課外授業Ⅱ(3)
(確認……?)
顔を上げると。
聞き出すこと自体はあきらめてくれたようだ……が、微妙な表情をしつつなぜか眉間にシワを寄せて見下ろしてきている長身イケメン。
やはり心配を無碍にされて怒っている、とかだろうか。
まあ、それももっともな話だ……とあきらめの境地で次の言葉を待つ。――と。
「おまえが何かっていうとすぐ逃げたがったりすんのって、つまりそういうこと――あー……よくわかんねえけど『視界に入るのがツラい』? とかって理由だけなんだな?」
「う……ん、……え、え?」
どうも怒られてはいないようだ、が。
つまり何を訊かれているのだろう?と思えばますます首を傾げざるを得なくなる。
「顔も見てらんねえほどとにかく俺を嫌ってる、とか俺がとんでもなく臭え! ……とかじゃねーんだな?」
「…………」
恐ろしく真剣な顔で何を確認したいのかと思ったら――。
「ぶ……」
思わず短く噴き出していた。
「……そーんなおかしいかよ」
「だって、く、臭い、って……」
「で、どうなんだ? 笑ってもいいから答えは!」
「ち、違います……ぷふふふ」
臭いと思ったことなんて一度もないし、とんでもなく嫌って……なんてあるはずがない。
むしろ好きすぎて、これ以上はダメだ、あきらめなければ、と避けていたようなところはあったのだが。
当然そこまでは言えない。
そんなことを気にするのか。こんなハイパーイケメンでも。
意外性に驚いて。
笑いすぎだコノヤロ、覚えてろよ……と憮然としてブツブツつぶやいている姿もカッコ可愛い、などと思ったりして。
気付けば涙ぐんだまますっかり笑い転げていた。
振動で肩からずり落ちたカバンを難なくキャッチしてくれた大きな手。
それを当たり前のように長テーブルへと戻して、ようやく穏やかに満足そうに翔が口の端を上げる。
「やってくか? 数学」
「はい……うん!」
わずかばかり抵抗はあったものの、おらよ、とわざわざパイプ椅子を引いてくれたため元いた席に戻る。
そこからは普通に課外授業が再開した。
「つまり虚数って何? 複素数って何? えっ、実在しない数をなんでわざわざもってくるの?」
「おまえ……まったく授業聞いてねえな」
「だって波多野先生の説明、呪文にしか聞こえない~」
いや、実際のところ誰にどう説明してもらっても呪いの文言にしか聞こえないのだが。
「因数分解だって中学ので限界だよ……。こんなの楽しんでサクサク解ける人っていったいどんな脳みそしてんの? もうっ、分けてほしいぃぃ!」
「……ほんっとによく洸陵に入れたよな」
そうして翔の呆れ笑いを誘いながら一暴れしていると。
軽いノックの後、カチャリとドアが開けられた。
「あ、いたいた翔」
「――!」
艶やかに微笑んで入室してきたのは、制服姿でカバンを抱えた篠原瑶子。
今の今まで緩んでいた彩香の背筋が、知らずピンと伸びる。
「瑶子……」
「いろんな人に聞きまわって探しちゃった。早く終わった日くらい一緒に帰りたくて」
「あー悪い。まだ当分かかりそうだし、先帰ってな」
それほど悪びれずあっさり断っているが……いいのだろうか?
実は付き合ってはいないと翔から聞かされてはいたものの、構わずこちらに歩み寄ってくる瑶子の反応が気になった。
まともに顔を上げて目を合わせることすらできないが……。
何せ面と向かって言葉を交わしたのは、彼をどう思っているのかと部活中グラウンドで詰め寄られた、あの時が最後。
それ以来あえて近寄らず話しかけず、と距離をとっている。
そしてそれは、おそらく向こうも同じはず。
「何? また数学教えてるの? 自分の勉強大丈夫なの?」
確かに、最初は自分もそれが気掛かりだった、が。
まるで責められているような響きに彩香は身を固くする。
「こんくらい何でもねえ。超余裕」
(早杉さん……)
本当にたいしたことないのかあえて気にさせまいとしているのか、きっぱり言い切ってくれる姿にじんわりしてしまった。
「だからほら、次やれ。問2。とりあえず今日はせめて複素数までは終わらせンぞ」
「う……は、ハイ」
ん? 「今日は」?
