変化……ただし無自覚(1)
(あれ?)
薄闇の中。
自宅前に気だるげに立っていた長身の人影に気付いて、沖田侑希がおや、と目を丸くした。
「翔?」
家の鍵を取り出そうとカバンをまさぐっていた手も、足とともに思わず止まってしまう。
「……おう」
「珍しいね、そんなとこで。え、何? ひょっとして待ってた?」
彼自身の家は数軒先だというのに。
いつぞやの自分のように、帰らずに待っていたのだろうか。
制服姿で荷物一式を抱えたまま。
気のせいでなければどこか沈鬱な表情で。
インハイチームの練習が終わって教室に戻ると、柚葉が待ってくれていた。それに付き添って彩香も。
駅までの道すがら、またもや翔に数学の特訓をしてもらっていたのだと聞いてきたばかりだった。
「で、どしたの? なんか話?」
「……」
ここでは話しづらい内容、とかだろうか。
「ウチ、上がってく?」
「え……や、いい。すぐ帰る。――――じゃなかった。ええと……何だっけ……うー」
気を利かせたつもりだったが、何かさらに混乱でもさせてしまったのだろうか。
ずっと心ここに非ずといった体だった翔が、今度は唸りながらわしゃわしゃと長い前髪を掻き乱している。
「あ、そう。アレだ。ウチ来て晩飯食わねえか?って今朝母親が言ってたんだった。こないだのぶっ倒れてた時のお礼に、つって」
「え……」
礼というなら自分なんかよりもっと献身的に看病していた彩香に――――と思ったが。
家族にそこまでは伝えられていないのだろう。
まあ彼女へのお礼なら翔本人が手厚くすればいい話だ、と密かに且つ強引に納得しておく。
「ほんとに? 急にご迷惑じゃない?」
「こっちが誘ってんだから迷惑もクソもあるか。あ……今日は親父さんが帰ってきて水入らず、とかだったら無理しねえでいいぞ」
「いや、親父のことは大丈夫。じゃあ、うん。お邪魔する。ありがとう」
「…………」
誘ってくれたから返事をしたのに、反応がない。
彼の目線はまたどこか虚ろなまま。
どうしたというのだろう。
珍しい……どころか、こんな様子の幼馴染は初めて見る。
「翔?」
何か相談事だろうか?
思えばそれ自体、超レアな状況のような気がしなくもない――が。
「……須賀って」
「え?」
「転入生、来たんだってな? おまえンとこに。えらいにぎやかな。…………どんなヤツ?」
「あー、普通に面白いイイヤツだよ。……うん、確かにちょっとうるさいかな」
関口顧問によって途中から須賀圭介も勉強会に放り込まれたらしいことも、そういえば聞いていた。
ついでに、今日の昼に自身の発した意味不明なギャグでいつまでも笑い転げて彩香に呆れられていた彼の姿まで思い出し、思わず小さく噴き出してしまう。
いかんいかん、それよりも今は目の前の幼馴染の話だ。
「なんで? 須賀がどうかした?」
微かに笑いをにじませたまま、あらためて翔へと向かう。と。
「――――」
死んだ魚のような表情のまま、明らかに何かを言い淀んでいる素振り。
(ははーん)
ピンとくると同時に、ニヤリと口角が上がってしまった。
「気になるんだ? 西野との仲が」
「えっ……や。ち、ちが……っ、そ、そういうんじゃなくて」
この場で初めて生気が宿ったかのように目は見開かれ、吃りながらあわてて手と首を振り出し――――た、と思ったのも束の間。
ぱたりと下ろされた手とともに、またもや視線が落下した。
「……や。かもしんねえ。……一部認める」
つい一瞬面白がってしまったが、見るからにテンション駄々下がりな様子に、侑希はいよいよ驚きを隠せない。
「てか、よくわかんねえけど確かにモヤモヤはしてる気ィするし……。それでも『好きか?』って訊かれたらやっぱりまだ……わからん状態だけど」
(まだか……。この無自覚さも強固すぎないか?)
