課外授業(1)
「違う。そこじゃねえって」
呆れた声とともに、額にぺしっと丸めた課題プリントが打ち当てられた。
「え、じゃこっち――」
「違……っ。うーーーっわ、バカだバカだと思ってたけど、ほんっとに馬鹿だったんだなおまえ」
やっべーぞどうすんだおい、と苦笑しながらぺしぺし軽い衝撃を与えてくる早杉翔に、彩香はううっ……と唸り声を上げた。
一瞬ガラにもなく浸ってしまったドキドキの余韻は、個人指導が始まった瞬間に霧消してしまっていた。
本人も「向いていない」と豪語していただけあり、その助っ人ぶり(教え方)は、甘さやトキメキといった少女漫画にありがちなシチュエーション(これといって期待してもいなかったが……)とはまるで無縁の――半スパルタ的なものだった。
間違えそうになる度にお仕置きが降ってくるのだ。
紙ぺしなので痛くはないが、好意を自覚してしまった相手に呆れられつつ馬鹿と連呼されるこの状態――なかなかにツラいものがある。
「うううう、もー疲れたあああ。もー無理いいいいい。アタマ沸騰ーーー!」
「まだ三十分だぞ? 小学生かよ……」
ついに爆発し長テーブルに突っ伏してグズり喚き立てる彩香に、「しゃーねえ、んじゃ五分休憩な」とため息混じりにつぶやいて翔は腕時計に視線を落とす。
横目でそれを見上げながら、教え方と制裁方法はアレだが面倒見はいいのかもしれない……とぼんやり思ってしまった。
何だかんだ言いながら、こうして根気よくおバカに付き合って教えてくれているのだ。
世話になった関口に頼まれたからと言っていたが、自身には何の得にもなりはしないのに。
そういえば沖田侑希にも篠原瑶子にも「真面目」と言わせた人物だ。
(そんなヒトが、今……受験勉強まっしぐら街道から陸上部に逸れて何してんだろ……)
ふいに先ほどもかすめた疑問が、再度浮上してきた。
「早杉さん……前、言ってましたよね……?」
「ん?」
思わず訊ねてしまっていた自分に「おや?」と気付いたが……。
今の自分は精神疲労で頭が沸いているのだ。
この際ゆだった脳みそに便乗して最後まで訊いてしまえ、と開き直ることにする。
「何か――やりたいことがあって部活入った、って……。順調なんですか? その『何か』って」
突っ伏したままいきなり話の飛んだ彩香を大丈夫かコイツ……と見下ろしていた翔が、わずかに眉をしかめて天井を睨んだ。
「あー……アレな。アレは……今ちょっと方向性失っててな。どうしてくれようか考えてるよ」
ため息を吐きながらジロリと睨まれた気がした。
な、なんかやっぱり怒ってないだろうか? このヒトは。
「で、おまえのほうこそどーよ? 上手くいきそうなのか?」
「へ……?」
「無理そうなことやってのけたら、何か変われるかも――ってやつ」
にわかに向けられた質問に、半分だけ意識が覚醒する。
「あー……ま、まだ全然跳べてないんで、何とも……」
そういえば、うっかりそんなことを口走ってしまったのだったと思い出し、のそりと上体を起こす。
密かな願掛け込みでの跳躍は、まだ成功していない。
ささやかでセコい、アイスだの夕食メニューだのといったご褒美レベルのものでさえ。
「まあ、どうせこの背じゃ無理でしょーけど。わかってますよ。放っといてくださいよ」
「なんも言ってねえよ」
素直なのか卑屈なのかわからない彩香のくぐもったつぶやきに、翔が軽く噴き出す。
しょせん……ただの願掛けだ。わかっている。
跳べたからといって当然何の保証もご利益もないし、そもそも跳べる可能性だって限りなくゼロに近い。
そう――自己満足の域にさえ達していない辺りで無意味に足掻いているだけだ。今の自分は。
けれど、歩みを止めてしまうことだけは――。
「いーんじゃねえ? すげーじゃん。どんだけ周りに反対されてもバカみてーに挑戦し続けるのって」
「だ……だって、わかんないじゃないですか。明日急に背が伸びるかもしれないし! そのときのために技術だけ身に付けておけばいつかきっと――!」
「……本気で言ってっか?」
「…………いえ、ほぼ無理っすね。で、でもまあ身長のことはともかくっ」
腕組みして呆れ笑いしている翔から目線をずらし、キッと宙を見据えた。
「ちゃんとできること全部したっけ? って後悔だけはしたくないんで」
「――」
「やめちゃったら何も変わらない。当たり前です。だからあたしは跳ぶんです」
越えなきゃいけない壁は自身の中。
心の奥底に居座る、忘れ得ない光景。
跳べたら少しでも薄らいで消えていってくれるのでは?
