Trèsor――Ⅳ(10)
「ぐ……ふっ!?」
「ちょ……っ! け、ケンジ!? なん――しょ、翔くん大丈夫!?」
ギョッとしてケンジを見上げ、くの字に身をかがめて呻く翔にいずみが駆け寄る。
「……っくー……」
「懺悔で思い出した。その懺悔に対する答えだ」
拳を軽く振りながら、ほぼ同じ目の高さになった野生顔は悪びれなくにいっと笑った。
「てっめえ……。は、歯ぁ食いしばれっつった後に腹にくるか、フツー? ……ってええ」
「フフン、おまえの自慢の顔に気ィつかってやったんだ。ありがたく思え」
「ふ、フザ……っ」
遠慮も気遣いも無用だと心から知り得た今。
当然、怒声とともに反撃に転じた。
「っザケんなっ! ジジイっ!」
頭から突っ込む勢いで拳を繰り出すも、例によってあっさり躱される。
「ちょ……っ、何よ? 何? 何の話? 二人ともやめ……っ」
「お、やんのか? あ? 懺悔もやし」
「懺悔にこんな返答なんてアリかよ!?」
辛うじてボクシングっぽい形をとっていたのは最初の十数秒だけ。それからはもう――――
……どちらからともなく肘は出るわ膝は出るわ、首絞めもあり……でお互い破れかぶれだった。
「黙って聞いてやるだけの寛容さが俺にあると思ったか?! もやしが!」
「だったら知った時にやれーっ!! 覗きジジイが!」
「とにかく最初っから生意気なんだよ、おめーはよっ!」
「アンタにはいろいろ感謝してっけど、やっっっぱムカつくーーー!!」
「それはこっちのセリフだーーー!!」
びしゃん!と、唐突に水が浴びせられた。
取っ組み合ったポーズのまま固まる二人の目の前には、空になった深鍋を抱えて睨むいずみ。
「翔くん、ちょっと大きくなったからって無茶しない。ケンジ、請求書また束で見たいの? ……っていうか何よ、さっきから二人とも私を無視しすぎ!」
一番の怒りポイントはそこか……と思いながら、顔面に水が滴る男同士つい顔を見合わせ、笑ってしまった。
借りたタオルを戻して、今度こそ帰ろうと店のドアを開ける。
見送りに、と二人もわざわざ外まで出てきてくれた。
「また……来る、よね?」
どこか不安気にいずみが訊いてくる。
のっぴきならない事情も加わったとはいえ、一度派手に不義理を働いてしまったのだ。こんな顔をされるのも無理はない。
「もちろん」
安心してもらえるように努めて笑顔でうなずくと、いずみが見るからに胸をなでおろしていた。
「ありがとね、翔くん。大好きよ」
「――お幸せにっ」
「ガンバレよ? いろいろとな」
「おう!」
満面の笑みで応え、その場を後にした。
「いっててて……」
突っ切って帰ろうと思った公園内。
打ち込まれた腹がじわじわと悲鳴をあげてきたので、電車に乗る前に一休みしようと空いているベンチを探す。――が、見事に空いていない。
花見を楽しむリア充たちに占拠されてしまっているようだ。
内心舌打ちして腹部をさすりながら、ようやく見つけた比較的きれいな芝生の上に座り込む。勢い余ってそのまま仰向けに寝転がってしまった。
「くーっ、さっすがジジイ……」
最初にまともに入れられたあの一発が恨めしい。
まだまだボクサーとしての腕は鈍っていないらしい。それではやはりリベンジなど夢のまた夢ではないか。
こうなったら何か別な手段で報復に出るしか……と目論みかけた視界を、黄色い小さな蝶がひらひらと横切った。
昼下がりの澄んだ青空。
やわらかく吹き抜ける風。残りわずかになった桜の花びらがその後を追う。
それほど人も多くなく(ベンチだけは埋まっているが)、静かな景色に自分も溶け込んでいけるような気分になってくる。
気持ちがよかった。
このまま目を閉じていたら眠ってしまえるかもしれない。
明日から新学期。怒涛の日常が始まるのだ。その前に少しくらいゆったり休んでも罰は当たらないだろう。
でも――と、ゆっくり目を開ける。
ケンジはああ言っていたが、本当にこの気持ちはいずみに気付かれていなかったのだろうか?
