか、このおバカな頭ではすぐに咀嚼できなくて……。
「え……と。すみません。――え?」
(早杉さん……が? 何……?)
「俺が侑に何したのか、って前に訊いてきたことあったろ?」
「あ……はい」
そういえば、『罪滅ぼし』と語っていたこのヒトの言葉がどうにも引っ掛かって、訊いてしまったことがある。
一時期、なぜか無駄に沖田侑希と自分の仲を取り持とうとしていたくらいだ。
それほどまでに気を遣わなければならないなんて、いったい彼は何をしてしまったのだろう?……と。
「俺のせいで、アイツが死にかけたことがある」
「え」
「まあ、ぶっちゃけると……大ケガさせて入院させた。ガキん頃にな」
「……」
静かに淡々とぶっちゃけられてはいるが、語られる内容はにわかには信じ難いものだった。
すっかり目を見開いて呆然とすること数秒。
「う、うそ……。だって沖田くんあんなに……全国行くくらい凄くて、身体だってどこも何とも……」
「今はな。けど、アイツに八歳以前の記憶はない」
「――」
記憶喪失?
そんなことがあり得るのだろうか。テレビや映画ではあるまいし。
「なん……で……? 嘘……ホントに?」
「……」
掠れ声から逃げるように無言でゆらりと立ち上がったものの、何かを耐え忍ぶように固く引き結ばれた唇。
翳った瞳はまたも伏せられ、何も語ろうとしない翔の意志が全身から滲み出ているようだった。
おそらくそれほどまでに辛い――何か思い出すのも苦痛なほどの過去が、あったのかもしれない。
そんな状態の彼に食い下がってこれ以上何かを訊き出そうとするのは、現段階では得策ではない。
それもわかる。わかるが――
訊き出せないにしても、このままでは……
「で、でも……っ、ほらアレですよ。ホントに全国行けちゃうくらい今は沖田くん元気なんだから。し、心配要らないんですよね? あとはもう何かでふっと記憶が戻ってくれたら、何も問題は――」
追って立ち上がり、無意味なジェスチャー込みで無駄に元気のおすそ分けを試みる。
侑希の現状についてももちろん本心だったのだが、とにかく今は少しでもテンション回復をしてくれればと願ってのことでもあった。
好きな人がここまで元気の無い――すっかり気落ちしている様子を見るのは忍びない。
いずれはあきらめなければならない相手だとしても。
が、そんな空元気を静かに一瞥しただけで、翔はため息を吐いてフェンスに寄り掛かった。
「いや……。それももう、無理かもな……」
黒々とした長い前髪をかき上げ、力なく笑いながら。
「……え」
「まったく思い出せそうにねーんだ、侑」
「――」
だから……見つけてあげたかった、のではないのだろうか? 大事な幼馴染の――沖田侑希の大好きだった子を。
記憶だって戻ってほしいと思っていたからこそ。
それであんなに一生懸命――何度も確認にきたりして、探していたのでは?
