なんてこったい……(2)
一生の不覚――
今のこの心情と状況を、そう呼ばずして他に何と呼ぶ?
数分前の失態を思い返し、悲嘆とも後悔とも自己嫌悪ともつかない複雑な心境で、彩香は唸りながら教室へと戻る廊下を急いだ。
もとい、急いでいるつもりでいた。頭では。
いくら大親友相手とはいえ、この自分が人前でああも情けなく大泣きするとは……。
しかも号泣しながら自棄っぱちで吐き出してしまった最後の発言なんて、早杉翔への気持ちをおおむね認めてしまったようなもので……。
(っていうか、指摘されると同時に自覚するって、どんだけ鈍いんだあたし!? ああ穴があったら入りたい。っていうか壁ぶち抜いてでも身を潜めたいぃぃ!)
「……彩香。気持ちはわかるけどちょっと急ごうか」
ジタバタの始終を後ろから見ていた柚葉が、呆れ顔で少しだけ困ったように微笑んだ。
赤くなり青くなりを繰り返しながらよろよろと覚束ない足取りで進んでいたかと思うと、突然階段の手すりにかじり付いてバタバタ悶えたり、壁に張り付いてどんより自己嫌悪を滲ませたり……の繰り返しでは、はっきり言っていつまでたっても2-Fにたどり着けそうにない。
彩香自身もちろん自覚はあったのだが、ひたすら小っ恥ずかしく情けない感情が吹き荒れる心の内を、結局はどうすることもできずにのたうち回っていると、
「だいたい、彩香はずるいのよ」
今度は拗ねたような口振りで、じとっと柚葉が睨みつけてきた。
「あたしには洗いざらい吐けなんて言っといて、自分はここまで頑固に秘密にしてさ。……水くさいったら」
「い、いや……だから、それは――――。す、すいません」
秘密というか――正確には気付いてなかったらしいッスよ?と他人ゴトのような言い訳を思い付いたが、言わないでおく。
たとえ先に自覚できていたとしても、すんなり柚葉に話せてはいなかったかもしれない。結果、同じことだ。
それにしても、とあらためて彩香は天井を仰いだ。
(な、なんであたし……よりによってあんな、世界級レベルでつり合わない……しかも超難攻不落そうなヒトを――)
身の程知らずも極まれりってやつか、と一段と大きな目眩に襲われた。
絶対、これっぽっちも、誰がどう見ても、如何ようにも発展しそうにないレベルではないか。
無理・無駄・意味なし!と己の恋愛不適合ぶりをしっかり自覚し、あれほど向こうの世界には近付かん!
彼奴等のようなキラキラ人間には関わるもんか!
と、めいっぱい気を付けていたはずなのに……。
(どうしてこうなった? 次に早杉さんに会った時どんな顔すれば……? ってか今日じゃん、普通に部活あるじゃん! どうすんのーーーっ!?)
