課外授業Ⅱ(1)
翌日放課後。
大至急来るようにと校内放送で呼び出され、彩香はひとり職員室へとたどり着いていた。
「失礼しまーす。グッ――……せ、関口先生は……」
「おお西野。ここだ、ここ。ちょっと待っててくれ」
一服用にコーヒーでも淹れていたのだろうか。
背の高いロッカーや書棚で囲っただけの奥の給湯スペースから、声とともに熊のようなゴツい手がヒョイと見えた。
では待っていようかと窓際のデスクに向かうと、それほど間を置かずジャージ姿の関口が戻ってきた。
手にしたステンレス製マグカップからコーヒーのいい香りが漂っている。
「単刀直入に訊こう。おまえ、今回の数学は大丈夫なのか?」
席に着くなり予想外の話題を切り出され、わずかに固まる。
てっきり陸上部関連の話だと思っていたのだ。
「だ……大丈夫なワケないじゃないですか……」
もともとの学力がアレなうえに入院騒ぎもあり、波多野教諭の授業内容は輪をかけて意味不明になっている。
今もちょうど教室で柚葉や圭介と勉強し始めたところだった。(インハイ王子はテスト前でもコーチとともに練習中)
「だろうと思ってな。またクラブハウスに早杉を向かわせたから、教わってこい」
「えぇっっ! 先生!?」
中間テスト前の「紙ぺしスパルタ授業」が瞬時によみがえった。
「おお、そうかそうか。そんなに嬉しいか。じゃあほら、とっとと行け」
手はすでにしっしっと追い払うポーズをとっているが、ちょっと待て!と声を大にして言いたい。
「い、いや、そんな……。大事なテスト前に、あたしなんかのことで早杉さんにご迷惑をおかけするワケには……」
確かに嬉しいは嬉しいが……なんてことをしてくれるのだ、この熊の手中年は。
受験生の足を引っ張るようなことをして…………本当に我が校の教諭か? 実は他校からの回し者というオチだったりして、とつい訝し気な目を向けてしまった。
「遠慮していられるとはずいぶん余裕だな? 波多野先生とのあの約束は健在だからな?」
赤点とったら走高跳クビ。
それを言われると、ぐっ……とうめき声を上げるしかなくなる。
「まあ任せるが。断るなら断るで直接本人に言え。一足先に向かってもう待機してるだろうしな」
「…………う、は、ハイ」
ど、どうしよう。顔を見られるのは嬉しい。
でもこんなおバカ、ぶっちゃけ迷惑以外のなにものでも……などと唸りながらふらりと立ち去りかけたところに。
「ああ、西野。ところでな」
そうだそうだ忘れてた、と関口に呼び止められた。
「一年で誰か、マネージャーやってくれそうな人材に心当たりは?」
「あー……それ、沖田くんもあたしも一応、話してはみたんですけど……」
昨日の部活終わりに一年部員全員に訊いてはみたのだが、選手から転向してもいいという部員は当然いなかった。
部員以外から――と考えると、一年生に知り合いなんて本当にいない。
まともに話したことがあるのなんて、せいぜい綿菓子の美郷くらいだし。
だが……彼女なんかは熱愛発覚に最も衝撃を受けたうちの一人だろうし、おそらく色好い返事はもらえないだろう。
しかも柚葉の手前、声もかけづらい。
「とりあえず、やってくれそうなコがいたらガッツリ捕まえといて紹介して、とは言っときましたけど。今はとにかくテストが終わらないことにはどうにも身動きが……」
それでもダメならビラ配って勧誘してみようか、という話で落ち着いている。今のところは。
「だな。じゃあほら、テスト後にすんなり動けるようにやっぱり赤点は回避せんとな! 早杉にシゴかれてこい!」
「…………」
軽くノックしてミーティングルームの扉を開けると――そこには関口の話どおり、早杉翔がいた。
窓から差し込む夕陽を半身に受けて、制服姿のイケメン長身が脚を組みリラックスした状態で一番奥のパイプ椅子に腰かけている。
(くーーーっ、相変わらずカッコイイぃぃぃ!)
「よ」
内心でじたばた悶えていると、軽く明るい挨拶が飛んできて我に返った。
「あ……ど、どうも……あの、す、すいませんホントに……」
「いきなり何謝ってんだ」
前回とは違って不機嫌の欠片もないらしい。
軽く噴き出して、ほら座れとばかりに翔が隣のパイプ椅子を引いてくれた。
(えっ、図々しく大胆にも隣に座れとな!? ていうかすでに教わる流れになっている?)
