リベンジ(1)
白熱した県高校総体が終わり、ギリギリ赤点を回避した中間テストも終わった。
とりあえずは走高跳のクビも免れホッと一息ついていた、とある日の放課後。
某スーパー飲料コーナーの一角で心地よい冷気を浴びながら、陸部ジャージ姿の彩香がうーむと唸った。
「柚葉ー、紅茶ってミルクとストレートどっち?」
「え……っと両方だって。あとポカリが二本ね」
メモを見ながらそう応える柚葉の両腕には、すでにゼロ・コーラやら烏龍茶やらが重そうに抱え込まれている。
カートに乗せられたカゴにガコンと下ろされ、1.5Lのペットボトルたちが大きく揺れた。
「あと緑茶と先生のコーヒーと……」
「うっそ、まだあんの?」
「そう。だから彩香にも来てもらって正解だったよ」
今日は一人だけ早々と練習を切り上げ、二人の正規マネージャーに付き合って学校近くの激安スーパーまで買い出しに来ている。
「もーっ、か弱い女子にみんなここぞとばかりに好き勝手に頼んでくれちゃってー」
重いでしょーがっ、と眉根を寄せてメモを覗き込むと、はにかむように柚葉が微笑んだ。
「まあ、お祝いだしね」
綺麗に嬉しそうに目を細める親友に、パンパンに張っていたこちらの頬まで一瞬にして緩んでしまう。
なんと今年も、我が洸陵の短距離エース――沖田侑希が全国への切符を手にしたのだ。
大いに沸いた藤川光陵高校陸上部では、この日の練習後、特別にちょっとした祝勝会が催されることになっている。
「彩香も良かったね」
「へ?」
瑶子の姿がすぐ近くにはないことを確認しながら、柚葉が声をひそめて顔を近付けてきた。
「早杉先輩。秋まで残るって」
「あー……ね。どんだけ余裕なんだか……」
今日の祝勝会は、『一部の三年生お疲れさま会』を兼ねている。
なぜ一部だけの引退なのかというと――侑希の活躍を見届けたい、今から受験一色なんて嫌だ、などさまざまな理由で秋までの残留を希望する三年部員がほとんどだったからである。
例にもれず早杉翔もその一人だったようで。
またも駅のホームで出くわしてしまった際、
『えっ、残るんですかっ!?』
と、うっかり狼狽えてしまったら、
『あ? 残ったら困んのかよ何が問題なんだ、ええ? つか誰のおかげで赤点とらずに済んだと思ってやがんだ、コノヤロ。しかもあんだけやったのにギリギリセーフってどういうことだコラ』
といつもの頭グリグリの刑が公衆の面前で始まり、侑希と柚葉に仲裁に入られる、という一幕があったのだ。
だっていつまでも接点あったらあきらめられないじゃん……とはさすがに言えず、『いだだだ……』とされるがままになっていた数日前を思い出し、彩香はついため息をこぼした。
確かに彼のおかげで赤点もとらずに済んだようなものだが、このままではいろんな意味で精神疲労が凄まじく、身が保たなくなるのも時間の問題なのでは?と思えてならない。
「先輩入ったばかりだし、今辞めるの確かに勿体ないって感じよね?」
「んー、それもだけど……」
おそらくやりたいことがどうのこうの、というのもあるのだろう。
だが何よりも、本当の理由はきっと――
「どう? 二人とも。ドリンク類はOK?」
心当たりについ苦笑とともに目を伏せた時。
スナック菓子やお徳用菓子パンの袋をジャージの胸に抱えた篠原瑶子が、ひょっこり中央の通路から姿を現した。
「あ、はい……っ」
「瑶子先輩、ここ。置いちゃってください」
「ありがとー」
柚葉によって手際よく空けられた上段のカゴに商品を下ろしながら、瑶子は艶やかに微笑んだ。
屈託のない綺麗な笑顔とフワリと波打って揺れる栗色のウェーブヘアを眺めながら、あらためて思う。
(残留の一番の理由は、やっぱり瑶子さんの存在じゃないかな……)
この瑶子が秋までしっかりマネージャー職を務め上げるつもりだという話は、かねてより部内では知れ渡っていた。
それに伴い残留を決意したとしても何ら不思議はないし、恋人同士ならむしろ当然の選択とも言える。
「ね、ね。シュークリームとミニワッフル、どっちがいい?」
隣のスイーツコーナーで嬉しそうに瑶子が手招きしていた。
「ええ? 高くついちゃいません? お金足ります?」
「ギリギリ大丈夫。だってほら、美味しそうじゃない?」
カートを引いて歩み寄った柚葉と愉しげに話す姿を見て、彩香はそっと安堵の息をついた。
