課外授業Ⅱ(4)
「すまん、早杉。もう一匹いいか?」
ノックもなく突然現れたのは、彩香をここに送り込んだ張本人、陸上部顧問関口。
と、その彼にぷらーんと首根っこを掴まれた須賀圭介だった。
二人の姿を見留めるなり、知らずもれる安堵の息。
と同時に肩の力も抜け、驚くほど気持ちが軽くなっていくのを自覚する。
瑶子が加わって三人となったこの空気に、思いのほか気を張ってしまっていたらしい。
「『匹』って、センセひどくない? 思わず『熊みたいッスね~』って言っちゃった仕返しッスかー?」
「おお、篠原もいたのか。じゃ大丈夫だな。手は足りてるな? 須賀も西野と張るくらいの数学弱者らしいから、悪いが頼んだぞ!」
圭介の不平を完全スルーして室内に放り込み、関口は忙しそうにさっさとその場を後にした。
そのままインハイ強化練習チームの様子でも見に行くのかもしれない。
やはりすべて外部コーチ任せというわけにはいかないのだろう。顧問もなかなか大変らしい。
ということは、今は柚葉ひとり教室で侑希の練習終わりを待っているのか。大丈夫だろうか。
帰りのタイミング合うかな? こっちが先に終わったら一緒に待っててあげようか、などと漠然と考えていると、圭介とばちりと目が合った。
「あ、西やん! やっほー!」
「や……やっほう……」
「ここで勉強教えてもらってたのかー。なるほど、ここがクラブハウス――の中の会議室ね。うわお、お金持ち学校って感じー。陸上部専用?」
「なワケないでしょ……」
いくら沖田侑希の功績が大きくても、さすがにそれはない。
許可が下りればどの部も利用できる一室である。
(っていうか、あれ?)
興味津々で部屋を見回している小柄な彼が手ぶらであることに、今さらながら気付いた。
自分と同様、翔に勉強を教わりに来たはずだが。
関口に連れて来られたものの、すぐトンズラする算段だったりするのだろうか?
「ほっほう、そちらのイケメンが早杉センパイとやらですか。おおおカッコいい! はじめまして。…………って、あっっ!! 超絶美人マネージャー先輩じゃないですか!! こ、これはどうもっ、お初に御目にかかります。北の国からこんにちは。須賀圭介と申しますっ! 以後お見知りおきを!」
挨拶・所見から、美人マネージャー発見、快活な自己紹介に至るまでよどみなく豪快に述べまくる圭介に、クスクスと笑いながら瑶子が立ち上がった。
「うん、よろしくね。須賀くんって言ったっけ? 元気だねえ」
「はいっ、元気だけが取り柄です! いやあ、ほんっっとにキレイですねえ! ところで低身長な男子ってどう思います?」
本当に……。
朝から夕方までどうしてこう活きがイイのだろうか、須賀は。
瑶子と圭介のにぎやかなやり取りを薄ら笑いを浮かべて眺めていると、
「……なんだ、このうるせえのは?」
唖然とした表情のまま、隣の翔が引き気味に訊ねてきた。
わずかに身を寄せられ一瞬ドキリとしたが、だからといって瑶子の眼前でぽーっと湯だっているわけにもいかない。
たとえ付き合ってはいないと判明したとしても。
「え、っと……ずっと登校できてなかった転入……生。でもってテスト明けからの新入部員、デス」
つつつ……と気持ち逃げ気味に、無難に姿勢を正すフリなどしておいた。
西やんの邪魔になりたくないから、瑶子センパイに教えてもらいたいなあ俺。
満面の笑みで図々しくもそう小柄男子が宣ったため、自動的に席は決まった。
「ええ? 翔みたいには教えられないわよ?」と笑いながら、それでもまんざらでもなさそうに瑶子が自身の隣のパイプ椅子を引いてやっていた。
「西やん西やん、何か貸して?」
瑶子を挟んだ向こうから明るく人懐こい声が上がる。
「何かって?」
「書くものと何か紙と……教科書とかワーク的な何か」
「全部じゃん……。だいたいアンタ勉強しにきたのになんで手ぶらなのよ……?」
「熊センセーにいきなり連れて来られたんだもー。呼び出されて出頭しただけなのに、話してたら急に」
ちっ、ならしょうがないか。
ルーズリーフ数枚に演習プリント、それに今使っていたシャープペンシルをとりあえず……と何気なく渡しかけ――――てハッとした。
「あ……ご、ごめんっ! これはナシ! これはダメなんだった!!」
危うく宝物を使わせてしまうところだった。
以前翔が触れた水色のシャーペンだけは、よほどのことがない限りやはり自分専用にしたい。
キモいと思われようがそう決めたのだ。
「びっくりしたあ……何でもいいよ。西やんアレだよね、体に似合わず声は馬鹿デカイよね」
「くっ……だ、黙れ。ええと別なやつ、別なやつ……」
しまった、他のはイマイチ調子が悪いのだった。
貸せそうなやつあとないかも……。ペ、ペンじゃダメだよね?