(それを……ここにきてどうして急にあきらめる、みたいな感じになってるの? このヒト――)
辛そうな……あきらめたような表情に、胸が詰まった。
立場上まったく関係ないはずの自分にさえこうして不安がどんどん押し寄せるくらいなのだから、おそらく本人の心情は……。
「そ、そんな……頑張りましょう! あ、あたしも力いっぱい協力しますから……っ。そーだ! 何なら沖田くん殴ってみましょうか!?」
「……は?」
「ボッコボコに! 学校中の女子を敵に回してでも! それでどーにか思い出せませんかね!?」
何かちょっとでも思い出すキッカケになるのなら、かなりいい案だと本気で思っているのだが。駄目だろうか。
調子の悪い家電をとりあえず叩いてみる両親の姿を、時々目にすることもある。
壊れかけのモノ(失礼)に一発刺激を与えてみるのは常套手段ではないのか。
真剣な顔で力説するさまを唖然と眺めていた翔が、小さく噴き出した。
「おま……相変わらず凶暴だな」
「だ、だって!」
沖田侑希の記憶のため――――ひいては柚葉のために何かできるとしたら、このくらいしか……。
というか、本当のところは。
ここまで落ち込んでいる翔の助けになるのなら、何かしてあげたい。
いつの間にかその一心だった。
辛そうな笑顔を見ているとこちらまで苦しくなってくる。
何があって……そんな表情で無理やり笑っていなければならないのか。
できることは――してやれることは本当に何もないのだろうか。こんなおバカには。
「ありがとな。……けど、マジで全然思い出せそうにないんだよ、アイツ」
すっかりあきらめたような顔で、翔はそれでも笑ってみせた。
「ま、まだそんなあきらめなくても」
「いや。もう何年もやってきた。散々揺さぶりかけたよ。聞いたことそっくりそのまま話してやって、『アズ』って名前のことも話して――――これはまあ……何でかわかんねーけど違ってたけど……。しつこいくらい話して話して手は尽くしてきた……つもりだ。ぜってー思い出さしてやる、って。俺なりに責任取ろうって――」
「責任って……」
「……言ったろ。俺のせいなんだって」
そうしてまた真っ直ぐだった目線は伏せられる。辛そうに。
「でも……だってわざと大ケガさせようとか、何かしちゃったわけじゃ……ないんでしょ?」
「当たり前だ」
「だ……だったら、何もそこまで早杉さんが――」
「悪気がなきゃ何してもいいってモンでもねーだろ」
「……そんな――」
何をしてしまったと言うのだろう……。
得体の知れない不安に押し潰されそうになる。
自嘲気味に空を仰ぐ翔を、しばらくの間茫然と眺めていることしかできなかった。
◇ ◇ ◇
癒し系女子の代表格のような高瀬柚葉に、突然、超高速で逃げられた形でひとりミーティングルームに残された沖田侑希は、というと――。
「ええと……」
予想だにしなかった柚葉の行動力――あまりの勢いと意外な素早さ――を目の当たりにし、つい宙に手を伸ばしたままのポーズで固まっていた。
ぱちくりと、瞬きだけは忙しなく繰り返しながら。
――いや、確かに髪の毛には触れてしまったが。
だが、そんなに――
「…………マズかったかな?」
逃げられたという実感だけはあったものの、思わずそうつぶやいてしまうほど、実のところはっきりとした自覚には至っていなかった。
よくわからないが、どうやらまた自分は何かとんでもないことをしでかしてしまった――らしい……?
鈍いにも限度というものがあるだろう……と思うが、本当にわからないのだから仕方がない。
開き直っているわけではない。自分に心底呆れているだけだ。
(それにしても……)
ため息混じりに自身の不可解な言動を反芻しながら、ようやく引いた手指をついしげしげと見つめてしまう。
(何だ、さっきの自分の動きは――)
先日の西野彩香に対する図書室での行いもそうだが、アレともまた少し違っていた。気がする。
あの時なぜか急に湧き起こったのは嫉妬心だった。それは認める。
だが先ほどの行動は、そういった類のものではない。
そういう激情にかられてつい……とか、何か他に気を取られての無意識な動きだったわけでもなく……。
気が付くと、ごく自然に手が伸びていたのだ。彼女のほうに。
吸い寄せられるように。
そうするのが当たり前であるかのように――。
(当たり前って……うわ……。こんな節操無かったのか……。なんか最低だな俺)
呆れるのを通り越して、何やら自分を空恐ろしくさえ感じてしまう。
ちょっとした不調がここまで――言動にも精神的にも影響をきたしてしまっているのか。
高瀬柚葉はああ言ってくれていたが、微かな頭痛は常にまとわりついている。
慣れてしまっている……だけだ。
疲れやすさも、注意力がすぐに散漫になってしまうのも、あれから――――記憶が根底から大きく揺さぶられたあの瞬間から一向に解消されてはいない。
思ったとおり、連動するようにここ最近のタイムも乱れているし……。
ため息を吐きながら記録されたファイルをパタンと閉じ、グラウンドへ出ようと立ち上がった。
ここまであちこちに支障を来しておいて今さらだが、早いとこ手を打たなければ。
(けれど……どうしたらいい?)