不躾に端なく飛びつくワケにもいかず、かと言って厚意を無碍にして失礼に思われてもいけない。
ゆるゆると荷物を下ろして、そろーりと椅子に指をかける。
「え、でも、あの……いいんですか? お忙しいんじゃ……? グッチ先生に無理やり頼まれたとかだったら別に、あの」
「敬語!」
「はっ……あ。い、いい……の? 早杉さんだって自分の勉強がある、のに」
「また一緒に数学やるって言わなかったか? 入院中に」
「そういえば……。で、でも」
でもあの時は、素行不良の中学生たちの一件でそんな必要もないのに罪悪感を感じて言ってくれてるのだと……。
「……イヤならやめとくか? 無理強いはしねえぞ」
「い、イヤなんてとんでもない!」
その誤解だけはやめて!という思いで、勢い余ってドサリと腰掛けていた。
「ただ、申し訳ないな……って。受験生の貴重な時間をあたしなんかのことで――」
「気にすんな。つか、ちょっとは返させろ」
「?」
返す、とは?
「一昨日もな。また、えっっっらい世話ンなったみてえだし、いろいろ。自分だって病み上がりなのにあれこれ世話やいて看てくれたろ」
「あ……」
「まあ、もちろんこれだけでチャラにするつもりもねえけどな。とりあえずお返しの一環、っつーことで」
「あ、あれは……だって」
そもそも自分のせいで具合を悪くさせてしまったようなものなのだ。
お返しなんて望むわけが――望めるワケがない。
「あんなのは別に! 何でもない……し!」
「俺もだ。彩香の一匹や二匹、どうってことねえ」
「……」
匹で数えられてしまった。
まあそれは置いておいて。
ば……バカがグレードアップしてて、も?
スパルタが始まっても同じことを言っていられるのだろうか? どうということはないと。
「それに俺のほうにも事情…………つか、個人的にちょっと確かめてえ不確定なアレがあるしよ……」
「え?」
何やらバツが悪そうに目をそらしてこめかみを掻いているが、どうしたというのだろう。
キョトンと瞬きする彩香に顔を戻して、翔がフッと表情を緩めた。
「や……いい。とにかく安心しろ。おまえが解いてる間にちゃんと自分のもやるから」
ほらな?とばかりにすでに用意してあった『数学Ⅲ』『数学演習』などのテキスト一式をトンと立てて見せる。
「おら、とっととやんぞ」
「う……うん」
やっぱり優しく笑ってくれる回数が格段に増えた……ような気がする。
「うーん。見事に清々しいくれえに間違ってんな」
「や、やっぱし……」
一通りの説明後、とりあえずやってみろと言われた例題はやはり出来ていなかったらしい。
想定内だったのか、後々のために体力温存中なのか(ひー)、前回のスパルタ時ほど怒りは表面化していない。
それどころか、額にシャーペンを当てて真剣な顔で「……とすると地道にこっちの解き方でいくか」などとつぶやいているヒトを、気付けばずいぶんと長く堂々と見つめてしまっていた。
「まーた見とれてんのか?」
「うん…………って――あ」
ここでまたもや、ぶふぉっと噴き出す翔。
「い、いやっ。あのっ……ち、違くて!」
違わないけど。
こんなうっかりばかり垂れ流していると、さすがにこの気持ちが気付かれてしまう。
「か……紙ぺしはないのかなあ?って……。 こ、今回はお仕置、ナシ?」
「…………」
にへらと笑っておそるおそる見上げる彩香を、目を真ん丸にして眺め下ろしていた――――かと思うと。
翔は手頃な用紙を手に取り、それをくるくると丸め始めた。
「そーかそーか、おまえはМだったのか」
「ち、ちが……っ」
「ご要望とあらば仕方がねえ。おらおらっ」
嬉々として、ここぞとばかりにぺしぺしと脳天に紙が打ち当てられる。
「うぅ……」
――――が。
「ああ……なるほどな」
「え?」
「昨日からなーんか違和感あると思ってたら」
すぐに紙ぺしは中断され、思わず隣を振り仰ぐ。
「髪、伸びたんだな。すっかりアヒルのケツじゃなくなってっから」
向けられた笑顔がこれまでになく穏やかで優しくて、ドキリとした。