なんてこったい……(1)
「彩香、早杉先輩のこと好きでしょ」
あまりに唐突な柚葉の断定に、含んだばかりのカフェオレが「ぶふぉっ!」と噴き出てしまった。
そのまま咽て咳き込む音だけが、ひとしきり、静まり返った音楽室に響く。
珍しく教室外――できれば誰も居ない静かな所、とそういえば付加条件がついていた――でのランチを誘ってきたかと思えばコレだ。
「な、ななななん……っ! どどどういうことだっ、ソレはっ!?」
濡れた口元を拭いながら、噛みつかんばかりに親友に迫る。
何やら異様に顔が熱いのは、今とても苦しい思いをしたからだ。それだけだ。
「まだごまかす? いいけど、通用はしないよ?」
「べ、別にごまかすとか……ぐ、げほっ」
「ほらあ、そんなに焦るから」
咽つづける彩香の背中を優しく擦ってくれてはいるが、すっかり「してやったり顔」になっている。
こんな顔もするのかこの大和撫子、とゼイゼイ息をしながらつい睨んでしまうが、対して敵はそれはそれは可憐で穏やかな微笑みを宿して口を開いた。
「ここのところ黙って観察してたけど、やっぱり間違いないかな、って。侑くんとか他の男子相手のときは平然としてるのに、先輩の前だと彩香何か違うんだもん」
「う、うそ……」
「嘘じゃない。起きたこといろいろ報告してくれてる時だって、怒ってるわりには楽しそうというか――。あれ? 自覚もなかった?」
愕然と目を見開く彩香に、さも意外そうに面白そうに柚葉が首を傾げた。
では……なにか?
いつの間にか自分は、他とは違った対応をあの人物にしてしまっていたというのだろうか。
しかも気付かないままそれを周囲にまで晒して……?
「だーいじょうぶ。他には気付かれてないよ。たぶん」
それほどフォローになってない柚葉のけろりとした言葉に、そんな無責任な……とついこぼしかける、が。
「う、いや……ちち違うっ。だから別に好きじゃ――」
「いいと思うよ? ちょっと軽そうに見えるけど……話きく限りイイ人そうだし。何度も彩香を助けてもくれたんでしょ?」
「い、いやそれだってたまたま通りかかってとか、しょうがなくっていうか――危なそうなおばーちゃんもいたし……」
「はい。ストップ」
頭を振りつづける彩香に、柚葉がため息混じりに横槍を入れた。
「どうしてそこまで否定したがるの?」
「そ、そりゃするでしょ! 彼女いるようなヒトを好きとか……そ、そんな――ありえないって」
「え? ありえるよ?」
何言ってるの?とばかりに目を丸くして、柚葉。
自分を見なさいと珍しくドヤ顔してきたかと思うと、すぐに困ったように眉尻を下げ、微かに笑った。
「相手に彼女がいようが片恋相手がいようが、それでも好きって気持ちは……しょうがないじゃない」
「――」
そんな柚葉が想いを寄せる相手――沖田侑希――には、もしかしたら他に好きな人がいる……。
そういえばそんなことを柚葉は言っていた。それでも気持ちは簡単には無くならないのだと、切なげに。
「でもね」
ガラリと調子を変えて、柚葉が切り出した。
「早杉先輩たちの場合、あたしちょっと疑問を持ってて……」
「――え?」
見ると、何やら不満げに眉をしかめている。
ぱちくりと瞬きを繰り返す彩香を置き去りにしたまま、顎に指を当ててうーんと天井を睨むこと十数秒。
「本当に付き合ってるのかな? あの二人」
難しい顔をしたままこちらに視線を戻す柚葉に、一瞬すべての思考が停止した。
あまりにも思いがけないその疑問とやらに、とっさに何の反応もできなかった。
翔と瑶子が付き合ってるかどうか、なんて――――どうして急にそんなこと……。
「そ、それはそうでしょ。よく一緒にいるし……お似合いだし。ほら、みんなだってそう言って――」
突然何を言い出すのだろう、この親友?
何言ってんの当然じゃん、とばかりにようやく絞り出せた声に、知らず乾いた笑いが混ざる。
(え……何……?)