再度壁にへばりついてうがああああと吠え盛る様を見て、またも柚葉がため息をつく。
「今さら取り乱したって、もうしょうがないじゃない。こうなったら観念して本腰入れて、もっとちゃんと好きになればいいのよ」
「うっ」
下手に突付いて気付かせてくれちゃったくせに、何とも勝手な言い草ではないか。
よく言うよ!という思いを込めて振り返ると、
「でも嬉しい。彩香とこんな話ができるなんて」
満面の笑みを浮かべて柚葉が見つめてきていた。
「本当はね、『余計なお世話』って怒られるかも……ってちょっと怖かったの。誰にも触れてほしくないことだったらどうしよう、余計傷つけちゃったらどうしよう――って。でも勇気出して良かった」
「柚葉……」
自分をひたすら卑下するだけの、耳障りとしか言い表せないほどの言をこれでもかというほど並べ立ててしまったのだ。
もう面倒くさいと嫌われても匙を投げられてもおかしくなかったのに。
(ちゃんと見ててくれたんだ……)
それどころか自分自身があえて目を逸らそうとしていた心の内奥にまで気付き、それをあれほどまでに心配してくれていたなんて……思ってもみなかった。
ちゃんと本腰入れて恋するかどうかは別として、この親友の存在が今は――――いや今まで以上に、何より大きく嬉しく思えた。
「ほんとごめん。でも……ありがと。柚葉が居てくれてホントによかった……」
自分にはもったいないくらいの、大好きで大事な親友。
あらためて言葉にすると、目の奥がまた少しだけジンとした。
「本当? でもそれお互い様」
「え?」
「彩香がいなかったら、あたし今でもずっと一人だったと思うから」
「そんな……大げさ――」
「じゃないよ。本当にあたし嬉しかったよ?」
おとなしめの綺麗な女の子というだけで、中学入学早々すでに同性に敬遠されていた柚葉は、ハブられて――とまではいかなくても、いつも一人で居た。
別段寂しそうにも悲しそうにも見えなかったが、いつも何かの影を追うように校庭の木々や花壇の草花を眺めている姿が妙に気になって、気付いたらとるに足らないネタでとにかく話しかけ、教室移動だなんだと連れ回して、行動を共にするようになっていた。
初めこそ驚いて戸惑った様子の彼女だったが、すぐに屈託のない綺麗な笑顔で素直な言葉を返してくれるようになり、こんなにキレイなのに普通に喋ってくれるんだ……と今にして思えば謎な感動に襲われたのを憶えている。
新鮮な感じがして何やら無性に嬉しかったのだ。
それを面白く思わない周囲は『すすんで引き立て役になるのか』とか『とりいって一緒に男子の注目を浴びたいのか』などと中学一年にしてはなかなかあざといことを言ってきたが、馬鹿じゃないのかと総スルーした。
自分が仲良くしたい子と仲良くして何が悪いんだ、と。
「だから、彩香に少しでも恩返しができてるなら、良かった」
心底安心したという体で胸を押さえ、柚葉がふわりと笑った。
柚葉からもそんな風に思われていたことが、正直意外だった。
感謝しているのはこちらなのに。
いつも、どんな時でも……あの時だって、柚葉だけが味方でいてくれたから。
だから自分は今、ここにこうしていられる。心の底からそう思っているから。
恩返ししきれるだろうか、と不安になるくらいいつも彼女の幸せを願ってあれこれ画策しているような自分に――同じように願ってくれていた……?
「これからは早杉先輩とのこと、ガンガン応援するからね」
満面の笑みをこれでもかというほど柚葉が近付けてきた。
ふいに引き戻された現実問題に、思わず頭を抱えたくなってしまう。
「う……だから、そ、それは」
「さっきの話、かなり本気で怪しいと思ってるし」
どうもあの二人――翔と瑶子――が付き合ってるように見えないのだと、柚葉の主張は翻らないらしい。
気持ちはありがたいが、どう応援されようが自分はどうにもならないさーという思いでつい苦笑いが出てしまう。
そもそもあの相手から今まで向けられた言葉が『バカ』とか『チビ』とか『ヘンな女』、しまいには『エロ』――――
(って駄目だやっぱ……全然無理そうじゃん。好きと気付いた相手にここまで言わせちゃう自分ってどんだけえー……?)
