夏色(1)
「明日以降、いつ退院してもいいですよー」
『なるべく』レベルの安静生活四日目の月曜日。
母とともにナースステーション内の一角に呼び出されるなり、担当の男性脳外科医が朗らかに宣った。
「えっ……あ、あの……もう大丈夫、なんですか?」
「脳挫傷」という診断名から、自分はもっと……なんというか重篤な状態にあるのだと思っていた。それこそ入院期間も数週間から数ヶ月を要するような。
もちろん知識も何もあるわけではなく、イメージ先行の思い込みだったに過ぎないが。
「ああ、娘さん本人にはまだお見せしてませんでしたねー」
唖然とする彩香にカラカラと笑いかけ、中年男性医師が手元のキーを操作して白黒画像が表示されたモニターを向けてきた。
「ほらここ、見える? この辺が出血した跡ね。こっちが三日前のやつ。ほらだいぶ小さくなってるでしょう?」
「は、はァ……」
脳内のCT画像というやつだろうか。
っていうか出血してたのか……。
ガチヤバだったのでは?と身震いしながら、つい食い入るように画面を凝視してしまった。
「もう少しズレてたら目のほう行ってたから危なかったねー」
サクッと普通のトーンで怖いコト言うなこの医師……とビビって固まる彩香から母親へと視線を移し、医師が続ける。
「で、退院後一週間たった辺りで一度様子みますんで。今、予約入れときます?」
「え、ちょちょちょ、あたし、こ……こここの血はこのままでいいんですか? ぬ、抜くとか頭開けて何か手術するとかは――」
「あー大丈夫ー。量が多かったらまずかったけどね。で、退院後の生活なんだけど……」
(そ、それで!? 血の話は終わり? 何がどうなってどうだから心配するな、とかの説明はないの!? この後どうなるの、この血たち!)
よほど不信感丸出しだったのか、「どこかに強くぶつかると青アザできるでしょ? それだって時間が経てば消えてなくなってるでしょ?」と笑いながら説明されたが、わかったようなわからないような……。
場所と出血量に関していえば比較的軽い症状で、とりあえず手術の必要はないらしい。
自分と違って母親は落ち着いた様子で話を聞いているし、もっと早くからそういう説明は受けていたのかもしれない。
だったらそう教えてよ……とふてくされかけたが、親も娘の入院などという初めてのシチュエーションにテンパっていたのかもしれないと思うと、口をつぐむより他はなかった。
ただ、後で聞いた話によると自分は本当に運が良かっただけであって、症状によっては緊急手術が必要な可能性もあったため、ああいう場合はやはりすぐに救急車を呼ぶべきだったのだと怒られたようだ。
聞けば、倒れた直後、取り囲む柚葉たちやスーパーの店員たち相手に朦朧としながら「警察も救急車も絶対呼ぶな」と駄々捏ねたらしい。
関係各所に本当にものすごく心配と迷惑をかけまくったのか……と思うと居ても立ってもいられず、同日午後に「なら今日退院させてくれ」と言ってみたら容赦なく却下された。
何はともあれ、人生初の入院生活は思いのほか早く終焉を迎えたのだった。
◇ ◇ ◇
「でも本当に良かった……。それくらいで済んで」
クラスメイトたちや顔見知りからの「ハイジャンで変に落ちたって?」や「ヤンキーの喧嘩に巻き込まれたって噂ホント!?」という類のいい加減な質問もだいぶ躱し慣れてきた昼休み。
少しだけ薄くなってきたこめかみの青アザを眺めながら、向かいに座る大和撫子がしみじみとつぶやいた。
「柚葉それ、もう耳にタコ……」
「だって! 本当に心配したんだから!」
ダンッと机にお茶のペットボトルを叩きつけて怒りをあらわにする親友から、とっさに逃げ出したくなってしまった。
「あ……は、ハイ。そうでしたね、す、スイマセン本当に……」
でも単身で見舞いに来てくれた時から数えてソレ何回目?……とは口が裂けても言えない。
柚葉には心底怖い思いをさせ、大泣きさせ、これでもかというほど心配かけてしまったのだ。
欠席分の授業ノートもしっかりもらったし。
以後頭が上がらないかもしれない。
こうした彼女の心配も痛いほどわかっていたし、様子が気になる人や会いたい人もいたため、本当ならすぐにでも登校したかった。
のだが……。
「二、三日は自宅で様子見たほうがいいですね」という医者の言い付けを忠実に(必要以上に)守った両親の意向により、結局退院後初の登校は事件からまるまる十日経った本日――月曜日と相成ったのである。
項垂れる彩香の目に映る久々の学舎では、みんなすっかりブレザーを脱ぎ捨て、白ワイシャツ白ブラウス時々アイボリーベストという夏色の様相を呈していた。
事件といえば――諸悪の根源であるあの生意気で物騒な中学生たちはどうなったのだろう?