柚葉の言葉の真意も謎だが、思いのほか動揺しているのか、自身の胸の内が何やら穏やかではなくなっている……ような気がした。
妙に上ずった声になっていないか、不自然な態度に思われていないだろうかなどの心配もよぎったが、訝しげに宙を睨んだままの柚葉にはとりあえず何も疑われずに済んだらしい。
これまた意味不明な安堵のため息を、ようやく一つだけつくことができた――――のも束の間。
「それねー、うーん。確かにそういう噂ではある、んだけど――」
やはり納得がいかないという体で振り返って、柚葉。
「でも、噂が事実とは限らないよね?」
「え……」
「だいたい、一緒に帰ることだって滅多にない二人がよ? 付き合ってるって言えるのかな?」
長い黒髪をさらりと揺らしてさらに小首を傾げ、これ以上はないというくらい眉根を寄せた。
「い、言える……かもしれないじゃん。そういう主義だとか、たまたま……都合があわなくてほぼ毎日一緒に帰れてない……とか?」
「それ不自然でしょ」
「――」
柚葉の引っ掛かりはわからなくはない。
確かに自分もあれ?と首を傾げたことがあった。
そう思うに至ったいくつかの出来事を思い起こすと――
「で、でも――」
少し前『ああいうヒトが彼氏で本当にいいのか』とうっかり訊ねてしまった際の記憶も一緒に蘇ってくる。
あの時、暗に『彼氏』と称された早杉翔のことを瑶子は否定しなかった。
それどころか『自分がちゃんと好きだから問題ない』と、綺麗に幸せそうに微笑んでみせて――。
(瑶子さんはホントに、すごく早杉さんのことが好きで……)
あのとき感じた「もらいキュン」とはやや性質の異なる何かが、いつの間にか胸を締め付けていた。
不可解な息苦しさに思わず、えっ……と目を見開く。
「まあでも――極論、どっちでもイイからそれは置いとくね」
自身の現状を処理できないまま固まりかける彩香の耳に、この親友にしてはややぞんざいで暴言的なセリフが届いた。
「ど、どっちでも……って」
「どうでもいい。今、大事なのは彩香の気持ち」
言うなりびしっと鼻先を指差される。
先日からどうしたというのだろう。どうも自分が誰と話しているのかわからなくなる瞬間がある。
いったい、彼女のこの変わり様は……。
「だ、だから……あたしは別にそういう――」
「まだ言う? ――じゃあ訊くけど」
大げさにため息を吐いたと思ったら、今度はやや怒ったような眼差しを真っ直ぐに向けてきた。
「こうやって訊かれたのが早杉先輩のことじゃなかったら、彩香はここまで狼狽えてないでしょ。必死に否定してないんじゃない? 違う?」
「えっ? そ、そんなわかんないよ、考えたことも――」
「じゃあ今考えて」
「今……って」
「なうっ」
(い、いかん……この流れは何か、あの時と同じ匂いがする……)
たおやかで可憐な姿態に般若が降りる前になんとかせねば、とあきらめ半分で意を決した。
「そ、そりゃ……何度も助けてもらったりして、前ほどイヤーな感じはしない……というか、かか感謝はしてるよ?」
のらりくらり躱してもこの相手には通用しないし、決して最後まで逃げ切れないのだ。
ならば、たとえ自己理解が進んでいないままでも素直に正直に心の奥底にあるものをぶちまけてしまうしかない。
そうすればさほど危険は及ばないはず……。
「感謝してるけどでもさほら……っ、好き――とかどうとかはまた別問題なワケで……。あ、あたしホラちゃんと身の程わきまえてるから誰かを好きになったりとか、そんな無駄なことしないしっ」
「…………」
黙って聞いていた柚葉がそっと眉をひそめる。
「そ、そもそもあたしがそういう恋愛とか恋話とかって、ありえなすぎて笑えるっていうか? 似合わないじゃん? 別世界じゃん。第一、早杉さんには瑶子さんっていう誰がどう見ても究極にお似合いな美人の彼女がいるんだよ? そんなヒトにあたしなんかが――」
突然、目の前にコンパクトミラーが突き出された。
