課外授業(2)★
「――」
(こっちには喋るなと言っといて、いきなり何っ!? その意味深な質問はっ!)
目玉が飛び出そうなほど驚いたが、よく考えるとこんなおバカな自分が珍しく意見らしきモノを求められているこの展開。
みすみす潰してなるものか、と彩香は頭ひとつ振って気分を入れ替え、気持ち背筋を伸ばした。
――だが、「アズ」?
「……念のため聞き直しますが『ユズ』じゃなく?」
「アズ」
表情を変えることなくうなずき、淡々と翔が繰り返す。
「名前かあだ名かもわかんねえ。ただそういう呼び名」
「ええぇ……? えーと、あずさ……あずみ……そのままアズとか? あずきちゃん、あんずちゃんとか……はないか。あ、苗字は? 東さんとか……」
「そういう名前、いたか? 中学までで」
「あたしの周りには……いなかった、かも。なんでですか?」
「……ちょっとな」
いないと聞いたとたん、腕組みして顎に手を当てたまま翔は何やら考え込んでしまった。
そういえば、名前が本名かとか特別なあだ名があったりしたかと訊いてきたこともあった。
誰かを捜している?
名前、もしくはあだ名に『アズ』がつく女の子を?
「やりたいことって、ヒト捜し……とかですか? もしかして」
だからって部活動を始めてもたいして意味はないような……気もするが。
「……や。これは別件だけどな。あっちは――――ワケわからん障害物が立ちはだかっててどうにも進まねーからよ」
「う……えっ?」
だ、だからなぜそこでこっちを睨むんだろう……と思わずたじろぐ彩香に、あきらめたような笑いをこぼして翔。
「けど、ちょっと原点に立ち返ってみるのも悪くねーかなって。――おまえのおかげだな」
「え」
「前に他のヤツにも言われてたんだわ。本当にできること全部したか、ってやつ。それすっかり忘れてた」
何について言ってるのかはわからない。
けれど。
定かではないが、一時期荒れて(?)いたこともあったというこの目の前の人物が、今この時点では少なからず前向きに――それどころか、その何かにしっかり向きあおうとしているらしい。
……そういうことなのだろう。
どこかすっきりとした柔らかい表情で窓の外を見上げている、そんな彼の姿を見る限りにおいては。
音のない穏やかな時間の流れるなか、いつの間にかまた手も視線も……止まってしまっていた。
「おら、見とれてねーでとっととやれ」
「う……は、はいっ」
「ぶっ、マジか」
「見とれてたんかい」とぶはっと噴き出すイケメンの姿にまたもハッとして、彩香はがっくりとテーブルにへばり付く。
自己嫌悪と後悔に苛まれ、どーしてどーしてっあたしのクチってこう……と項垂れる様子に、収まらない笑いを滲ませて翔が目を細めた。
「ほんっと、変な女」
「うっ」
も、もういいよ。何とでも言ってくれっ……とあきらめの境地に浸りながら、突っ伏したテーブルからちらりと目だけを上げる。
「乱暴でやかましいだけの馬鹿かと思えば、妙に前向き発言しやがるわ誰かれ構わず助けたがるわ……。何なんだおまえ?」
「何なんだ、と言われても……」
困る。
でも……そういう彼こそ自覚はあるんだろうか?
いつの間にか不機嫌さがすっかり消えて、こんなにも自然に笑ってくれている。
それだけのことなのに、自分の心もこんなに軽い。
「ほらトロトロしてねーでやれ。終わんなきゃ跳べねーんだろ」
「そ、そっちが話しかけてきたんじゃん、今のは!」
「ああああ?」
すかさず手のひらが降ってきかけたところに、外からガチャリとドアが開けられた。
「あ、ごめんね。邪魔しちゃった?」
鷲掴み攻防ポーズのままで軽く目を見開く二人に、陸部ジャージに包まれた篠原瑶子の美しい笑顔が向けられた。
「瑶子」
「い、いいえっ! とんでもっっ!」
(っていうかあたしが邪魔ですねハイ、わかりますっ!)
心の声とともに、彩香がとっさに勢いよく立ち上がる。
傍らでは――というか、自分たちの間に自然に入り込むような形で――やわらかな笑顔で中央の長テーブルに歩み寄ってきた瑶子が、手にしていた紙片を差し出していた。
「翔、これ。頼まれてた替えの練習メニューなんだけど」
「ああ……――って、おいコラ。何どさくさに紛れて終わろうとしてんだ」
「えっ、だって……!」
「『だって』じゃねえ。続きを解け。今日中に終わんねーぞ」
ちゃっかりしっかり後片付けに入っていた首根っこを引っ掴まれ、無理やり元の椅子に座らせられてしまう。
「うう……」
だって、嫌すぎる……この位置。
プリントに隠れながらちろりと目だけを上げる。
半泣きで課題に向かっても、一枚絵のような完璧ともいえる美男美女カップルのやり取りがどうしても視界に、意識に、入ってきてしまうわけで。
(……綺麗だなあ。やっぱりお似合いだ……。完全にチョー場違いなお邪魔虫じゃん、あたし)
「止まってる。手」
「はっ」
隣に立つ美人な彼女と話している間もきっちり目を光らせているなんて、この人何者?
