「好き」と「傷」と「ガリ×2」と(2)
(今の流れだと、完全に早杉さんにキレてしまったように思われた……よ、ね)
「あ……ち、ちが」
ヤバい!と、すぐさま前に出した両手をブンブン振り『あなたにキレたんじゃないです』アピールを試みる。
「ち、違います今のはっ……あの……っ」
が、驚きで瞠られた目と固まったままの翔の表情に変化はない。
それどころか。
「――ごめん。俺……まさかそこまで」
微かに焦りのようなものまで滲ませて、まっすぐに申し訳なさそうに見下ろされてしまった。
「いや――ほ、ホントにっ違うんで……! 早杉さんとか……沖田くんに向けて言ったんじゃなくて――あの」
胸がぎゅっと締め付けられるように痛んだ。
それこそ、どう言ったら伝わるのだろう。
かといって本当のことなんて話せないし話すべきではない。自分以外の人間には本当に関係ないことなのだから。
「マジで……悪かった。けどおまえ何もそこまで――」
「あ……す、すいません。いいんですいいんです事実ですから」
真剣な表情。
謝らせてしまっているこちらのほうが申し訳ない思いでいっぱいだというのに。
「事実、って……」
「誰がどう見たって本当のことなのに、す……すいません。うっかりキレちゃうとか最低ですね……あははは」
「いや、だからそれは――」
「や……八つ当たりです。そう! だからもういいんです! そ……そんな、気を遣われるとかえって虚しいだけって言うか……!」
苦しい。頭が回らず、上手いこと言葉にもできなくて……。
もどかしさと虚しさで涙までこみ上げてきた。
こんな顔を見られたらさらに謝られてしまう!……と、とっさにうつむいて抱えた膝の上に伏せる。
「――――」
「だからもう……この話は――す、すいません……やめてもらって、いいですか」
八つ当たり以外の何でもない過去への憤りや昂りのせいで、好きなヒトにこんなふうに気を遣わせてしまうなんて。
「大丈夫……なんで……」
思いのほか興奮してしまっていたのか、呼吸までままならなくなっていた。
気付かれたらまた心配かけると踏んで、なるべく肩を上下させないようにそっと――だが長く深く息を吐き出してどうにか気を落ち着ける。
情けなくてみっともなくて、今は自分が消えてしまいたかった。
意味不明な唐突すぎるキレように、さぞ驚いておもいきり呆れ果てているだろうと思うと――顔を上げられない。
気のせいかもしれないが、すぐ横からずっと見られているような気配も感じる。
何だこいつ、と絶対思われた。
面倒くせえこいつ……と怒っているのだろう。
無駄に助けるんじゃなかった、と後悔さえしているかも……。当然だ。
沈黙が、やけに長く感じられた。
実際にどれくらいの時間が経過していたかなんて、知る術もなかったのだけれど。
「おまえ……授業どうする? 戻るか?」
穏やかな吐息とともに、横でスッと立ち上がる気配がした。
続けて制服に付いた汚れを軽く叩き落とす音。
無言で立ち去られてもおかしくないことをしてしまったのに、それでも気を遣って訊ねてくれているのかと思うと、不思議にも少しだけ落ち着けた。
息苦しさが徐々に和らいできたような感覚に幾分ほっとしつつ、それでも膝を抱えた格好のまま当然顔は上げられない。
簡単に消え去ってはくれないのだ、悔恨の念というものが。
「……」
言葉なく、軽く首を横に振って見せた。
ここで一緒に戻ると言って立ち上がれば少しは可愛いげもあっただろうに……と苦笑いしたくなったが、まあ無いものを無理やりかき集めたところでどうにもならないだろうし、たかが知れている。
何にしてもただでさえみっともない泣き腫らした目に、今しがたの動揺が上乗せされた顔では教室になんて戻れない。
皆の好奇の視線を集めてしまうのは元より、沖田侑希だってきっと気にする。気を遣わせてしまう。
勘のいい柚葉にだって、何かあったとかなりの確率で気付かれてしまうだろう。
図書室での侑希との一件だけはどうあっても知られるわけにはいかない。特に柚葉には。
「……どうぞ、戻ってください。あたしはもう少し……ここにいます」
伏せたまま顔を上げもせずに先輩に対して何て態度だよ……という自覚はあった。
――が。
「そか」
それに対して何ら突っかかることも気にするふうもなく、翔があっさりと身を翻して歩き去って行く。