まるで聞くに堪えない戯れ言を、いい加減にしろと遮ってでもいるようなタイミングで。
「そんな可愛いカオして、いくら違うって頑張っちゃってもムリ」
思いのほか静かな表情で柚葉が言い切った。
「――」
ちゃんと見ろとばかりに掲げられた鏡に映るのは――
顔を紅潮させ潤んだ目を見開いて、でも眉はどんどん八の字に下がってくる情けない表情。
あわてて引き結んだ唇もわずかに震えて…………いっそ滑稽だった。
「か、可愛いって……何言って――」
みっともなさすぎて少し笑ってしまった。
「可愛いよ?」
「……」
そんなわけ――――ない。
同情やお世辞からくる褒め言葉に決して浮かれたり少しも勘違いしないで済むくらいに、自覚もちゃんとある。後輩たちに絡まれて問いただされるまでもなく。
……受けてきたどんな言葉だって憶えている。
焼き付いている。
こんな自分には、どうしたって無理だ。
誰かを好きになって……幸せな恋愛をするなんて。
「そ、そんな――気を遣ってくれなくて大丈夫だって……。恋愛なんてどうせあたし――」
「どうせじゃないっ!」
「……!?」
鋭い一喝とともに、逸らそうとした顔を捕まえられた。
「あたしにくらい吐き出してよ……! っていうか、自分ごまかすのもいい加減やめな!?」
思いがけない柚葉の迫力に、両頬を挟み込まれたまま目を見開くしかなかった。
「素直になって。……いいんだよ? 好きになっても」
それは――――できない。
ふるふると首を振ろうとするも、思いのほか強い力で押さえ込まれているため微動だにできなかった。
「言ったよね? あたし本当に嬉しいんだってば」
「――」
強く言い聞かせるように発せられた言葉の後、真っ直ぐに向けられていた眼差しが少しだけ伏せられた。
「彩香いつも『こういうの興味ない柄じゃない』って強がり言ってるだけで、ほんとはものすごく怖がってるんじゃないか、って……ずっと思ってた。この先ずっと――ずっとずっと誰も好きになろうとしないんじゃないか、って心配だった」
「柚葉……」
見て……くれていた……?
自分でさえ気付かないでいたような――――いや、気付かないふりをして恐れて形にするのを避けていたような内面まで……。
「大丈夫。先輩は良い人そうだよ?」
だから安心して好きになれ、と。
微笑んで言外に背中を押してくる親友の優しさとあたたかさに、思わず涙が込み上げた。
い、いかん、泣いてたまるか、とあわてて瞬きして涙を散らす。
「で、でも……クチは悪いし手もすぐ出て……っ」
「でも好きなんでしょ?」
「――」
「もし彩香にフザけた真似したら、たとえ先輩でもあたしがぶっ飛ばしてあげるから大丈夫。任せて」
『そんな細腕じゃムリだよ』……おどけて笑ってツッコみたかった。
今は明らかにそうすべき場面だとわかっていた。
なのに――――。
「……親友なんでしょ? あたしにだって応援させてよ。彩香」
泣きそうに微笑む柚葉の顔が、大きく揺らいだ。
こらえようと思っても、自分の涙でどんどん歪んで。
「だ……っ」
大粒の涙となってあふれたと気付いた時には、声を上げて泣いていた。
「だ……から、ちがうって言って……んじゃん! もぉ柚葉しつこいぃぃぃぃ!」
「ひどいな。しつこいのはお互いさまでしょ? 侑くんの話のときだって……」
「柚葉バカぁあぁああっ」
「ハイハイ。で? 先輩好きでしょ?」
「好き……じゃない! 瑶子さんいるしどうせつり合わないし無理だもんー、何でもできるしカッコ良すぎるし大っきいし……だから嫌いいいいいぃぃ」
「わかったわかった」
言葉とは裏腹の――だが想いを認めてしまったも同然の情けない号泣に、柚葉は昼休み中ずっと付き合ってくれた。
しょうがないなあと笑って、優しく頭を撫でてくれながら。
なんてこった……。
気付いてはいけない、心の奥底に無意識に埋めておいた淡い小さな想いに気付いてしまった初夏――。
越えなきゃいけない壁が、また少し……高くなったような気がしていた。




