不可抗力ですからっ(1)
「んーーー走り込み日和っ」
気持ちよく晴れ渡った空に向かって彩香は大きく伸びをした。
ここ数日晴れ間がのぞいてはいたが、今日は特に気持ちがいい。
陽射しといい吹き抜ける風の感じといい、この爽快感はなぜか格別に思えた。
なんだろう。
大会前で無駄に気分が高揚しているのだろうか。
「走り込みすぎちゃダメだって」
大量のタオルやドリンクボトルを両手いっぱいに抱えながら、柚葉が苦笑した。
「それでなくたって彩香ケガ多いんだから。気をつけてよ? はしゃぎすぎないでよ?」
「う……ハイ」
明日明後日には競技会が控えている。
よって今日は決して無理をせず、各自最終調整と軽く汗を流すだけにとどめよ、との指示が顧問やコーチから出ていた。
走り方やそのタイミング、専門技術の仕上げ練習に関しても、一部の選手以外は各々の裁量に委ねられたということだ。
敷地外も出てもいいが事故防止のためにルートだけは統一――前日とまったく一緒の経路で――せよ、とのお達しもあった。
藤川洸陵高校の名前を背負って街中で妙なことをするな、とこれまた耳にタコな注意とともに。
「じゃ、軽くひとっ走り行ってくんねー」
「えっ、外出る? 今から? ひとりで大丈夫?」
作業の手を止めて、驚いたように柚葉が顔を上げる。
「昨日と同じルートだし大丈夫。それに出る人はもう出発しちゃってるでしょ」
「え、心配だよ……。ちょ……ちょっと待っててくれたらあたしも――」
「平気平気。そっちのほうが明日の準備とかで大変でしょ?」
よほど忙しいのか先ほどからマネ候補の一年生たちは背後を右往左往しているし、三年の瑶子も書類の準備だユニフォームだとパタパタ駆けずり回っていて現在も目の届く範囲にはいない。
柚葉だってすぐ横に広げられた荷物や束で持っているリストを見る限り、まだまだやることは山積みなはずなのだ。
ヒトの心配してる場合じゃないだろうに。
くすりと笑って柚葉を見遣る。
「あ、ヘアバンド借りるね。明日用にハチマキ洗っちゃったから。じゃ、行ってきまっす」
心配性で優しい親友を安心させるべく、いつも以上に元気に駆け出してみせた。
(よし、あそこまで行ったらちょっと休――――――って……うわ)
走りは快調だったが無理しすぎてはいけない。そろそろ一息つこうかと思っていた矢先。
目当てのコンビニ前のスペースにたむろする小集団を見つけてしまい、彩香は思わず宙を仰いだ。
あの濃茶色のブレザーは確かこの辺りの公立中学校の制服ではなかったか。
だらしなく座り込む六、七人の男子中学生たちを遠目で確認し、小休止を密かに断念する。
触らぬ神に祟りなしというには大げさかもしれないが、たとえ中学生といえど、やはりああいった輩には近付きたくない。
確かあまり評判の良い学校ではなかったと記憶はしていたが、なるほど……と距離が縮まるにつれてさらに納得する。
皆一様にネクタイは外され引きずるほどズボンは下げられ、と彩香にとってはまったく理解できない制服の着こなし方をしている。
そのうえ脱色した短髪をツンツンに逆立てていたり、おびただしい数のピアスをしていたり、あげくの果てには眉毛が無かったりと(な……何が良いんだろう?)かなり自己主張の激しい子たちのようだ。
まあ何か主張したいんだろう、いろいろあるんだろう、でも真っ当な人様には迷惑かけるなよー自分たちだけで何かやってろよー、と心で訴えながら通り過ぎようとした。
「だからさ、ばーちゃん。治療費払って、って言ってんじゃん」
耳に入ってきた嫌な感じの単語にちろりと視線を向けると、彼らが取り囲んで座る中央に、小柄な老婦人の姿。
(え……っ)
「ホラここ。手首。ばーちゃんとぶつかって俺ケガしちゃったのよ」
「あらあら、それはご免なさいねえ。どのくらい痛いの?」
「チョー痛いんだよね。折れてっかも」
お年寄り相手に何か難癖つけて無理やり土下座でもさせてるのかと思ったが、品良く正座した白髪のご婦人は狼狽えることもなく、可愛い孫の相手でもしているかのように穏やかにうなずいている。
が、決して微笑ましい状況ではない。
「あらあらそれは大変。病院連れてってあげようねえ」
「いや、病院は自分で行くから。だから金。金だけちょーだい?」
ケガしたと訴えていたはずの手をヒラヒラ振り、髪の毛を逆立てた男子中学生はさらに金銭を要求した。
(こ、このガキども……こんな善良そうなお年寄りからお金をふんだくろうってか!)