箸をくわえたまま、ふと思う。
入院二日目に柚葉から聞いた話によると、学校側から向こうの中学にきっちり連絡を入れたらしいということだったが。
あんな卑怯な奴らとは二度と顔を合わせたくないし、彼らがどうなろうと知ったことではないから、まあいっか……と鼻息荒く残りわずかな白飯をかき込んだ。
「っていうか――食べる時くらい置いたら? それ」
しょうがないなあ……とばかりにクスリと笑って、柚葉が左手に握られたものを指差してきた。
ランチタイム真っ最中の今、当然右手には箸。左手には水色のシャープペンシル。
「はうっ!? あ、あたしいつから持ってた!?」
「……無意識なの……?」
驚いてつい放り投げてしまいそうになるものの、いやいやいやっ!とあらためて握る指に力を込める。
そんな乱暴に扱えるわけがない。自分でもバカだと思ってしまうけれど。
「それって、数学教えてもらった時の?」
「……うん」
それまでは何てことのないただの私物だった。
好きな人の手に触れたと思うだけで、宝物のように思えてくるから不思議だ。
あの直後の中間テストではゲン担ぎの意味も込めてすべてこのシャーペンで解き、それ以降も気付けばこればかり使っている。
入院中も用もないのにずっとサイドテーブルに置いておいて――。
「――って、き、キモいかなあたし? ……引く? 引いた? 引いたよね!? もうダメだ終わったあたしぃぃぃ!」
「こらこらこら彩香」
ぐわあああと頭を抱えて吠える様をあわてて抑え、退院してもできれば安静にでしょ、と柚葉が苦笑した。
「そんなことないよ。彩香、可愛い」
「うっ……か、可愛くなんか……」
ないけどさ……と心の声で締めくくり、照れ隠しにあたふたとシャーペンを仕舞った。
やはりダメだ。
最近自分が自分ではないようで……謎の何かに変化しつつあるようで、どうも落ち着かない。
この先を想像すると――――いや想像できないからか。
何か、怖い気がしてならないのだ。
ダメだダメだと思っても、一体どこまであのヒトを好きになってしまうんだろう。
「可愛いんだけど。でも……ソレやっぱり痛々しいよ。ちょっとでも隠したほうが……よくない?」
おそるおそるといった体で柚葉が左のこめかみを指してきた。
「ああ青アザ? でもねー……意外に隠したほうが目立っちゃうんだなーコレが」
「そうなの?」
「うん。昨日もさ――」
大きくうなずいて自分の頭部を指し示そうとした瞬間。
「彩香ー」
少し遠くから呼び声が掛かった。
空中に指を置き忘れたまま振り返ると、クラスメイトの女子が廊下から手招きしている。
「こっち。呼んでるよー」
「?」
カフェオレを一口だけ含んでササッとランチボックスに蓋をし、言われるまま教室の外に顔を出す。――と。
「うーっわ、想像を遥かに超えたブス!」
この十日間、会いたくてたまらなかったヒトが、そこに居た。
白シャツ、グレーズボンにネイビータイ。
薄手のアイボリーベストは、シャツを巻き込んで肘下でざっくりと折り返されている。
わざとらしく驚いてみせた後、一気に相好を崩して高い位置から見下ろしてくる早杉翔の姿に、嬉しさと気恥ずかしさが信じられないくらい込み上げてきて……焦った。
「ひ、ひっっどい! い、いきなりそれっ!?」
めいっぱい抗議しながらも、大丈夫だろうか変に赤くなってないだろうか……などと心穏やかではなくなっている自分にまず驚いた。
まともにブスと言われたことも、なぜかまったくと言っていいほど気にならない。
この人物の本質や優しさ、自分をからかって遊ぶのが半分趣味みたいなものだということも何となくわかってきていたからなのか、実際に無様な姿や失態も幾度となく晒してきて、すでにあきらめの境地にでも入っているということなのか……。
どちらにしても、はっきり笑ってもらえて、むしろ気が楽だった。
登校してまだ数時間しか経っていないが、心配と同情さらには好奇の入り混じった視線に晒されるのはもうウンザリだったし、特に心配と迷惑をかけまくった陸部関係者には腫れ物に触るような扱いをされたくなかった――というのもある。
それ以前に、純粋に会えて嬉しい気持ちが上回っているだけの気もするが……。
(くーっ、夏服も格好良くてムカつくなあぁぁっ! ベストも様になりやがって!)
「おー、ちゃんとうるせえ。すっかり復活してんな。良かった良かった」
「そ、それ言うために、わざわざ四階まで上がって来たんですかっ!」
そういえば沖田侑希情報で「翔は寒がり」ってのがあったな、と思い返しつつも必要以上に声を張り上げるのは忘れなかった。
この一個人限定の夏服フィーバーとテンパリ具合は決して気取られてはならない。
「いや、これはついで。ほれ」
「『ついで』って……」
飄々と答えながら翔が指し示した反対側には、今の今まで気付かなかったが、ワイシャツにネイビータイの男子生徒がもう一人。
「塚本先輩……」
呆れるでも止めに入るでもなく、騒がしいやり取りを見守る体で塚本が静かに佇んでいた。
脳挫傷の質問と答えのくだりは実話……。




