守るべきもの(1)
「ちょっと彩香」
いつもどおり最寄り駅のホームに降り立って帰宅ラッシュの人の波に乗り、いつもどおり改札を抜けて「じゃあまた明日ね」と親友とは反対方向の出口へ向かいかけた身体がクンと引き止められたと思ったら――
「あたしに何か、言うこと無い?」
神妙な面持ちの柚葉に手首を捕まえられていた。
今の今まで気付かなかったが、わずかに怒っているようにも見える。
「え……っ」
「彩香のほうから言ってくれるのさっきからずっと待ってたんだけど? もういい。訊いちゃう。少しだけなら――時間、いいでしょ?」
色白細面の綺麗な表情のなかに、何やら苛立たしげな様子も滲み出ている。
そういえばいつもに比べて帰りの道中、口数が少なかったような気が……今さらながらしてきた。
(ま、まさか今日の図書室でのことを知られてる……? う、嘘でしょ? いや、そんなまさか――)
往来の邪魔にならないようにと有無を言わせずそのまま手を引かれ、薄暗い外へ出る。
南口を選んでくれたのは時間を取らせて申し訳ないという柚葉の気遣いかもしれない。
が、それに感謝する余裕もないほどどこか剣呑とした雰囲気を感じて、彩香は思わず息を呑んだ。
「早杉先輩と何があったの?」
階段脇の細い舗装道路に着くなり強めの口調で切り出した柚葉の質問は、予想していた内容から少しだけ逸れたものだった。
とはいえ完全にホッと胸を撫で下ろせる状況ではない。
「え……え? な、何いきなり……」
結局一時間付き合わせてしまった、屋上でのやり取りが脳裏に浮かぶ。
あの場面に関してだけなら報告しても……と一瞬思ったが、やはり無理だとすかさず判断して口を噤んだ。
「何かあったの? 日中、先輩に会った? 部活の前にとか」
「う、ううん。べ……別にっ」
どういう流れで学年の違うあの人物とそうなったのか――
要するにその直前の図書室での一件も隠してはいられなくなりそうで、気付いたら首を横に振っていた。
沖田侑希にキスされそうになったという事実を組み込まずに、そういう状況に至った経緯を説明できる自信がまるで無い。
「…………そう。じゃあどうして早杉先輩、あたしのとこに来たのかしらね?」
白を切ってごまかされるのは想定内、とばかりに柚葉がやや呆れたような瞳を向けてきた。
「さっき後片付け中に、彩香のこと訊きに来たけど?」
「え……っ」
「以前、中学の時にでも何かあったのか、って。『冗談』って言葉に過剰に反応してるふうだったけど何か知らないか?って」
「――」
いつの間に――というより、取った行動そのものが驚きだった。
アイスを手に戻って来てくれただけではなく、口を割りそうにない自分の代わりに親友に事情を尋ねに行っていたなんて――。
「先輩ずいぶん気にしてたよ?」
「……」
「今まで軽い気持ちで『バカ』『ブス』言ってたことがそうとう彩香を傷つけてたんじゃないか、って。午後の授業あいつ大丈夫だったか?……って」
そんなに気にさせてしまったのか……と思うと、一緒に息苦しさまで蘇ってきた。
知らず、ボルドーのリボンタイを強く握りこむ。
やはり謝られたからといって迂闊にうなずいたりするのではなかった。
どうしようもない後悔の念が湧き起こる。
「全然そうじゃないのに」と、叶うことなら数時間前のあの瞬間に戻って翔に強く訴えたかった。
なぜだか急に蘇った最悪の思い出を上手いこと処理しきれず、つい八つ当たったような状況になってしまった。……それだけなのに。
「彩香には悪いけど『そんなこと言ってたんですか? 先輩最低ですね』って思いっきり睨んできたからね。一応言っとくわ」
「ええ!? な、なんでそんな! そ……それで? 早杉さん、どう……」
「知らない。失礼します、ってとっとと立ち去って来たから」
「…………」
涼しい顔で明後日の方向に視線を投げる大和撫子に、唖然としてしまった。
……やはりこの般若、怒らせると誰より恐いかもしれない。
弱点という弱点も見当たらずほぼ完璧人間に近い――ある意味沖田侑希と同類とも言えるあの翔に、そんな態度をとれる人間なんてそうそう居ないだろう。
「――で? 彩香は何を隠してるの?」
さっさと本題に入ろうか、とばかりに柚葉がいっそう語調を強めた。
「っていうか四時間目どこにいたの? 本当に保健室? その時に一緒だったんじゃないの? 先輩と」
「そ、それは……」
「一緒に職員室に呼び出された侑くんが普通に戻ってきてるのに、彩香はいつまで待っても帰って来ないし。何かあったんじゃないか、って心配だったんだから」