じわりと怒りが湧き起こるが、さすがにあの中に一人で飛び込む勇気はない。
助けを求めて周囲を見回すも、人通りも車通りも少ないポイントを選んでくれただけあって、まだ夕暮れ前の明るい時間帯だというのに人っ子一人歩いていない。
コンビニ内にも運悪く客の姿は無く、店員に至っては外の様子に気付いていないのかあえて関わりたくないのか、レジで顔を覆うようにして雑誌を読んでいる。
くーっ今日に限ってなんで……と、一人で走りに出てきたことを激しく後悔していると、
「いくらあれば足りるかねえ?」
なんとヒトの良さそうなお婆さんが、にこやかに小首を傾げながら持っていた革の巾着袋を開いた。
「お、おばーちゃん、出しちゃダメー!」
気付いたら、とっさに駆けよって巾着を隠すように手を伸ばし、叫んでしまっていた。
(あ……)
振り仰ぐ複数の物騒な視線とお婆さんのぽあんとした表情に、やってしまった……と、もう何度目になるかわからない後悔に顔を引きつらせる。
(ご、ごめんなさい神様、これはもう不可抗力ですよね? ――違うか。でもあたし間違ってないですよね? でも……でもやっぱり軽率でしたスイマセンごめんなさい助けてーーー!)
「は? 何アンタ? 関係ないよね?」
心の中で絶賛懺悔中の彩香に、ゆらりと立ち上がって数人が近付いてくる。
「FUJIKAWA KORYO TR…………何て書いてあんの?」
「何部? 何部? ヘアバンド……? バンダナ? うは、かっけえ」
「走ってるってことは陸上じゃね?」
「え、うそ、洸陵? 名門じゃん。おねーさん小さいのにスゲえ」
ジャージのロゴをしげしげと見つめて、中学生たちがにわかに活気づいた。
いーえ凄くはないんです、入ってからが低空飛行なんで!と謙遜でも何でもない現実問題に打ちひしがれながらも、この後の言動をどうすべきかと頭を悩ませていると――。
「じゃあさ、代わりに治療費払ってよ、ちっさいお姉さん」
アスファルトに腰を下ろしたままの一人が、膝に頬杖ついて見上げてきた。
眉毛は剃り落とされ、目も据わった、なんというか――――この中で一番ヤバそうな空気を纏った男子である。
「名門校行ってるくらいだから、金持ちなんじゃないの?」
口調にこそまだあどけなさを残してはいるものの、目付きと雰囲気のヤバさに、知らずお婆さんの手を引いて後ずさっていた。
「い、いやー……お金は、ない……かなあ?」
「ちょっとちょっと。そう言いながらどこ行こうとしてんの」
「話まだ終わってねーじゃん」
すんなり見逃してくれるはずもなく、眉ナシ以外の中学生たちにあっさりと取り囲まれる。
「ご、ごめん。と、とりあえずこのおばあちゃん心配だし送ってくるから、話は後でってことで――」
「いやいやそれはナイでしょ、おねーさん」
「逃げる気?」
ええ、あわよくば……という心の声が悟られてしまったのか、背後と横からがっしり二の腕を掴まれる。その拍子にお婆さんと繋いでいた手も引き離されてしまった。
「あ……ちょっ」
「うーわ、おねーさん小っさ!」
「金ないなら、せめて俺らと遊んでよ」
「ばーちゃんは――もういっか。バイバイ」
「あ、あんたたち……こらっ! ……あ、危な――!」
用は済んだとばかりに乱暴に押され、よろめいて倒れそうになる老婦人。
その肩を――――しっかりと受け止めた手があった。