なんて真面目なのだろう!?
「違う。だからそこはあ」
「だ、だってさっきそのまま覚えろって――」
「どう見てもさっきのとは形が違うだろーが。バカか? バカなのか? どうやってウチの学校入ったんだおまえはっ」
「死ぬ気で勉強しました……」
「じゃあ死ぬ気を持続させろ。死ぬまで励め」
「に、入試で燃え尽きちゃったかなあー……? あはははー……」
「――って、おま……去年の内容からガッタガタじゃねーか! やり直せ。消せ。そこ全部!」
「え、えぇー……」
不穏な空気を醸し出しつつ紙ぺし用に課題プリントを巻き直している翔(こえー……)と、恐れおののきながらも「あ、あれっ? えっと……」と懲りずにトンチンカンな解答を導き出しては笑ってごまかしている彩香の間に。
「もうちょっと優しく教えてあげたら?」
しばらく黙って見ていた瑶子が、クスクス笑いながら助け船を出してくれた。
そうだそうだーと心の中で同意したら、なぜかバレて結局お約束の鷲掴みが来た。(!)
「だーーーーーーっ、違う! ダメだこりゃ。――瑶子、さっきの案は明日からな。今日はたぶん無理だ、終わんねえ。なあ!?」
「え……っ! あ、あたしのことはお構いなく……どうぞお二人は練習に行っちゃってくださ――」
「あああ!?」
(こ、こわい)
「わかった。頑張ってね西野さん」
「瑶子さああああああん!」
助けてえぇぇと半泣きで手を伸ばすも、すでに出口に向かっていた美人マネージャーは屈託のないやわらかな笑みで振り返った。
「じゃ、香川くんたちが終わったらマット片付けておくね」
「えっ!?」
「おう、そうしてくれ」
(な、なんて気の合うカップル!)
「明日も明後日ももしかしたら要らねーかもな」
「!? ヒドい! 横暴ー! 鬼ー!」
「何とでも言え。こうなったらもうぜってー意地でも赤点とらせねーからな。死んでもやりきれよ?」
「ひいぃぃぃ」
「おら次。問3!」
――こうして、なし崩し的に第2ラウンドに突入してしまっていたため、気が付くことができなかった。
開きかけたドアをそのままに、瑶子が一度だけ振り返っていたことに。
そして……わーぎゃー続く二人のやり取りを視界に収め、微妙な表情でそっと会議室を後にしたことにも――。
いつドアが開いたのかも気付かなかったが、抗争中に瑶子が席を外していたことを知るや、彩香のイライラに火が点いた。
本来ならば自分こそが気を利かせて退出すべきところを、この鈍感彼氏のせいで!と難しい顔で課題を睨みつけている翔を見上げる。
(こんなバカ女の課題なんかより、彼女の心情を察してやれっつーの……)
「……っとに空気読めないっていうか、デリカシーないっていうか……これだからイケメンどもは……」
「ん? 何ブツブツ言ってんだ」
いくら寛大な彼女でも、彼氏が目の前で他の女と一緒にいるところなど見たくないに決まっている。
(あ、女カテゴリーにさえ入ってないんだっけあたし? いやいや、でも……っ、お仕置きだろうが何だろうが彼氏が自分以外の女に気安く触るのも嫌に決まってんじゃん! 恋愛偏差値最低ランクの自分でさえわかるぞそんなこと! それなのになんでわかんないんだ、この男は!?)
そんな安心しきってるといつか呆れられてフラれるぞっ! とつい鼻息も荒くなる。
――が。
…………ナイか。
瑶子の想いはそうとう大きくて深そうだし……と、はたと思い返してすぐさま熱がひくのを自覚する。
でも……そうか、それだけ信じ合っちゃってるってことなのだな、と納得した。
おそらく、誰も入り込めないほど二人はしっかりとお互いを想い合っているのだ。
(い、いやいや入り込もうなどと思ってるわけではなくてっ! 思ってないってば、これっぽっちも! ホントだって!)
ハッとしてぶんぶん頭を振り、終いには自らの描いた妄想にケンカを売り始める彩香の耳に、ぷくくく……と笑いを堪らえる声が届いた。
「な、何ですか」
「――おまえ、ほんっといろんな表情すんのな。バカみてーに素直っつーか」
いつの間にか百面相していた彩香を面白そうに眺め、整った顔がクスクスと笑っていた。
(う……っ、そっちこそ彼女以外の前でそんなカオしないでよ)
笑ってくれない、と先ほどはあれほど拗ねて悲しかったのに……これはこれで、困る。
我ながら厄介な感情を芽生えさせてしまったものだと思う。
好きって気持ちはなんて面倒なんだろう。
半端に後悔だけしてもまったく意味は無いし、気分の浮き沈みでやたら疲れるし、気付いたらワケわからない動きしてるし。
残酷で優しい笑顔からそっと目を逸らし、思う。
(そっか……あたし、ホントにこのヒトが好きなんだ……)
今さらながらあらためて想いを実感したときには――
また少し、胸の奥が苦しくなっていた。




