息苦しさは(1)
鏡の中に、泣くのをぐっと堪らえた幼い自分の姿。
真新しい浴衣はすでにしわくちゃで、袖口や裾にはうっすらと土の汚れ。
雨粒とともにすべり落ちた血が、肩に一滴また一滴……。じわりと滲んで広がって、白い生地を染め上げていく――
ハッと我に返り、彩香は身震いとともに強くまばたきを繰り返した。
鏡に映るのは今の自分。
淡い水色地に金銀で描かれた水面が広がり、可愛らしく鮮やかな金魚たちがのびやかに泳ぎだしていく。
柚葉が貸してくれたそんな柄の浴衣に袖を通した、困り顔の現在の自分。
……どうかしている。
もうあの頃のような――小さな自分ではないのだ。
大きさばかりではない。色や柄だってこんなに違うのに。
浴衣姿というだけで、無意味に不必要に昔の記憶に重ね合わせてしまっただけで……。
しっかりしろ、と目を閉じて再度軽く頭を振る。
「どうしたの?」
「あ……い、いえ……ち、ちょっとだけ苦しいかな、って」
「えーそう? これでも? じゃもう少し緩めるわね」
「す、すみません……」
「だから言ったのに」や「やっぱりやめませんか?」という類のセリフはさすがに飲み込んだ。
柚葉の家の、柚葉の部屋。
大きな姿見の前での柚ママ――千草による浴衣着付けも、そろそろ終盤を迎えようとしている……らしかった。
ここまでかけてくれた手間と気持ちを思うと申し訳なくて言えないし、今さらだ。
言って簡単に止められるものなら、そもそもこんな状況になんてなっていない。
「やっぱり金魚にして正解だったね。すっごい似合ってる。彩香、可愛い」
すぐ横から満足気に柚葉が笑いかけてくる。
とにかく先に彩香をお願い、と豪語していた親友は未だ洋服姿で手には小ぶりな……何らかのブラシ。
ついでにメイクもしよう?と終始機嫌の良さそうな彼女に、先ほどから顔をいじられっぱなしなのだ。
当然「イヤだ不要だ無駄でしかない」と一応抵抗もしてみたのだが、今日も今日とてまるで取り合ってはもらえず。
「はあ……」
「ほらほら彩香、下向かないで」
どうやら拒否権というものが根こそぎ持っていかれてるようだ。あの悪魔によって。
おのれ、覚えてろよ……と居間で待っているはずの沖田侑希に声にならない怨嗟を向けてやる。
やんわりと仮病をつかってやり過ごそうとしていた土曜日。
なんと悪魔と般若がタッグを組んでわざわざ家まで迎えに来たのだ。
跳びたいのを我慢して部活まで休んだというのに……。これではまるで意味がないではないか。
そしてたまたま休みで在宅していた母によって、あっけなくまんまと差し出されてしまった娘。
母親にまでしっかり根回ししておかなかったことを心底悔いるも時すでに遅し……だった。
まあ、しょうがない。
というかもう好きにしてくれ。の心境だ。
罪の意識と心配なあまり「何でもする」と言ったのは確かに自分だし、これであの沖田侑希の気が済むのなら……。
ただ、改造された自分の顔をうっかり直視しないようにしなければ。
他人の目すべてを封じて回るわけにはいかないので、せめてそれだけは、と心に刻む。
そうして。
もう何度目になるかもわからないため息をつく。
――と。
鏡の中で大きくゆらりと千草が動く気配。
「髪はどうしようか?」
「あ、あっ前髪は……すいません! そ、そのままで……!」
額に手をかざしかけた千草から、思わず上半身を引いてしまっていた。
ちょっと失礼だっただろうかと密かに反省するも、「前髪はこのままね? はあい了解」と美魔女はたおやかに微笑みかけてくる。
「でも後ろはアップでいいんじゃない? ほら、こんな感じ」
「あ、はい……(もう何でもいい)」
「前髪……全開にしなくてもちょっと薄くするとか、小分けにしても可愛いのに」
柚葉も横からにこやかに朗らかに提案してくる、が。
「あ、いや……ごめん」
何をどうやったって素材は変わりませんよ……とぼやきたいのはやまやまだったが、面倒くさいことになりそうなのでやめておく。
「おでこ出すの、好きじゃなくて……。ごめん」
「ええ? 別に謝らなくても。わかってたしね。ただの練習日でも欠かさずハチマキしてるほどだもん」
「ん……。走ったり跳んだりで……見えちゃう、から」
にわかに額右側――こめかみの上付近が熱をもってきた感覚に襲われて、目を伏せる。
ありえない古傷の疼き。
知らず重ね合わせてしまった像がまたもやちらつく。
雨に濡れてしっとりと重さを増していく小さな浴衣。
泣くまいと引き結んだ唇と、握り込んだ小さな拳。
額の痛み。喉元の息苦しさ。
笑い声が突き刺さっていつまでもこだました。
(ちがう……)
凍り付いたように動けなかったのは、あの時。今じゃない。
今はもう、わかっているから。
持ち上げた右手がそっと喉元にたどり着く。
(わかってるから……大丈夫)
もう、不用意に傷ついたりなんかしない。
だから……この息苦しさは着慣れない浴衣のせい。
あんな、幼いころの記憶のせいなんかじゃなく……。
大丈夫。
大丈夫……
すべての支度を終えて高瀬家を後にするころには、陽はすっかり傾いていた。
梅雨の名残だろうか。かすかに熱を帯びたじめっとした風が頬を撫でつけて吹いていったが、それでも思ったほどの不快さではない。
薄い浴衣生地が良い感じで熱のこもった空気を逃してくれているから、だろうか?