その気配が完全に遠く離れ、校舎内の階段を下っていく足音が聞こえ始めたところで、抱え込んだ膝からようやく顔を上げ空を仰いだ。
嫌味なくらい晴れ渡った青空に、くっきりとひとつだけ置き去りにされたような小さな雲を見つけた瞬間、たまらなく泣きたくなってしまった。
◇ ◇ ◇
思ったより雲の流れが速い。
この後天候が崩れるのか、単に地上付近の風が強いからなのかはわからない。
それとも、沈んだきり動かなくなっているこの感情のせいで、周囲の変化が速く思えるだけ――なのだろうか。
コンクリートに仰向けに寝転んだまま、彩香は空に向かって両手をかざした。
こうして遮らなければ目を開けていられない――というほどまぶしいというわけではないが、確実に日焼けはする。
……まあ、焼けたからと言って何が変わるわけでも困るわけでもないが。
何も心配することなかったか、と小さく笑いパタリと腕を下ろした。
このまま見上げていると、自分の体も一緒に流されて空のどこかに運ばれていってしまいそうな――そんな錯覚に陥る。
それもいいかもな……と思った時、小さな鳥が一羽、視界を横切って飛んでいった。
高度としてはわりと低い。やっぱり雨になるのかもしれない。
そういえば、あの時も雨だった。
中学三年のあの時も、その前も――。
雨が、いつもいつも嫌なことを運んでくる。
逆か?
嫌なことや辛いことがあって打ちのめされているときに、雨が降る?
まるで空が代わりに泣いてくれてでもいるかのように……。
じゃあ今日も泣いてくれたりするのだろうか。
(……って、詩人かあたしは)
さすがに何となく痛々しさを感じて、苦笑交じりに身を起こす。
立ち上がって北側の手すりへと足を向けると、無人のグラウンドと体育館が見渡せた。
幸い外で体育をしているクラスはないらしい。
(あれ)
手すりに両肘と顎を預け、今さらながらふと思った。
今の状況、あの時とよく似てはいないだろうか。体育館脇で一年の美郷らに取り囲まれたあの時と。
翔にとってはさぞ理不尽極まりなかったことだろう。
せっかく助けたと思ってもワケのわからない悪態をつかれて「何だコイツ、ヘンな女」と絶対思われたはずで……。前回のまんまではないか、そのあたり。
それにしても「変だ馬鹿だ」と言いながら毎度毎度懲りもせずよく助けてくれるな、とわずかに首を傾げる。
面倒くさいと言いながら、実はものすごくボランティア精神にあふれたヒトなのではないだろうか。
でもそれもさすがにもう無いだろうが――
(今度こそ、完全に終わったな……)
何もどうにもなっていないものを「終わった」というのもかなり語弊があるが、どうやら心底呆れられて見放されてしまったようだし。
もしかしたら、いよいよちゃんとあきらめられるかも――――いや、あきらめなければ。
瑶子の牽制とやらのこともあるし、ちょうど良かったのかもしれない。
ところどころ塗料の剥げた黒い手すりに両手を滑らせ、その場にズルズルとしゃがみ込む。
虚ろな目は漠然と東側の街並みを捉えていた。
直接目視はできないが、この視線の向こう……遥か先にあるはずの出身中学をぼんやりと脳裏に思い描きながら……。
――――忘れていたわけでも油断していたわけでもなかった。
中学三年のあの時も。
残念な……どころか他人よりかなり酷い外見を、どうやら自分はしているようだと理解はしていたはずなのに。幼いころから。
あらためて思い知った。
心のどこかではそれほどとは思っていなかったのだろうか。
単純に、その時に限って認識が抜け落ちてしまっていたのだろうか。
今となってはわからないしどちらにしてもおこがましい限りだが、どんなに期待できないレベルかをあらためて思い起こさせてくれた、知らしめてくれた一件ではあった。
卑屈になっているわけでも何でもなく、間違いなく感謝して然るべき出来事の一つだ。決して良い思い出とは言えないだけで……。
だから、完全に忘れ去ってはならないものだということもわかっている。
それ以前に忘れたくても無理なようだし。
(でもだからって、何もあのタイミングで出てくることないじゃん……)
よりによってあのヒトの目の前でさ……と、驚いて見下ろしてきていた翔の顔を思い浮かべた。
たまたま最悪な回想シーンに翔の「冗談」という言葉が重なってしまっただけ、なのに。
つい動揺して、まるで図星刺されて逆ギレしたように思われてしまった。
――のだろう。