今日だけで終わらずまたこういう場を設けてくれる、ということだろうか。
嬉しい疑問が浮かぶが、さすがに瑶子もいるこの状況で確認はできない。
「……ふうん」
何やら含みを持たせたような美しい声が響いた、一瞬後。
「じゃあさ、見てていい?」
一転して朗らかなトーンで瑶子が身を寄せてきた。
言いながらすでに隣の椅子を引いて腰を下ろしている。
「はあ? 見て……どうすんだよ。そっちこそ自分の勉強は」
「いいじゃない別に」
美男美女に両脇から挟まれる形になって「うげげ……」と心情的に逃げ出したくなってきたところに、
「ね、西野さん? ――あたし、邪魔かな?」
明らかに他の意味も含んでいそうな、物言いたげな視線が向けられた。
「あ……い、いえ……っ」
膝の上でシャーペンを握る指に力がこもる。
「ほら、西野さんもいいって」
「ホントかあ? ただでさえ気が散るのにおまえ」
(だ、だって……)
嫌だなんて言えるワケがない。
正直言うと嫌だし怖いし、「気が散る」どころか緊張のあまり全然身が入らなくなるだろうことは火を見るよりも明らかだが……。
「帰り、ぜってー暗くなんぞ?」
「そしたら送ってよ。それでまたごはん食べていけばいいじゃない。翔がくると冷蔵庫が空くわーってお母さん嬉しそうだし」
「だからメシは……。俺を遠慮知らずのブタにしてえのか」
「なあんでよー。美味しいっていつも翔が褒めてくれるから喜んでるんだってば」
(……やっぱり、かな)
小さな確信をして彩香はそっと息をつく。
間に挟んでいようがお構いなしに他者をあえて排除しようとするような話運びと、時折意味ありげにこちらに向けられる目線。
美しいがどこか無機質で挑発的なその瞳と会話の端々に見え隠れする気安さは、おそらく――「付き合ってる」アピール。
だから自分たちの間には割り込んでくるな、と。
暗にそう言われているようだった。
翔の前だからなのか表立って詰め寄ってくる気配はない、が。
こうして間接的な牽制をかけられてくるということは……。
実は付き合っていないと翔が公言し始めたのを知らない、のだろうか。
それとも知っていて?
知っても――いや知ったからこそ、今度こそなりふり構わず彼を手に入れようと、とか?
(んー……でもなあ)
超絶美人がそこまで必死になるだろうか?という疑問が浮かぶし、イメージ違いも甚だしい……気がする。
こんな雑魚キャラになぜ? やはり気のせいでは?という思いも完全に拭い去れてはいないのだ。
(ていうか、だから……翔とどうにかなりたいなんて思ってもいないし)
そんな身の程知らずな超難関コースを突き進めるワケがない。
そもそもはなからムリなのはわかっている。
こんなの牽制してる暇あったら他の可愛い女の子たち注視してたほうがいいんじゃ……? 相手間違えてますよ、と目を見ずに(怖いから)教えてあげたい。
というか、その前に彼の気持ちをまず確かめたほうがいいのでは?という気もする。
(そうだ……)
昨日思いついた可能性が再度浮かび上がってきた。
そう。
付き合っているわけではないのだと、翔は話してくれたが。
本当のところはどうなのだろう?
いや、疑っている……とかそういうことではなく。
彼の――気持ちの上では?
(まだ付き合ってはいないだけで「好き」って気持ちだけはあるんじゃ?……って、一瞬思っちゃったりもしたけど……)
目の前でこんなやりとりを繰り広げているあたりからすると、瑶子と同じ気持ちを抱いている…………ワケではないのだろうか。
「おら、やっぱ止まってる。手!」
「はっ」
唐突な「紙ぺし」で破られる思考。
「しかも『でも訊けないしなあ……』とか何だ!」
「う……えっっ、あ、あたし……口に出ちゃってました!?」
ひいぃぃーっと一気にムンクの叫び降臨である。
マズい。マズすぎる。
気を付けなければ本当にいつどこでこの想いがバレるかわからない。
「わかんねえことが出てきたらすぐ訊け、っつってるだろーが。妙な遠慮したり面倒くせえからってそのまんまにすんな。どんどんワケわからんくなるぞ」
「い、いや、べつにそういう……面倒とかじゃ……。ちょっと、その……考え事をしてただけで……」
「ああ? 特訓中に考え事だ? 彩香のくせに余裕あんじゃねえか、ああん?」
「ううぅ、久々のジャイ◯ン節ぃ……」
ここぞとばかりに「紙ぺし」連打がキマったところで、突然、外から豪快にドアが開けられた。