克服できるのでは――?
そう都合よく思い込んで跳び始めた。
前を向いて歩いていくために。
「――じゃあババアになってもできるまで跳び続けるんだな?」
「う…………そ、そこまではさすがに」
「彩香のくせに生意気」
「ええええ? 痛……っ」
急にくらったデコピンに抗議しようと隣を見ると――
翔がやわらかい笑顔で頬杖をついていた。
「おまえ、死ぬとき絶対幸せだろうな」
「し、死ぬ!?」
「おまえみてーなヤツは、いくら失敗しても後悔とか思い残すこととかねーんだろうな、って思って」
頬杖はそのままに、ぐるりと室内に巡らせた視線が少しだけ翳った……ような気がした。
「――後悔……したりとかするんですか? 早杉さんみたいなヒトでも」
「そりゃな。何だ『でも』って?」
失敗も挫折も後悔も……とうてい縁が無さそうなヒトなのに?
「だって……背も頭も人気もあるし、ムカつくくらい前途洋々で順風満帆な人生に見えるし。『向かうところ敵ナシ。俺最強』とか思いません? ちょっとだけでも」
「何っっだソレ。んなワケあるか。勝てねーヤツだらけだ」
(――あなた様レベルでそれ言ったら世の大半のヒトがヤサグレますよ? 暴動起こしますよ? ちょっと煽ってきてイイっすか?)
呆れとも僻みともつかない想像と妄想をしながら、ふと思ってしまった。
勝てない相手とやらに、沖田侑希も入っていたりするのだろうか――?
妙な分野でありえない人選でもって無駄な気遣いして、「罪滅ぼし」とか口にしてしまうあたり。
「――沖田くんに……何しちゃったんですか?」
「何って?」
「罪滅ぼしとか、この前言ってたから」
「……言ったっけ?」
「あのおばーちゃん家の前でハッキリと」
やべぇしくった、記憶にねえ……と翔。
前髪をかき上げながら天井を睨んでいたかと思うと、短いため息をついてこちらをぐりんと振り向いた。
「秘密」
「えー」
「おらっ、休憩終わりだ。いいから解け。クチじゃなく手と頭を動かせ。今日中に終わんねーぞ」
ここぞとばかりに紙ぺしが再開していた。
結局何もわからないが、そのこと――沖田侑希との間にあったらしい何らかのこと――が原因で、真面目だった翔に荒れていた時期があった……ということだろうか?
一年のころ、自分も体育倉庫にいたあの塚本たちのようだったのだと……翔は言っていた。
本人曰く「自棄になっていた。逃げていた」ということらしいが。
どんなふうにとかどんな経緯でとかは想像もつかないが、少なからず関係はあるのかもしれない。
だからあの時、侑希にさえ秘密にしたがった……のではないだろうか。想像でしかないが。
何にしても、ここまでだ。
親しい友人や彼女にさえ知られたくないようだから、自分もこれ以上変につつけないしな……と、彩香はため息をひとつつく。
「なあ……」
あきらめて次の問に意識を向かわせようとした矢先。
「女で『アズ』がつく名前って、どんなのがある?」
頬杖をついて視線を宙に彷徨わせたまま、ぼそりと翔が訊いてきた。




