扉を開けると(2)
知れば知るほど、この人物――――謎に思えてくる。
黙々と先を行く長身の背中を、彩香はちらりと見上げた。
爽やかで穏やかな学園の王子様――品行方正を絵に描いたような沖田侑希とはかなり仲の良い幼馴染であり、自身もモデルばりに背が高く顔も頭も良いという…………それこそ世の男性を敵に回しきったようなハイスペック男子。
そんな早杉翔は体育用具室を出てからというもの――
何かを考え込んででもいるのだろうか、一言も発していない。
(いったいどういうヒト……?)
彼女がいるくせに何かというとヘラヘラしてつつき回してくるようなチャラ男モードだったり、突然キレてヒトの頭を鷲掴みにしてくるような粗野な一面も持ち合わせていたり……。
そのうえ――
(ああいう系のヒトたちにも、冷静に平然と向き合えるって……)
それどころか奥にいたリーダー格と思しき塚本とは、仲が良いとまではいかなくとも、お互いある程度知っているような間柄に見えた。
まあ、見えただけだが。
後ろからまじまじと見上げてしまっていた彩香にようやく気付いたらしい。
しまった……とでも言いたげに、振り向きざま、翔が一瞬顔をしかめた。
「あ……っ、と……」
若干バツが悪そうな表情を隠すようにしばらく片手で額を覆っていたが、やがて――
「――――悪いけど、内緒な」
あきらめたように振り返り、ため息を吐いた。
ぎこちなくそらした目をさらに少しだけ伏せて。
「……どの部分を?」
「全部」
「……」
全部、というと……。
やはり、危ない連中の前から連れ出してくれたことだけでなく、その中の人間と知り合いっぽかったということもひっくるめて全部――だろうか?
「誰に?」
「みんなに」
「沖田くんにも?」
「うん」
「…………瑶子さんにも?」
「誰にも」
「――」
なんで? 近しいヒトたちにまで?
淡々と淀みなく応えてくる翔に、さらにうっかり突っ込んで訊いてしまいそうになっていた。
危ない……。
さすがに、それ以上踏み込んではいけない気がした。
そんな……大事な人たちにまで秘密にするような領域に、自分なんぞがうっかり触れていいはずが――。
「前――高一ん時な。……俺もあんなだったんだ」
「え」
思いとどまることができたとはいえまともに目を見開いてしまっていた彩香に、さらに複雑そうな顔を向けて翔。
「何だよ? そんな似合わねーかよ」
「……う、はい」
「ああ?」
「えっ!? だ、だって先輩クチは悪いけど黙ってれば真面目な好青年風に見え――」
「てっめえ――」
「す、すいません、正直でっ! い、いやその……っ、特進コース歩んでるようなヒトが――なんでまたそんな、って思って……」
「なんで、って――」
謝りながらも結局は普通に訊いてきたも同然な話運びに驚いたのか、少しだけ目を見開いて翔は口ごもる。
「別に……単にヤケ起こしてトチ狂ってたんだろな、今にして思えば。…………いや、結局は逃げてただけっつーか……」
そう言って自嘲気味に笑って伏せた目が、微かに翳った。
――が。
すっかり黙りこんでしまった彩香にハッとして眉をしかめたかと思うと、次の瞬間。
「――って、なに余計なことまで喋らしてんだよ、この馬鹿チビがっっ」
ガバリとまたもや大きな手のひらが彩香の頭部を急襲した。
「え、えええええええ! ヒトのせいにしますか、そこ!?」
「るっせ。今までの仕返しだ」
「いだだだだだ……ち、縮む。縮むからーっ!」
何発叩かれたと思ってんだこのやろ、などと言いながら鷲掴んだ手はさらにぐりぐりと押さえつけてくる。
(ていうか、こ、このヒト本当に……)
呻きながら、あらためて彩香は確信した。
軽薄な笑みと猫なで声のほうが良かったというわけでは断じてナイが、いくらなんでも豹変しすぎだろっ!とどこかに訴えたい。
そりゃ――怒らせた自分なんぞにはぞんざいな扱いでじゅうぶん、と判断されてしまったのかもしれないが……。
変態でチャラ男な皮を脱ぎ捨てただけならまだしも、このクチの悪さと手の早さと言ったら――先ほどの喫煙連中以上ではないのかと真面目に考えてしまう。
いだだだと唸りながら考察を続行していたところに、ようやく手を離した長身から最大級の呆れ眼が向けられた。
「つか、ほんっっっと馬鹿だなおまえ」
「うっ、た、確かにバカだけど、いきなりそれはヒドい……」
「普通逃げんだろ、ああいう場合は。おっかなそうな連中に取り囲まれたらさ」
「だ、だってマットが…………あっ! マット!!」
今さらながら本来の目的を思い出して回れ右するや否や、すかさず襟首が掴まれた。
「あきらめろ今日は。他の部が使っててもう無かったとか言え」
「ええええぇ……跳びたかったのにいぃ」
「――変なヤツ……」
ショックと後悔で力なく廊下にへたり込む背中に、呆れたような――だが妙に憐れむような声が降ってくる。
「だから、なんだってそんなに跳びたがんだよ? 最初から断然不利だろ、身長勝負な種目なんて。努力はわからなくはねーけど……それだけじゃどーにもなんねえことだってあんだろ」
「だからですっ。絶対ムリそうなところ越えられたら、今度こそ何か変われるかもって思うじゃないですかっ!」
思わず勢いよく上体を起こして、力説してしまっていた。
「――」
はあ?と言わんばかりに目を丸くしている無駄に造りだけはいい顔をまともに見上げてしまい、急激に我に返る。
(な、なにバカ丸出しで語っちゃってんだ自分!? 今まで誰にも……柚葉にさえ言ったことないのに!)
