課外授業Ⅱ(2)
「ケツって……」
ドキドキも冷めやらぬ間に、ま、まだそれ言うんだ……と彩香の肩が少なからず落ちる。
「にしても、伸びんの早くねえ?」
「う……」
「そういや聞いたことあるぞ。髪伸びんの早えヤツってスケベ――」
「い、言わないで。気にしてるんだからっ」
頭部を押さえたままガバリと長テーブルに突っ伏していた。
ちろりと目だけで窺うと、ニヨニヨ笑って面白そうに見下ろしてきている翔。
やはり、例によって反応を見てわざとからかっているらしい。
(うぐぐ……)
スケベがどうこうはかなり眉唾ではあったものの、気にしているのは本当だったりする。
クセ毛でまとまりがない上に毛量が多いため、ちょっと油断しているとすぐ「もっさり」になってしまうのだ。
サラサラストレートの柚葉や軽やかに美しくウェーブを描く瑶子の髪が心底羨ましい。
そして、こんなところでも差をつけるなんてやっぱり神様はなんてひどいんだ!――――と思って止まない。
「入院とか何だかんだで切りに行くタイミング逃しまくりで……。そろそろ行かなきゃなーとは思ってたんだけど……」
のそりと上体を起こして、やや毛先の傷んだ髪を一房つまみ上げてみる。
ふてくされたまま、薄い薄いため息とともに。
「伸ばそうと思って、ってワケじゃねえのか」
隣では、頬杖をつきながら翔がクスクスと笑っている。
どうしたんだろう、急に……と再びにわかに鼓動が活発化し始める。
この相手と髪型の話をするようになるとは思ってもみなかった。
「い、いや……あたしの場合キレイに伸ばしたところで、どうせアレだし……」
ていうかそもそもキレイなまま伸びてくんないし、そこまで根性見せてケアできるほど女の子っぽくないしー……とごにょごにょ口ごもり始める彩香に、「ん? 何だって?」と聞き取りづらそうに翔が身を近付けてくる。
(ひーっ、あんまり寄らないで……そんなカッコよすぎる完璧なお姿で!)
この程度の容姿で屈託なく笑いかけられたり不用意に近寄られたり、というレア体験を強いられている身にもなれというのだ。
「そ、それに……!」
こちらとしては、もともと男慣れしていない上に激しくつり合いもとれていないツーショットに困惑――というか罪悪感めいたものまで感じているというのに。
どんな相手といてもまったく気にならないのだろうか?
そこらへんも無頓着すぎやしないか、このヒトは。
「それに、ほらっ……アレよ! 女らしさの欠片もないあたしの場合、下手にそんなことしたら逆に男らしさが引き立っちゃうんじゃないかなあ、なんて! あははは」
困惑と焦り、恥ずかしさのあまり、思わずばんばんっとテーブルを叩いて笑ってしまっていた。
――のだが。
「何言ってんだ、おまえ?」
返ってきたのは、ほんの少しだけ呆れを含んだ静かすぎる表情と声。
「どっからどう見たって男っぽくなんかねーだろ」
(え……)
テンパり具合が一気に掻き消えた。
意味なくテーブルを叩いた手のひらが、今ごろになってようやくじわりと痛みだす。
「おまえさ、もうちょい自信持ってもいいと思うぞ?」
「――――」
「まあ……今まで笑えねえ冗談浴びせてきた俺が言うな、って話なんだけどな。……あれは、ホントに悪かったよ。……マジで」
バツが悪そうにぼそりとつぶやいて、翔は自身の前髪をかき乱している、が。
(な……に? どうして急にそんな……)
テーブルの上で握り込んだ手が微かに震えた。
また、何か変に責任を感じさせてしまってでもいるのだろうか? 屋上で話したあの時のように。
全然――そんな必要もないのに。
それとも、そこまで聞くに堪えない言い方をしてしまっただろうか?