と冷や汗たらたらでペンケースをまさぐっていると、
「んじゃ俺の使うか?」
埒が明かないとでも思われたのだろうか。
半分立ち上がった翔が「ほらよ」とわざわざ一番遠い圭介の方に手渡ししてあげていた。
あ、いいなあ、早杉さんのシャーペン……とすかさず心の声が上がる。(エコー付きで)
「うわ、デカ……」
鈍く光る銀色のシャープペンシルを受け取りながら、圭介が愕然と目を瞠っていた。
あらためて目にした翔の高身長ぶりにひどく驚いたらしい。
「ちくしょう、ズルい……神様ひどい。けどカッコイイ! 沖田もスゲェって思ったけど俺的にはセンパイのほうが好みだわあ!」
言ってることはちょっとアレに聞こえるが……。
地味に気が合うな須賀、と彩香も内心で大きくうなずく。
(そうだろう、そうだろう? 同志よ! 最高にカッコいいんだよこの人はー!)
思わずそっぽを向いてへッと笑ってやりたくなった。
それにしても――
「やっぱり身長欲しいんだ? 須賀でも」
そういえば今日も牛乳二本飲んでたしな、と昼の様子を思い出す。
ちなみに、昨日ほどではないが今日もあちこちから見目好く美味しい差し入れが飛んできていたらしい。
コイツもお得人生が約束されてるんだよなあ……と思えばモヤモヤとため息が湧いてくる。
やっぱりおまえなんか知らん。気が合う同志などではない。
「でも、って……何言ってんの西やん!? 欲しいよ! 男にとっては数センチ、数ミリが死活問題なんだよ!」
「ええ……?」
いや、気にしているっぽいのはわからなくもない、が。
背が高くなくたってすでにあんなに人気集めてるならもういいじゃん、と思うのだ。割とマジで。
「西やんこそ、気にすることないやん。全然。むしろ羨ましい」
「はあ? なんだそれは! 嫌味か!」
気にするに決まっている。己のチビさ加減は嫌だ。
嫌だと言っても……まあ、どうする手立てもないのだが。
「なあんでかなあ? 女の子のちっちゃいのって可愛いじゃん。ねえ? 早杉センパイ?」
「ん? あ、ああ」
急にふられて一瞬驚いた様子ではあったものの、なぜかあっさりと隣から発せられた返事。
と、何気なく普通に向けられて合ってしまった視線。
一瞬の空白の後――
「う……」
驚きと疑問と先ほどの罪悪感、ついでに恥ずかしさが一気に体中を駆け巡り、気が付いたら大きな音を立ててパイプ椅子から立ち上がっていた。
そして――
びたん!
「えええー! なんで叩くの?」
瑶子を飛び越えて圭介に特攻してしまっていた。
「須ぅーーー賀ああぁーー!!」
(なんで、じゃないよ! 早杉さんに妙な問いかけしおって!)
そんな……同意を求められても困るだけのようなことを、よりによって早杉さんに――
こともあろうに彼に――!
「よくも! よくも! よくもっっコノヤロっ!!」
「ひー! なんでー!?」
「待て、このやろー!」
「西やんが荒ぶるー! でもイイ! 友達サイコー」
「あんたそれ、変態くさいからヤメなさいってば!」
突如始まったにぎやかな抗争に、しばし唖然としていた篠原瑶子がクスリと目を細めた。
笑いながら逃げ惑う圭介に、顔を真っ赤にして猛追をかける彩香。
視線の先では未だワイワイギャーギャーと、簡単には収まりそうになりやり取りが繰り広げられていた。
「可愛い。なんかお似合いね? あの二人」
あとどのくらい経ったら勉強中だということを思い出してくれるだろうか。
それほどまでに彼らの息はピッタリ合い、雰囲気や元気度のつり合いも申し分ないように思えた。
いや――無理にでもそう思い込みたかったのかもしれない。
そして、できれば同意を得たかった。自分が焦がれてやまないこの相手からも。
つい今しがた、やや聞き捨てならない応答も耳にしたばかりだし。
まあ大方、同意を得たいかのような問いかけを急にされて、驚いて適当にうなずいたにすぎないのだろうが。
だが――
「……翔?」
同意どころか、なんの反応もない彼を思わず振り返る。
「え……あ、ああ。んだな」
「――」
我に返ってとっさに作り笑いを浮かべている自覚は、彼にはあるのだろうか。
それが、そうと気付かれるくらいぎこちないものになっていることにも。
ほんの一瞬とはいえ、名前を呼ぶまでこちらの存在は完全に忘れ去られているようだった。
(二人を見て……気にしていた?)
「おらっ、おまえらそろそろやんぞー」
そう呆れた表情で声を上げる翔は、もう完全にいつもどおりのようにも見えるのだが……。
これまでとは明らかに何かが違っている彼の様子に、焦燥感はますます膨れ上がってくる。
気付かれないようにそっと吐息して、瑶子はネイビーのリボンタイごと喉元を押さえ込んだ。