夏色(4)
部員たちをランニングに送り出し、フェンス近くで一息ついている篠原瑶子はジャージ姿まで美しい。
同じものを着ててもこうも違うとは……と内心激しく項垂れながら、彩香は何気ない体を装って近付いた。
その綺麗な立ち姿をロックオンしたまま背後を数往復し(見るからに不審者……)、今なら邪魔にならないかな?話しかけても大丈夫かな?と状況確認を徹底したうえでの第一声。
「よ、瑶子さんっ!」
よし、聞き逃されない程度に声はちゃんと出た。大丈夫。
――と思った……のだが。
(え? ……もしかして聞こえなかった? それとも……)
一瞬ぴくりと肩が震えたように見えたものの、悲しいかな、振り向いてもらえなかった。
「あ、あのっ、こないだはすみませんでした。あたしのせいで、その――」
ともすると怯みそうになる決意を叱咤しながら、最大限の勇気を振り絞って続ける。
っていうかここまで怯え……もとい、緊張してしまっている自分は何なのだろう? そこまで美人に弱かったのか!?と思ったが、その考察も後回しだ。
「…………何が?」
ようやく聞こえた瑶子の静かな声。
まるで感情がこもらないようなその響きに、どきりとした。
しかもこちらには背を向けたまま、その美しい人は突然何かを思い出したようにファイルをめくり始める。
話しかけるな、という意味だろうか……。
(や、やっぱり……あたし何か気に障るようなこと、した――?)
惜しみなく笑いかけ優しく手助けしてくれたころの面影を期待するあまり、言い様のない悲しみが込み上げてくる。
「えと……中学生たちに、その……。あ、あの時かなり危ない……怖い思いさせちゃったので……。ごめんなさい!」
無理やり不安を押し込め、それでもきちんと謝罪はしなければと震える声で言い切った。
これで許してもらえないのなら……そのときはそのときだ。
「やだな」
手を止めてようやく瑶子が反応した。
「それは退院してすぐにも謝ってくれたじゃない。しかも西野さん悪くないし」
振り向きざま、こぼれた綺麗な笑み。いつもどおりの――。
「は……はいっ」
気付いたらかなり本気でホッとしてしまっていた。
やっぱりたまたま、とか……何かタイミングが悪かっただけ……かもしれない。接し方が以前と違うような気がしたのも、一瞬冷たい対応に感じられたのも。
だって、そもそも心当りなんてものもないし――。
「そういえば、西野さんって塚本くんと知り合いだったの?」
普通に接してくれるとわかっただけで一気に緊張のほどけた彩香から視線を外し、作業のついでのように瑶子が訊いてくる。
「あ、いえ……知り合いというわけではないんですけど、前に一度だけ……」
「そうなの? じゃあ、さっき話してた子は? 一年生の」
「ああ美郷ちゃんですか?」
「ちゃん?」
軽く聞き返したとたん、瑶子が目を丸くして振り向いた。
「――フェンス挟んでこっちと向こうで言い合いになりそうだった子たち、の一人よね? 雰囲気おかしくなりそうで、そもそも外に走りに出る原因にもなったような」
「は、はい……。でも知らないうちにあの子にもお世話になってたり、意外なところで繋がりとかあったり、したみたいで……。そ、それがどうか……?」
(え……な、何?)
話の流れがわからない。
「西野さん、沖田くんとも仲良いよね」
「え……はい。同じクラス、なので」
彼女は何が……言いたいんだろう?
意図するところを掴めずにいるうちに、瑶子の表情がどんどん無くなってくるように見えた。
「……すごいのね、西野さん」
「え?」
「すぐに誰とでも仲良くなれちゃうんだ」
「えっ、そ、そういう……わけでも」
ないですよ、という言葉を思わず呑み込んでしまった。
「すごい」という言葉とは程遠い静かな表情なうえに、向けられた視線があまりにも真っ直ぐな――何かを問いたげなもので……。
「じゃあ……翔のこと、どう思う?」
微笑みの消えた美しい面で、彼女は真っ直ぐに見つめてきた。
「ど……ど、どう、とは……?」
「――」
声が、表情が震えてしまわないよう、必死にこらえる。
つい動揺はしてしまったものの、あなたのカレシが好きですなんて間違っても言えない。
今この瞬間だけはどうか失敗するな我が口よ!と思わずどこかに祈っていた。
「あの……と、とってもお似合いだと思います。瑶子さんと」
口にしたとたん、じわりと悲しい気持ちが込み上げた。
胸が痛くなったが――これは事実。
ごまかす必要もないからなのか、思いのほかすんなりと口をついて出てくれた。
「……お似合い?」
「はい」
ふっと微かに笑みをもらしたかと思うと、悲しげに目を伏せ瑶子はうつむいてしまった。
「西野さんって……」
「えっ、どどどうしたんですか? すみませんっ。あたし何かマズいこと――?」
「ううん、ごめんね。何でもない。ちょっと嬉しくて……。最近あたしたち、ちょっと……ね」
泣かせてしまったのかと焦ったが、困ったように微笑んだだけだった。
そのまま目を伏せ、瑶子は芝に座り込む。
「じゃあ西野さん。ついでにちょっと話聞いてくれる? 愚痴だけど」
「え……は、はい……あたしでよければ」
(うまくいってない、とか……? いや、でも……まさか)
し、失礼します……とおずおずと隣に腰を下ろすのを見届けて、綺麗な唇が緩やかな弧を形作った。
「ひどいのよ? 今年になって急に部活始めるって言い出したの。あの時だって、あたし本当は反対だったのに」
「どうして……ですか? 一緒に居られて嬉しい、とかは――」
「それはそうだけど……。でも受験だってあるし、心配よ」
「た、確かに」
どれだけあの人物が優秀だろうと「サクラサク」を約束されているわけではない。「彼女」としては気が気ではなかったに違いない。
仲の良い幼馴染にも心配されていたし、当初「何考えてんだアイツ?」と自分も疑問で仕方がなかった。
「それに……翔自身が変わってしまうんじゃないか、って不安のほうが大きかった」
「……」
その辺は……正直よくわからない。
あまりにも恋愛経験値が低すぎるせいだろうが。
「だって、翔がモテるのは知ってるよね?」
「は、はぁ……まあ」
「不安にもなるわよ。女の子たちが放っとかないし」
でも告白もちゃんと断ってますよ――つい口を開きかけるが、思い留まった。
わざわざ自分の口から伝えることでもない。
「彼氏」の人となりは誰よりもよくわかっているだろうし、もしかしたら本人からそういった報告も受けているかもしれない。
「現に秋まで残るなんて言い出しちゃってるしね……。こっちの心配なんて――」
「そ、それは……きっと瑶子さんと一緒に居たいから、ですよ」
そう考えるのも事実。
やりたいこと云々以前に、それが根底にあるのだろうとずっと思っていた。
恋人同士なら一緒に居たいと思うのも当たり前ではないのだろうか……と。
「……そうかな……?」
「はい」
「……本当に? そう思ってくれる?」
「はい……!」
「じゃあ西野さん、あたしたちのこと応援してくれる?」
「はいっ! ……って、え」
「嬉しい。あなたにそう言ってもらえると何か安心する」
(……って、ええ!? し、しまった……ついうなずいちゃった)
両手を合わせて破顔する瑶子を見た瞬間。
何と摩訶不思議。脳裏に般若の面が浮かんだ。
……気付いた時にはすでに遅しというヤツだ。
口をついて出てしまったモノはしょうがない――――が。
(や、ヤバイ……柚葉は怒る。絶対怒る。どどどどうしよう……)
気のせいか目眩までしてきた。