どうすれば、常に靄がかかったようなこの頭の中がすっきりと晴れてくれるだろうか?
何もかも思い出すことができれば、この不安や痛みは本当に和らいでくれるのか。
少なくとも……あの真面目すぎる幼馴染――翔を妙な「責任感」や「呪縛」といったものから解放してやることはできるだろう。
こちらとしては初めからそんなもの、一切望んでいなかったのだが。
ドアを閉じながら、さらに深いため息をひとつつく。
もしかしたら、自分はずっとこのままなのかもしれない。
けれど、別にそれでもいいと思っていた。
身体的な不自由は何もない。
罪悪感に沈む翔を元気付けようと、自分はこんなにも大丈夫なのだとアピールしようと始めた陸上で、ここまで来ることができたのだ。むしろ感謝したいくらいだ。
あとはどうにか上手く自身をごまかしながら、ことある毎に気を遣ってくる幼馴染を叱咤しつつ笑い飛ばして、この痛みや不安とずっと付き合っていくしかない――のだろう。
そういったあきらめも自分の中には自然に芽生えてきつつある。
欠けてしまった時間と記憶に心残りが無いわけではないが、決して取り戻せないものをいつまでも欲しいとゴネて足掻いていても仕方がない。
(まあ……それならそれでしょうがない。与えられた環境で最善を尽くせばいいだけだ)
気持ちを切り替えてため息を吐き切り、第二グラウンドへ向かいかけた。
そんな意識の端で――
ふいに、建物の裏手にひとの気配を捉えた気がした。
(話し声……?)
なぜ気になったのかはわからない。
が、少しだけ戻って物陰から窺うと。
人気のないクラブハウス裏手に、フェンスにより掛かるようにして立つ早杉翔と西野彩香の姿。
(何やってるんだ? もうすぐ練習時間なのに着替えてもいないであの二人は……まったく……)
はっきりと声が届く距離ではない。
また何か妙に自分のことを吹きこまれたり、いつもの怒鳴り合い一歩手前の応酬だろうか。
しょうがないなあ……と笑みをこぼしながら二人の元へ向かいかけ――――
すぐに足が止まってしまった。
「――」
真剣な表情で話し込む二人。
何を話しているのかはわからないが、尋常ではない雰囲気が伝わってくるような気がした。
いつものおちゃらけた笑顔、怒鳴り合う声などもなくただ伏し目がちに、時には真っ直ぐに視線を合わせて話のやり取りをしている。
(いったい、何の話を……)
ふいに、先日部室で交わした翔との会話が蘇る。
そうだ。あの時も冗談めかした、いつもどおりの――
――『翔自身は大丈夫なの? 誤解されたら困る子とか、いないの?』
――『……いない。……ことも無くも無くも無くも無くも無い』
いつも、上手くはぐらかすだけでなかなか本心をさらけ出そうとしない翔。
変な罪悪感に縛られて、いつもいつも……自分に気を遣うばかりの――――
知らず、握り込んだ拳に微かに力がこもる。
(まさか翔……西野のこと――?)
いつの間にか見開かれていた目は捉えた光景からなかなか離れられず、止まってしまった足も動かない。
「あれ、沖田? どうした?」
突如、背後から響いた香川の声に、急激に意識が引き戻される。
「あ、部長……。いえ、何でも――」
と同時にどこかホッとした思いが湧いてくるのも、感じていた。
「悪い悪い、遅くなって。急いで着替えて出てくから、先、集合かけといてくれるか?」
「はい」
バタバタと男子部室に駆け込む香川を見送りながらも、意識はずっと建物の裏手に向いている。
間違いなくその自覚はあったものの――
「……」
無理やりそれを断ち切るように、あえて振り向かずに、ゆっくりと侑希はその場を後にした。




