突然のおあずけ宣言 byグッチー(2)
「で? どこがどうわかんねえって?」
荷物を長テーブルのド真ん中に置いて、ドカッとパイプ椅子に腰を下ろすなり、翔が億劫そうに課題のプリントを捲った。
邪魔そうに長い脚を組み、片手でネイビータイをさらに緩めている。
(カッコいいなあ…………。――――――じゃなくて!)
あきらめなきゃと決心したくせに、ちょっとした仕草にいちいち見とれてしまう自分はかなり重症かもしれない。
思えばこの相手にはずいぶん、どんなにムカついても素直にカッコいいと思わせられてきた気がする。本人を目の前に口走ってしまったこともあったくらいで……。
最初の出会いから、兆しはあったのかもしれない。
「さ、さあ……どこがどう、わからないのかもわからないと言いますか……。その辺りからしてすでに、何もかも曖昧でして……」
神様あたしに天罰をプリーズ、とガックリ項垂れながら鞄からペンケースを取り出し、間に気持ち一人分のスペースを確保しつつ彩香もソロリと椅子を引いた。
誰が見ているわけでもないが、こんな密室でさすがに隣り合わせて座るのは憚られる。
それ以前に心情的にも無理だったわけだが。
そんなどんよりとした雰囲気に頓着することなく、そういうレベルか……と舌打ちして、翔は彩香のペンケースをまさぐった。
水色のシャーペンを手に取ったかと思うと、余白にさらさらと数式を書き始める。
整然とした右肩上がりの文字。
頭の良いヒトって字もキレイなんだろうか……とどこか他人事のように眺めていると。
「何も考えずコレそのまま覚えろ。モノ考えねーの得意だろ」
書き終えた数式をトンと人差し指で示して、プリントを差し向けてきた。
「……馬鹿って言ってます、よね?」
「おう」
ヒドい。確かにバカだけどさ……と受け取った課題に視線を落としたまま、そっと息をつく。
やっぱり神様もひどい。
自分がツイているかもしれない、なんてとんだ勘違いだった。
あきらめようと決心した矢先に何もこんなふうに、二人っきりの状況を作ってくれなくてもいいではないか。
(まあ、この場合は神様じゃなくグッチ先生だけど)
嫌がってる人間を無理やり助っ人に据えることないじゃん、あの熊の手親父め……とグラウンドに居るだろう関口に胸中で毒づいてやる。
「なんか今日おとなしいな、おまえ」
しばらくこちらを眺めていたらしい翔が、ゆったりと長テーブルに頬杖をついた。
今しがた散々叫んで暴れて引きずられてきたのに、「おとなしい」とは?
「そんなにショックだったか」
「――え」
開こうとした口がそのまま静止し、美術室での光景が一気に蘇る。
「跳べなくなるかもって、ショックだったんだろ?」
「あ、ああ……そ、そー、ですね」
告白現場に居合わせてしまったことは知られていないはずなのに、つい焦ってしまった。
ほっと胸を撫で下ろすも、騒ぎだした心臓はなかなか鎮まってくれない。
(半端に心配してくれなくて、いいのに……。そんな不機嫌なままで――)
他に向けられた優しげな笑顔を思い出してしまい、あらためて後悔した。
意味もないしそんな資格もないが、やはり比べてしまう。
そして思い知らされる。
これまでのやり取りを振り返ると無理もないが、このヒトは――自分相手だと笑顔の「え」の字も出ないらしい。
「は、早杉さんこそ……らしくないです」
気付いたらぼそりと口に出してしまっていた。
目線はぎこちなく逸らしたまま。
「ん?」
先ほどより幾分和らいだように見えるものの、依然不機嫌な様子の相手を直視なんてできない。
「嫌なら嫌って、もっと……ちゃんと先生に断ればよかったのに」
「……何か怒ってねえ?」
「怒ってんのは早杉さんでしょ? だ、だから別にムリしなくていいですって……!」
「おい」
「こんな馬鹿相手にしてらんないでしょーから、どうぞ部活に出てくださいってさっきから言っ――」
「落ち着け」
伸びてきた手のひらに、ガバリと頭頂部が押さえ込まれていた。
「グッチには一年ン時に世話になったし。頼まれたからにはやる」
動くなとばかりに頭部を押さえ込んだまま、冷静な瞳が真っ直ぐに向けられる。
いつの間にこんなすぐ近くに……と驚いたが、こうなってはますます顔を上げられない。
「で、でも……い、いくら恩義を感じてても、そ、そんなに嫌なら断ってもよろしかったのではっ?」
「はあ?」
「そんなイヤイヤ……不機嫌になられてまで、教えてもらわなくっても――」
とにかく手のひらを払おうと闇雲に頭を振る彩香に呆気にとられていたかと思うと。
ぐにゃりと眉根を寄せて、面倒くさそうに翔がため息を吐いた。
「そう見えたんなら悪かったよ。……拗ねんな」
「す……拗ね……べっ別に……っ!」
とたんに我に返り、訳がわからないまま急に顔が火照り出す。
(な、何この会話! なんかヘンじゃない!? 気のせいか!? この人どうしちゃったんだ!? っていうかあたし何言ってんの!?)
「不機嫌――っつーか……」
あー何っつーんだ……とブツブツ言いながら、翔は自身の前髪を掻き乱していたが、
「だいたいにして俺がヒトにモノ教えるとかって、向いてそうに見えるかよ?」
額を抱えたまま、むすっとした目だけを上げた。
「……見えない。短気すぎて――――って、いだだだ! 自分で言ったんじゃん! ……じゃないッスか!」
「それに、だ」
白々とした目で難なく頭上の鷲掴みに圧を加えながら、翔が続ける。
「この話きたの、さっきいきなりだぞ。それならそうと言っといてくれりゃ最初からこんな荷物持ってこなかったのによ、って話だ。この大荷物で満員電車に二十分。どんだけ周りに白い目で見られてっかわかるか?」
「……」
顎で示された大荷物を目で追いながら、思わず呆然としてしまう。
自分も電車通学だし、わかるが。
しかもなぜか白い目と感じているその視線の正体は、半分以上違う意味の――ピンク色の類いなのだろうなあとも思うが。
なんでこんな馬鹿でムカつく女にかかずらってなきゃなんねーんだ、放っぽってとっとと走りに行きてーぜ、という類の不機嫌かと思ってつい悪態ついてしまったが…………どうもまったく違うらしい。
でも、そうか。そういえば――。
やや語弊はあるかもしれないが、この相手は真剣に陸上をやりたい一心でここにいるのではないのだったと思い出す。
初県総体予選落ちという結果も、まるでと言っていいほど堪えていないようだったし……。(あまりに準備期間が短くて、当然といえば当然の結果だったのだが)
そもそも何かやりたいことがあっての入部というようなことを、あの体育倉庫から救出してもらった帰り道で言っていたような気もする。
(やりたいこと……?)
「――以上。納得したか?」
「う……は、はい」
「よし。じゃあやれ。とっとと終わらして跳びてーんだろ?」
こくりとうなずくと、アヒル頭をくしゃりと一撫でして大きな手のひらが離れた。
いつになく優しいその余韻に、ガラにもなく少しだけ……浸ってしまった。