ミーティングルームでの数学指導の件からこっち、申し訳なさから少し気になって見ていたのだが、瑶子の様子はこれまでと少しも変わらない。
「西野さんは? どっちがいい?」
「え、あっ……あたしは、どっちでも!」
美人で人当たりも良くて、あの人にお似合いな……素敵なヒト。
そんなヒトに余計な心配をかけてはいけない、と心底思う。
いろんな偏差値が低すぎて、ハナから心配事の対象にもなっていないかもしれないが。
制御できないからと自分の気持ちに甘えていてはいけない。
きっちりけじめはつけなければ。
一刻も早くこの想いをかなぐり捨てなければ、と強く心に刻む。
「彼女」の安心を守るために。
そして、自分が傷つかないためにも――。
「でも、その分ずっしり重くなっちゃうね……。やめといたほうがいいかなあ?」
残念そうに肩を落とす瑶子の可愛らしさに、思わずくすりと笑ってしまった。
彼女もまた綺麗なだけじゃなくこんなに可愛い一面もある。
見目良いヒトたちってズルすぎる、と思うが憎めないのだからもう本当にどうしようもない。
「あ、それは任してくださいっ。あたし力だけはあるんで!」
じゃんじゃん運びますよっ、とできる限りの笑顔と力こぶポーズで一歩踏み出した時だった。
「へー、おねーさん力持ちなんだあ? 小っさいのに意外ー」
背後から思いもよらない声が乱入してきた。
振り向くと、ノーネクタイの濃茶ブレザーに腰パンの七、八人の男子中学生たち。
「あ……」
ニヤニヤ笑いながら、スイーツコーナーごと自分たちを取り囲むように並び立っていた。
「こーんにちはっ」
「久しぶり。小っさいおねーさん」
「ボクたちのこと憶えてますかーあ?」
忘れるわけがない。
数週間前の野外走中、おばあさん絡みで一悶着あった中学生たちだ。
あの時は遅れて走りに出た早杉翔が通り掛かってくれたおかげで事なきを得た――が。
今日は外を走る日ではないうえに、皆まだグラウンドで専門技術メニューをこなしている真っ最中のはず。
偶然誰かの助けが入るかも……という期待は、残念ながらできそうにない。
知らず、心臓が早鐘を打っていた。
動揺を悟られまいときゅっと唇を引き結び、指先の微かな震えを抑えこむよう強く両手を握り締める。
年下の少年たちとはいえ何やら物々しい気配と人数に気圧されて、瑶子も柚葉も不安気に黙したままだ。
「――憶えてる、けど。……何か用?」
怯えた様子の二人を庇うように、思わず前に進み出ていた。
身長差からしておそらく傍から見たらまったくサマになっていないだろうし、かなり無理がある構図だろうが。関係ない。
自分のせいで二人を危険な目に合わせるわけにはいかない。
「うわ、感動の再会なのにヒドいじゃん、おねーさん。また会えないかなあと思って、俺らよくコンビニの前で待ってたのに」
大げさにショックを受けたふりをしながら、脱色ツンツン頭の少年がニヤリと笑みを作る。
「もうあそこ走んなくなっちゃったの?」
「今日はイケメンのおにーさんとかも来なそうだし? ゆーっくりお話できそうだよねーえ? 会えて嬉しいよホント」
ズラリとピアスが並んだ少年も同調し、周りにいた少年たちも一緒になって鼻で笑った。
では――あのままでは気が収まらず、リベンジでも仕掛けようとあのコンビニ前で張り込んでいたということか……。
しかもどの段階から見られていたのか、今日は女だけとしっかり状況把握までしたうえで出て来たらしい。
なかなかイイ感じで卑怯だな……なんて末恐ろしいガキどもだ、と内心で呆れながら少年たちの顔をインプットするべく眺めやる。
ただ一人、笑いもせず不気味に無言を貫いている中央の眉ナシ少年で、視線が止まってしまった。
あのとき邪魔に入られたことによほど頭にきているのだろうか。
そういえば前回、最後まで鋭い目で翔を睨みつけていたのも彼だったような気がする。
「……わかった。話は聞く。でも二人は関係ないからあたしだけ――」
「何言ってんの? おねーさんだって関係ないのに首突っ込んで来たじゃん、こないだ」
この場で初めて、眉ナシの押し殺したような声が響いた。
「――」
「とりあえずここじゃナンだし。外、行こっか」
相変わらず中学生とは思えない目の据わりようとヤサグレた雰囲気で、少年が先導するように身を翻した。