「彩香、いっそのこと先輩に訊いてみたら?」
考えれば考えるほど落ち込み、教室目前でまたもガックリ壁に取りすがってしまった彩香に、ポンと手を打って柚葉が軽やかに提案した。
「ど……っ、き、訊けるワケないじゃんそんなこと! って、ててていうかホントに柚葉が考えすぎなだけだって。ちゃんと付き合ってるって、あの二人」
「どうして?」
「前にほら……夕食がどうこう言ってたことあるし、親も公認なんじゃない? それに、雰囲気っていうか――どことなく誰も入り込めないような空気みたいなものがあるっていうか……。とにかくものすごくお似合いだし」
「お似合いって……。まさか彩香――――それ理由にして、もうあきらめようとしてない?」
「う……えっ!?」
どう楽観的に見てもまるで発展性のないこの想い。
気付いて早々だし喜びにあふれている柚葉には悪いが、内緒で(伝えようものなら間違いなく般若を拝むことになる)こっそりあきらめるというテもアリだな……と実は密かに目論んでいた。
そんな選択肢にさっそく黄色信号が点り始めて焦る彩香に、柚葉の眉がピクリとつり上がった。
「彩香あぁぁ?」
「ゆ、ゆゆ柚葉こそっ、じゃあ沖田くんに訊ける!? 自分のコト憶えてるか、とか今好きなヒトいるのか、とか!」
怪しくなった雲行きをごまかさねば、と無理やり矛先を向けてやる。
急な振りにわずかに目を見開いた柚葉だったが、生真面目にうーんと小首を傾げ、そのまま天井を睨み上げること十数秒。
「ムリだね、ごめん」
ぱっと破顔する親友の表情に、芽生えかけた罪悪感もどこへやら。
ぺろりと舌を出して苦笑するあまりの可愛さに、久々にクラクラきてしまった。
(くーーーーっ! 可愛い!)
はっきり言って、どうにも発展しそうにない自分なんぞにかまけている場合ではない。
やっぱり柚葉にこそ、この美しい友にこそ長年の想いを叶えてほしい!という切なる思いがわき起こる。
厳かに鳴り始めた予鈴に、あ、トイレ寄ってから戻るね、と柚葉が方向転換した瞬間――彩香の目がきらんと怪しく煌めいた。
よしここはやはり久々に度忘れ王子様に揺さぶりを掛けるか!
そう決心するが早いか、大股で教室を目指していた。
いい加減思い出してもらわないと、こちらの堪忍袋もそろそろヤバい。
(チャンス到来! これぞ神様の思し召し! 般若にはバレなきゃ大丈夫。ここで動かねばキューピッドの名が廃るわああああ!)
「沖田くんっ! あのさあぁぁっ!」
教室に帰り着くなり彼の席に突進し、バン!と叩きつけるように机に両手をつく。
「ん?」
現代文のテキストを準備しながらまったく動じることなく振り仰いだ沖田侑希。
「…………」
秒殺、とそれは呼べたかもしれない。
一点の翳りもない爽やかで上機嫌な笑顔に、見事に撃沈されてしまった。
「西野?」
「な、なんでもねーっす……」
へたり込んだままの小柄な体を今度はポカンと見下ろしてくるが。
(何だろうこの敗北感は……。毒気を抜かれるというか何というか……)
何にしてもあの笑顔は反則だろう、あーやだやだと小さく舌打ちしてのそりと立ち上がる。
しかし敗けは敗け。敗者はおとなしく退こう。(何の勝負だ)
やっぱ勢いだけじゃ駄目だな、ちゃんと練り直して出直さねば……とげんなり踵を返しかけたところに。
「あれ? 西野……目赤い」
カタンと立ち上がって、侑希が顔を覗き込んできた。
「え……あ」
「何かあった?」
「あー……いや、さっきちょっと……ご、ゴミが、入って」
(よく気付くなあ……さすが人徳のイケメン。でもこんなトコでまで発揮しなくていいよ。っていうか近いってば)
たははと笑ってじりじり後ずさる彩香に、侑希はさらに真剣な心配そうな目を向けてくる。
「――両目に?」
「そ……そう。あ、あとカフェオレで咽ちゃって……チョー苦しかったから、それでかな? ははは」
「……」
「そ、そんないちいち心配してくれるようなことじゃ――。もう! どんだけ優しくていいヤツなんだよモテ王子は!」
「『いいヤツ』……。それだけ?」
一瞬、何か言いたげに侑希の目が細められた。
「へ?」
キョトンと見上げる彩香の――充血して潤んだ瞳を、わずかに揺らぐ眼差しでとらえていたかと思うと。
「――――いや、なんでも」
小さく息をついて、細められた濃茶の瞳。
言葉どおり何の問題も無いとばかりに肩をすくめた侑希の顔に、いつもの爽やかで穏やかな王子スマイルが浮かんでいた。




