変化……ただし無自覚(2)
ゴッ。
閉じた玄関ドアに、不穏な音を立てて額を打ちつける。
そのまま力なく寄り掛かって目を閉じ、早杉翔は特大のため息をこぼした。
(……しくった)
その場にへたり込みたい衝動をどうにか堪らえたものの、とにかく自己嫌悪が半端なかった。
侑希にあんな話をしてどうするつもりだったのだろうか。
自分でさえよく掴めないでいるこのモヤモヤを打ち明けられたところで、彼にだってどうしようもないだろうに。
――『彩香、何があった?』
――『は……早杉さんには関係――』
そうだ、実際なにも関係ない。もともと悩み事を……心の内をさらけ出せるような親密な間柄でも何でもないのだ、彩香と自分は。
なぜかたまたま――タイミング的にというべきか?――幼馴染を事故にあわせてしまった件やひどい寒がりだというこちらの内情は一部知られてしまっている状況ではあるが。(そういえば何故だ……)
だが、それだけだ。
彩香にだってこんな、単に部活が一緒なだけの知り合いに打ち明けなければならない義理もない。
それなのに……。
現にこうして、何やら淀んだ思いを抱えているこのザマは何だ?
「話を聞いて思い込みを正してあげるなら、翔以外に適任いないじゃん」というよくわからない侑希の理屈に、どこか期待していたところがあった……乗っかってしまっていた、ということなのだろうか?
おこがましいことに、こんな自分が聞き出せるとでも思っていた?
あの時――彩香に関係ないと言われたあの時。
何とか平静を装ってすぐに切り返せたのはよかったが、自身の内を駆け巡っていたのは決して小さくはないある種の衝撃……だったように思う。未だその得体は知れないが。
(カッコ悪……)
結局、彼女の身に何が起こったのか、なぜあそこまで自身を過小評価するに至ったのか聞き出すことは叶わず、そのまま瑶子や須賀圭介まで合流しての勉強会に突入してしまった。
結局何もわからず、うやむやなまま……。
そうだ。
モヤモヤの原因がもうひとつあったのだった。
普段から何かと言うとすぐ目の前から逃げ出そうとする彩香が、あの須賀圭介とかいうヤツとは普通に――――
いや、むしろ元気に真っ赤な顔をして追いかけ回してにぎやかにやり合っていたが、あれは何だ?
見た瞬間思わず固まって、瑶子にも怪訝な顔をされたではないか。
いや、別にそれはいい。話を聞いていなくて窘められることなんて今に始まったことではないし。
(なんだ彩香……。俺からはすぐ逃げようとするクセに)
そういえば隣り合わせていた勉強中も、気のせいでなければそこはかとなく距離をとられていたような気が……しなくもなく……なってきた。
避けられているのだろうか。
彩香はああは言っていたが、実はものすごく臭っているとか、やはりめちゃくちゃ嫌われている、とかではないのか。
まさかそんなことでこの自分がショックを受けている、とは思いたくないが。
ん? ……ショック? を受けている?
待て待て待て。早まるな。そんなんではない。
別にそこまで気持ちが大きく落ち込んでいるわけではなくて、ちょっとばかり凹んだだけというか――
――『それで凹んでる?』
侑希に言われたとおり……だったのか。
凹んでいたのか、本当に。この自分は。
何に? どちらに?
関係ないと断言されて? 仲良さげな二人を目の当たりにして?
わからない……。
そんな状態で、よくわからない心の内を幼馴染にまで垂れ流して、見透かされて――――
(ホントに何やってんだ俺……? マジでカッコ悪……)
無様なみっともない姿をさらしてしまった。
滅多にないことだと驚かせて心配かけてしまっただろうか?
いや…………今の侑希には、ひょっとしたら単に面白がられているのかもしれないが。
「翔? 帰ったの?」
何度目になるかもわからないため息にまみれていると、母親がリビングからひょっこり顔だけ出してきた。
「あ……うん」
「ずいぶん遅かったのねー。もうテスト前で部活ないんじゃなかった?」
ようやくドアから離れてのろのろと靴を脱ぎ始める息子を見ても特に不審がる様子もなく、言葉半ばですぐに奥へと引っ込む。
「んー、ベンキョしてた。と、瑶子送ってきた」
「あら一緒だったの。……ってまさか、また夕飯ごちそうになってきたんじゃないでしょうね?」
「そうなりそうだったから逃げてきた」
押しの強い伯母には顔を見られたら最後。絶対捕まると踏んで、瑶子が玄関先にたどり着く寸前に簡単な挨拶だけ投げて逃げ帰ってきたのだ。
親戚だからとそう毎回毎回甘えるわけにもいかないのは自分とて承知だ。
「あ。そういや侑、食いに来るっつってた。も少ししたら」
「そ? よかったあ」
じゃ温め始めちゃおーっと、と上機嫌でパタパタとキッチンに移動する足音が響く。
「あ。ねえ、勉強といえば」
カシャンと何かをレンジにセットした後、思い出したとばかりに再度廊下に顔を出す母親。
心なしか上目遣いなのと妙に明るい笑顔が気にはなったが、腕まくりをしながら「んー?」と生返事で素通りする。
階段横にカバン一式を置いたまま、とりあえず洗面台へと向かうためだ。