「い、いやその……記録は二の次というか……。せ、せせ先輩こそっ、なんで三年になってからわざわざ部活なんて始めるんスか! じゅ受験生なのに」
「え? ああ――ちょっとな。やりてーことがあって」
急すぎる話の振りにさすがに無理があったかと後悔しかけたが、それほど気にした様子もなく翔は応えてくれた。
「勉強より大事なこと?」
「そそ」
「何ですか?」
「………………いろいろあんだよ」
短い沈黙の後、なぜかため息をつかれてしまった。
「つか、元はといえばおまえがグズグズしてっからなああぁぁ」
「えええええええ!? な、なに!? なんで? ていうかその頭の鷲掴みやめてー」
「ちょうどいいトコに掴みやすいようにあるのが悪い。嫌なら背伸ばせ」
「そ、そんな!」
中二からぴたりと止まったままなのに、ヒドイ!と脳内でささやかな抵抗をしていると。
「いっちょ前に文句たれてんじゃねーぞ。バカ彩香」
「――」
何か聞き捨てならない呼ばれ方をしたような気がするが……聞き間違いだろうか。
一瞬奇妙な静寂に包まれる。そして、
「何その呼び方ーーーーーーーーーーーーっ!?」
やはり今いる棟全体に響き渡るほどの大声で叫んでしまっていた。
うるせえ馬鹿と仰け反りながら、翔はものすごく嫌そうな視線を向けてくる。
「ああ? この期に及んで『ちゃん』付けで呼べって? どんだけ図々しいんだおまえ」
「んーなこと言ってない!! 苗字で!! 普通にっ苗字でっ!!」
飄々と呆れたように吐き捨てる翔に、小柄な体と両腕をフルに活用して、世間一般的に至極当たり前なはずの要請を試みる。
(あたしはアンタの妹でも下僕でも、かかかか彼女でもねーぞ! 名前で呼ばれる覚えはなーーーい!)
――が。
「……『西野』?」
「そう!」
固く拳を握って大きくうなずいている彩香をひと睨みしてから、翔は少しだけ考えるように視線を宙に巡らせた。
とても面倒くさそうに。
そして。
「嫌だ」
「い、イヤ、って……」
「西野カナわりと好きだから、無理。呼び捨てありえねえ」
さくっと、しかも思いきり顔をしかめて宣いやがった。
(あ……翔がありえねーわあああああああぁ!!)
いろいろありすぎて感情が麻痺しそうになっていたうえに、真面目に血管が切れるかと思った。
◇ ◇ ◇
「遅い! おまえら、たかがマットにどんだけ時間かけてんだ!」
当然のことながら、北棟に到着するなり飛んでくる主将香川の罵声。
「罰として西野は今日はどのジャンプも禁止。早杉はペナルティ、筋トレ全部3セットずつ追加な」
「えっ!? そんな! あ、あのですね部長、実は――」
「言うな、っつってんだろ阿呆」
当たり障りない範囲で言い訳しようとした口が、びたんと翔の手のひらに覆われた。
「ぶっ」
「あ、わり。今ので鼻つぶれたか。違うか、元々か」
すぐ頭上――至近距離――でからかって笑う言動にかなり難アリなイケメンに、またもや不覚にも眩暈を起こしかける。
(だ、だからこういうのもあり得ないっつーのおおぉぉおおおおぉ!!)
羽交い締めの悪夢再び、である。
――――と。
突然、雷に打たれたようにあることに気付いてしまった。
目だけで大急ぎで周囲を警戒し――――そっと安堵する。
とりあえず同じ空間に瑶子の姿が無かったのが救いだった。
(って、なんであたしがこんな気分にさせられなきゃいかんのだ!?)
まるで彼女の目を盗んで男にちょっかい出してる不届き者か浮気相手のようではないか。
冗談ではない。まともな恋愛さえしたことないのに。
(――――じゃなくて!)
どうしたことか最近妄想や一人ツッコミまでよく間違える。
そもそも自分はそっちの世界に関係ないはずではないか。
美男美女たちの織り成すキラキラしい人物相関図の中に、うっかり間違って転がり込む――なんてことがあってはならないのだ。こんな醜いアヒルの子的な自分が。
よって――
「ふががはがふへーーー!(だから放してーーー!)」
「おおそうかそうか。香川ちゃーん、こいつも半分ペナルティ持つって」
「ふへーーーー!?」
「何でもいいから早くやれ。いつまでもイチャついてっと蹴り倒すぞ」
「!?(部長まで!?)」
「ハーイ」
体育用具室での一件から何か訳アリらしい過去まで、よほど話題にされたくないのだろうか。
結局理由も弁解も一切求められる隙を与えないまま香川部長をおちょくりつつ、翔はペナルティーの腹筋・腕立て伏せに取りかかっていた。