だが。
「い……」
体感温度とは別次元で、命の危機が差し迫っているこちらのほうが大問題だ。
「息が、できないっ」
門から一歩踏み出すなり、必死の形相で彩香が訴えた。
「また大げさな……」
浴衣でそれだったらぎゅぎゅっと締め上げてぐるぐる巻きにする着物の帯なんてどうするの?
なんて柚葉が隣を歩きながら呆れ笑いしているが。
どうせそんな豪華で綺麗そうなものは着たいと思わないしハナから縁がないだろうし、知るか。
「綺麗になっても西野は西野だなあ」
柚葉の向こうから沖田悪魔もそう言って笑うが。
だって本当に苦しい。
いちいちそんなお世辞は要らん、と吐き捨ててやる余裕もないほどに。
「苦しいって言ってるよー爪も皮膚も。毛穴全っっ部塞がれて呼吸ができないってー。死ぬうううう!」
「あのね……」
根負けしたのをいいことに、なんとメイクだけでなくネイルまで施されてしまったのだ。
言うまでもないが、どちらも初めての経験である。
何というのだろう……この圧迫感というか重量感というか。
肌も爪も息ができなくてあえいでいるような、苦しんで助けを求められているような……そんな気にさえなってくる。
お化粧って……ネイルって……こんなものだったのか、と愕然とした。
普通に呼吸をするのもままならない、こんな姿でよく柚葉……いや、皆さん平気だな!と心底思う。
世のオシャレっこたちはこの苦しさを感じていないのか?
我慢してまでもオシャレを、ということなのか?
どちらにしてもそっち側で生きてる人間じゃなくて良かったわー、と彩香はあらためてげんなりため息をつく。
「あんまり緩めないで。着崩れちゃうよ?」
少しでも苦痛を和らげようと気になる襟元やら帯やらをいじりまくっている姿を見咎めて、柚葉。
「うー……」
いじるなと言われるともう、浅く速い呼吸を繰り返して延命に勤しむしかないのか。
紺地に大輪の百合が描かれた浴衣をまとう柚葉は文句なしに見事な大和撫子だ。
それに寄り添う侑希も黒地に縦縞しじらの浴衣で、いつもとはまた違った和風イケメンの輝きを放っている。
先ほどから道行く人々すべてにうっとりとした羨望の眼差しを向けられていく二人。
「……ねえ。……こっからは別々に行こうよ。せっかくの浴衣デートなんだからさ、二人とも――」
「却下」
「彩香ここからでも一人で帰るでしょ」
ぐっ……。
悪魔カップルめ。よくわかってらっしゃる。
「こらー、彩香こっち!」
「え……ハッ」
三つ並んだ鉄製の車止めゲートを、無意識にいつもどおりに跨ごうとしていた。
「もうっ。苦しがってるわりに浴衣着てるの忘れるってどういうこと?」
「こ、こういうのがあるとさ、越えたくなるじゃん? 挑戦には受けて立つぜ!的な」
「ならないわよ……っていうか、普段は受けて立っていいけど今日はダメ。おしとやかに女の子らしくしてて。ほらっ、こっち来て。裾直そ?」
「うぇーい……」
叱られている幼児とその母親のような二人を見て「ホントに西野は西野だなあ」と侑希が笑っていた。