だとしたら早めに黙るべきだったと反省しきりだが……。
「だから、あんま……変に自分を卑下すんな」
しまいには伏せ気味だった視線をまっすぐに向けて、そんなことを言ってくる。
言い含めるように。お見通しだと、言わんばかりに。
そして、気遣うように。
だけど――――
「……がう」
「ん?」
「ちがう……。変な卑下でもなんでもなくて、あたしはホントに――事実を知ってるだけ……だから」
どんなにひどく、救いようがない容姿なのかを。
ちゃんと自覚している。
「ば……っ、……だから、それが間違ってんだって。全然わかってねえじゃねーか」
「……わかってるよ。事実なんだし」
「わかってねえ」
「わかってる……! 自分が一番……っ」
「わかってねえよ! 何っっだ、そのとんでもねえ思い込みは!?」
「なんで早杉さんが怒るの!?」
またもやバンッと両手をついて今度こそ立ち上がってしまっていた。
「お――――……や、べ……別に怒って、は……」
あ、あれ……?とばかりに若干驚きと狼狽えたような空気は伝わってくるものの、今はまともに顔を上げられる気がしなかった。
……また、やってしまった。
理由はわからないが自分のためを思ってか何やら説き伏せようとしてくれたのを、頑なに撥ね付けてしまった。
いくら自分のほうが正しいとはいえ……。
これも、向こうに言わせるとなぜか「間違っている」、「妙な思い込み」になってしまうらしいが。
というか、なぜいつまでもこんなブサイクに構ってくれるのだろう?
罪ほろぼしを、と心配して気遣っていた幼馴染はとっくに幸せをつかんで小花を散らしているというのに。
もう妙な策略を巡らせる必要もないはずなのに。
「……ごめんなさい。あたし、やっぱり帰ります」
わずかに震えの残る手で、ぎこちなく荷物をまとめ始める。
思い入れのある水色のシャープペンシルも、仕舞おうとする段でうっかり取り落としそうになってしまった。
とんでもなく動揺している自覚はある。
が、今はとにかく一刻も早くこのヒトの傍から醜く哀れな自分を遠ざけなければならない。
「気にしないでください。ほ、ホント何でもないんで。ってかむしろ忘れてくれるとありがたいかな、って」
「……おい」
「す、数学も……あの、自分でなんとかするんで。大丈夫です。……っていうか全然大丈夫じゃないけど。でももし赤点だったとしても別に早杉さんが気にすることじゃ、ないですし」
動揺のあまりすっかり言葉遣いが戻ってしまっていたのにも気付いたが、わざわざ言い直して聞かせるのも申し訳ない。
「彩香」
「そう……その、名前で呼ぶのとかタメ口でいいとかいうのも、やっぱりどうかと思うんですよね。そちらこそ変な罪悪感とかもうかなぐり捨てて、ご自分に合った世界の人たちのところへ行かれたほうがいいですよ」
「何だそりゃ……」
「わかってもらえないとは思いますが、こ、こんなブサイク、正直言って早杉さんみたいなヒトの視界に入ることさえ実はツラい……というか申し訳ないというか――。ってああ、すみません、気分悪いですよね、こんな話? 忘れてください、とっとと退散しますんで……!」
「待てって」
支度が済んでカバンを肩に掛け、立ち去りかけたところに。
いつかのように後ろからしっかりと二の腕がつかまえられていた。
「おまえ、何があった?」
「――――」
「なんでそこまで自分を」
「は……早杉さんには関係――」
「関係なくていいから言え」
予想だにしていなかった反応がきて、思わず振り返ってしまっていた。
「な、なんでそんな…………別に、気にしないでください、って――」
どう転んでも楽しい気分になる話ではない。聞く側にとっても然り。
そのくらい想像つくだろうに。
「話すだけで楽になることとかもあんだろ。存分に利用しろ。あ、ついでに恩返しさせろ。だから吐け、おらっ」
「横暴……」
目を見開いたまま、よく考えたら失礼なことをつぶやいていた。
が――
「何とでも言え。ワケわからん鉄砲玉のくせにおまえのそんな表情……何回見てると思ってんだ。このまま放っとけるか」
言葉こそ粗野で横柄なものの……静かで、真剣な表情。
本当に、心配してくれている――。
通り一遍な同情や憐れみ……といった類ではなく、おそらく心の底から。
(でも――)
喉元と目頭がじわりと熱くなる。
今さらだが隠すように顔を伏せ、ふるふると首を横に振っていた。
「言えねえ……か」
「……ごめんなさい」
心配や気遣いは痛いほど伝わった。
が、すべてさらけ出してしまえるほど自分は強くない。
誰にも気兼ねなんてしてほしくない。
この傷は――この過去は封印しておかなければならないもの。
鎧でガチガチに覆って、心の奥深くの壁に閉じ込めておかなければならない。
周りの大事な人たちに心配させないために。
そして自分のためにも。
「わーかった」
伏せた頭上にため息まじりの声が降ってきた。
「言いたくねえなら言わなくていい。けどな、一つだけ確認させろ」