「侑希くん来るまででいいからさ、ちょっと晶の宿題見てやってよ。算数でどうしても解けないところがあるみたい」
「えー……」
家に帰ってまで授業するのか。しかも妹に。
「いいじゃない。お父さん今日も遅いし。得意分野でしょ? 私じゃ教えられないもの」
口をゆすぎながら目一杯の不満をのせて声を発してみたが聞き入れてはもらえなかったらしい。
答えがわかるのと上手く教えられるのとは別問題なのだが。
(仕方ねえ……。ちゃちゃっと終わらせるか)
着替えてくつろいでからだと絶対もっと面倒くさくなると踏んで、階段を上り切った先、右側のドアにそのまま直行する。
「晶ー、入るぞー」
申し訳程度にノックしてドアを開けると、シャーペンを握って机に向かっていた妹が一瞬だけ顔を上げた。薄いツインテールがひらんと揺れる。
「もー、お兄いきなり入って来ないでよ」
わずかに顔を曇らせたものの、すぐにまた手元の教科書へと目線を落とす。あきらめずに宿題との格闘を継続中だったらしい。
「ノックしたじゃねーか」
「まだ入っていいって言ってないもん。もー、デリカシーない男は嫌われるよ?」
「…………」
そうか……妹にさえ言われるほど、やはり自分はデリカシーというものが欠如しているらしい。
つか小5のガキが何言ってんだ……?と思ったが、言い返しても埒が明かなくなりそうな相手のためスルーを決め込んでそちらへ向かう。面倒くさいことは極力避けるというのが鉄則だ。
半分ゲンナリしながら手元を覗き込む。
どうやら割合を応用した文章題で四苦八苦しているらしい。
「ああ、そこな……」と口を出そうとしたら「えええええっ、教えてくれるつもりなの!?」ととんでもなく驚いた顔で見上げられた。
じゃあ何をしに来たと思われていたのだろうか。
「しょーがねえだろ。親父忙しいんだから」
「だって解りづらいんだもん、お兄! 難しい言葉ばっかり使ってさあ。教えてくれんならもっと解りやすく教えてよね!?」
「…………」
妹というのはどうしてこう年々生意気になってくるのだろうか?
だが、そうか。やはり自分の教え方はまずかったらしい。
思いのほかスッキリして、いっそ清々しいため息が吐き出される。
「教える」ということに関しては思った以上に向いていないのかもしれない、と思い始めたところでもあった。
彩香が理解に苦しんでいるのはこの自分の教え方が悪いのではないか、と。
それでもここまで嫌がっている素振りは感じられなかったが。(……と思いたい)
あの課外授業の後、教室に戻って高瀬柚葉と合流したいということだったためミーティングルーム前で解散となった。
「んじゃ明日また続きからな?」と言ったら、一瞬驚いたようにしながらも彩香はうなずいていた。
その後なぜか、隣に立つ瑶子の顔をこっそり窺っていたようだったのがやや気になったが……。
あれは何だ。
いとこ同士なだけで付き合っていないと伝えたはずなのに、まだ何か誤解でもしているのだろうか?
変に遠慮しているとか……信じられてない、とか……?
ふいに妹の手元の向こう、教科書の陰になっていた辺りにグラス半分になったオレンジジュースが見えた。
溶けかけの氷とともにそこに突っ込まれているのは、淡い水色のストロー。
先日寝込んでいた際に枕元でも見たものだ。
それまで我が家では先が曲がるタイプのものは見たことがなかったので、もしかしたら薬やら何やらと一緒に彩香が買ってきてくれたものなのかもしれない。
本当にそうとう世話になったのだな、とあらためて思う。
これは、何がなんでもしっかりガッツリ礼をしなければ。
「――晶さ、好きな男いるか?」
「……は?」
「あー、や……いい。じゃアレだ、嫌いなヤツはいるか? そいつにその……いろいろ世話やいてやりてえって思うか? 看病してやるとか……手握って元気付けてやるとか」
「するわけないじゃん。そんな時間の……人生の無駄!」
まあ、普通はそうだろう。
ではとりあえず、凄まじく嫌われているワケではない、というのは本当らしい。彩香が「普通」に当てはまるのかどうかは置いておいて……。
(じゃあ、なんで逃げる?)
思い違いでなければいつの間にかぽやーっと見とれてたり、うっかり格好良いなどと抜かしやがったこともある……のに?
そうだ。外見で好きにはならんなどと豪語してもいたのだった。
「やっぱさ、自分とそう変わらん身長の男がいいのか? デカすぎたら怖ぇ……とか、あったりすんのか?」
「……どうしたの? いきなり……」
「晶。――――俺、カッコいいか?」
一瞬の空白の後、ぐにゃりと妹の眉が寄せられた。
「あ……」
ちょっと待て。自分は今いったい何を――
我に返った時にはもう遅かった。
愕然と、信じられないモノを見るような眼つきで見上げられていたかと思うと、脱兎の勢いで妹が部屋を飛び出していく。
「お母さーん! お兄がヘンーーー!!」
身も蓋もないセリフが軽く隣近所にまで聞こえそうな大音量で響いてきてようやく、ああ……またやらかしてしまったらしいと悟る。
(しくった…………)
微妙な薄ら笑いを浮かべてガックリ項垂れたとたん、今日一日の疲れがどっと両肩に伸し掛かってきた。