驚きと困惑でぽりぽりとこめかみを掻き、次はどう攻めたものかとため息まで出てきかけたところに――
「それよりも――さ」
逆に、なぜか急に苦笑とため息が降ってきた。
「関係ねえ、って言われた」
「え、え……何? 何の話……え、西野に?」
「うん」
「関係ない」と言った?
あの西野が? この翔に?
想いを寄せているはずの相手に、あちらはあちらで何をやってるんだか……。
「え……と、ごめん。イマイチ――っていうか流れとか全然わかんないんだけど」
ああ言えばこう言う的な話運びだったとか、ひょっとしたら単に照れ隠し的な何か、だとか?
いつも真っ赤になって何やらわちゃわちゃしているのが西野だし。
まあ、大方いつもの口喧嘩の延長線上でのことなんじゃないのか?という尤もらしい予想をしてみる。
どういうきっかけでそういう展開になったのかはさっぱりわからない、が。
「で、どうしたの、翔は? 関係ないって言われて?」
その辺の情報もここに至るまでまったく伝えずに、ただ押し黙っている状況になってしまっていることさえ、もしかしたら気付いていないのだろうか?
よく頭の回るはずのこの男が。
やはり、尋常ではない。
確かに一歩も二歩も前進はしているようではある、が。
「別に……何も。ただ、だから……何も聞き出せんかった。過去に何があったのか、とか」
「……」
やはり全貌はほとんど掴めないままだが、合点がいった。
彼のテンションの落ち込み具合については。
「それで凹んでる?」
心のどこかで気になっている相手に「関係ない」と言われて?
「え? や……凹んで……ってワケじゃ。あー…………よく、わかんね」
「…………」
「つか、それよりも、だ。ホラな? 侑に意味なく『適任』とか言われても、実際はこんなモンだぞ」
「『意味ない』……って……」
軽く笑って見せてはいるが。
(これは――――凹んでるな)
しかもそうとうだな、と驚きを隠せないままつい凝視してしまった。
「そろそろ帰るわ」
さらに大きな大きなため息を吐き出してから、翔はようやく吹っ切ったような笑みを覗かせた。
「そのまますぐ来るか?」
そうだ。
夕食を一緒に、という話だった。
「あ、あー……じゃ、ザッと汗流してからお邪魔する」
「わかった。んじゃ、後でな」
ゆらりと歩き去っていく後ろ姿を、なんとも言えない気持ちで見送る。
翔が――――あの翔が、『関係ない』と言われて凹むとは……。
それでもまだ、心の奥底にある自身の気持ちに気付かないというのはいったいどういうことだ。
本当に自覚がないのか。
妙な意地でも張っているのか。
多少強引にでも突っついて発破をかけて、無理やりにでも関係を纏めあげてやりたいのは山々だが。
(……無理だろうなあ。自分の気持ちにさえ気付いていないんじゃ)
かといって、お互いの心情を第三者の口から言い聞かせられるほどお門違いなこともないだろう。
そもそも言ったところで簡単には信じないだろうし。……というか実際信じなかったし。
何より彼自身が気付かないと意味がない。
何にしても変に気を回して余計なことをすべきではないのかもしれない。
西野彩香に「関係ない」と言われた(?)くらいであの死んだ魚のような目だ。
まかり間違ってうっかり余計なことをしでかしてしまったら……と想像するだけで恐ろしい。
今はただ双方の友人として見守るしかない――――か。
視界の数十メートル先で、こちらにヒラリと片手を上げてみせた翔に気付く。
自宅敷地内に入る間際に挨拶を、ということか。
ぼうっとしていてもそういうところは律儀だというかなんというか。
(何でもそつなくこなすクセになんと世話の焼ける……)
苦笑しながら軽く手を振り返し、侑希もまた玄関ドアへと向かった。
でもまあ、せめて間接的な協力を――――気を付けながら軽ーーく援護射撃くらいはしてやってもバチは当たらないだろう。たぶん。
鍵をまさぐりながらそんなことを企んでみる。
いつしか口もとにはため息とともに笑みが刻まれていた。