「……」
たたみ掛けるように核心を突いてくる親友に何も言葉を返せず、どうしよう……という思いばかりが頭の中を駆け巡る。
「――言えないんだ? あたしには。そんなにあたしじゃ頼りにならない?」
「ちが……そ、そうじゃなくて」
「じゃあ何? どうして何も話してくれないの?」
真剣な表情で、柚葉は静かに怒っている。
「早杉先輩に会えたとか何かイイことがあって嬉しかった、ってだけならここまで食い下がったりしないわよ。先輩はあんな様子だったし、彩香だって今そんな辛そうな顔して……。これで心配するなってほうが無理でしょ。違う?」
本気で自分を心配してくれている。
「違わない……。ごめん」
わかっている。
でも――
侑希とのあの件だけは言えない。
たとえ冗談だったとしても、柚葉には知らせたくない。
観念しましたとばかりに目を閉じ、少しばかり大げさにため息をついてみせた。
「ごめんね。実は――そう、ちょっと柚葉には言いづらくて……黙ってたことがある」
「……」
「早杉さんのことはやっぱり……何がなんでもあきらめなきゃって、思ってさ」
言葉途中で早くも柚葉が眉をひそめた。
ぶつけられた質問からは明らかにズレているし、真実を言えない罪悪感は残るが…………これも嘘ではない。
「バカとかブスとかチビとか、いろいろ――半分冗談っぽく言われてきたのもわかってたけど。……っていうか全部本当のことだし、いいんだけど! でもこのままじゃ――いつまでもズルズル関わり合ってたら、あたし的にダメだな……みたいな? 瑶子さんのこともあってあきらめるいい機会だし、ちょっと必要以上に拗ねて怒ったフリ、しちゃったんだよね。そんなに気にさせちゃうとは……思ってなかったけど」
そういうことに、してしまおう。
たはは……とごまかし笑いに逃げるさまを柚葉は怒ったような目で見ている。
勘の良い彼女のことだ。
何かおかしいと、無理があると……もしかしたら気付いたのかもしれないが。
でも、もう退けない。
「なんで、彩香があきらめなきゃならないの?」
「え?」
「なんで頑張ってみようと思わないわけ?」
一瞬、何を言われているのかわからなかった。
どうしたというのだろう、この親友は……。
そんな無茶な――というか無駄なことを本気でさせたいと思っているのだろうか。
「が……頑張るって――……だからあのヒトには彼女が」
「そうじゃないかもしれないじゃない。現に先輩あんなに彩香のこと気にかけてくれてるじゃない!」
「だからそれは――違うんだって」
「何が?!」
少し前は侑希との間を取り持とうと(?)謎な策略を巡らせていただけだし。
今回のことは――うっかり動揺なんかして変に取り乱したような姿を見せてしまったから……それを気にしてくれているに過ぎない。妙な罪悪感を植え付けてしまったようだし。
「だ、だから……え……っと」
「何がどう違うの? だったらわかるように説明してくれる?」
眉根を寄せて本気でわからないというように柚葉。
「そ、それは……」
どこを取っても彼女に言えないこの状態は何だろう。
いつの、どの時点からこういうことになっていた?
(……ダメだ。このままじゃ――)
頭の奥深くで鳴り始める警鐘。
「そ……その」
言い淀みながら、思わず愕然としてしまった。
自分の今までの頑張りは、それほどまでに意味の無いことだったのだろうか。
柚葉に幸せになってほしいと思う気持ちは本物なのに……。
じわじわと押し寄せる得体の知れない感情に、ひどく動じている自分に気付く。
このままだと壊れる。壊れてしまう。
(柚葉との関係が……)
焦りとも混乱ともつかないそれを恐れるあまり――
「い……いいじゃん、もう!」
軽く明るく――ともすると能天気とも取れるように声を張り上げていた。
めいっぱいの笑顔を、あえて試みながら。
一刻も早くこんな空気を消してしまわなければ、と思っていた。
「頑張ったって、どうせ何したって――叶うわけないってあたしなんて! あんなモテ種族とはどうせ激しくつり合わないんだし、ねっ? ねっ?」
やってみるとできるもので(実際は無理してますと言わんばかりの変に引きつった顔だっただろうが)、最後は少しだけ本当に笑い声がこぼれ出てしまった。
よしよし、こうなったらいつものように笑ってごまかしてしまえ、と思った――――矢先。
「――彩香のそういうとこ、本っっ当に理解できない」
冷ややかな――吐き捨てるような柚葉の声に、馬鹿のようなごまかし笑いが一瞬で固まった。