当時の彼女の様子や先ほどの別れ際の言葉を思い返すと、やはり知っていたのでは……?という気もしてくる。
……まあ、今となってはどちらでもいいか。
二人を心から祝福できているのは事実だし、現にこうして不思議なくらい穏やかな気持ちになれているのだから。
それでいい。
(ま、ガキが成長するには刺激が必要だった、ということで……)
つくづくイイ刺激を浴びせられたモンだよな……と思わず笑みがこぼれ出た。
「……」
ケンジの、もうひとつの言葉が耳に残っている。
悠然と広がる青空と流れるように進んでいく白い雲を見て、つい考えてしまう。
どこか、この空の下に――本当に存在するのだろうか? 特別な相手というのが。
――『おまえにとっても彼女だけ。彼女にとってももちろんおまえだけ、っていう特別な女をな』
巡り会えるだろうか……?
でも、いたとしても運悪くすれ違ってハイ終わりってことも……フツーにあり得るよな? などと切なく虚しい想定をまずしてしまうのは、自分がよほど悲観的になっているということなのだろうか。
小さくため息を吐いて、できる限りマイナスな想定を一緒に吹き飛ばす。
何にしても、不思議と……というべきか、やはりというべきか、それは瑶子ではないという気がしている。
根拠はまるでないが。
(や……根拠も何も……。結局は俺の気持ち、か)
瑶子は、朝はなんとか電車にも乗れるようになった。
が、依然として夜道はひとりで帰れないままだ。
思い出してしまうのかもしれない。
さらに傷を抉ってしまうようで直接問いただすことができず、想像するしかないのだが。
そしてあの約束も――「約束」というのとは少し違う気もするが――当然安易に受け入れられるものではないし、無下に突っぱねることもできずに……現在に至っている。
突き放せるわけがない。彼女があんな目にあったのはこの自分のせいなのだから。
とにかく気の済むまで付き合ってやるしかない……か、と思っているのが正直なところだ。
それほど心配することもなく、そのうち他に好きな相手ができるかもしれないし。と。
そしてこういうところだけは変に楽観視している己に気付いて、さらに自己嫌悪に陥る。
本当になんてダメダメなんだ、自分は……。
後悔ばかりだ。
いろいろと。
ケンジには元気にうなずいて見せたが、いったいどこからどう頑張ればいいのか……と思うと途方に暮れる。
けど……
――『ほんとにできること全部したか?』
――『悩め。足掻け。みっともなくても情けなくても、とことん考えろ』
「進んでいくしかねえ……か。そうだな」
とりあえず、前向きに今できそうなこと、確実に先へ進んでいけそうなことから考えることにするか。
まず侑のほうだな、とあえて意識して幼馴染へと思いを馳せる。
本人情報によると、同じ部活の何たらという女が気になっているらしい。
どうにかして彼らをくっつけてやれないだろうか……。
まずは罪滅ぼしの第一歩として。
性格的に侑希には絶対拒否られるだろうから、とにかく内密に。
だがそもそも学年が違うし、出来ることといってもかなり限られてくる。
……となると、どうしたものか。
かなり面倒くさいが元担任、関口のあの誘いを受けて陸上部に入る、か?
(や……でも、今さら部活……つってもなー……。曲がりなりにも受験生だし)
何より面倒くさい。
が、他に接点なんてどう考えても作れそうにない。
そしたらもう……えーと、うー……
などと、うだうだと寝そべって目を閉じたまま、うなされるように考え込んでいた自身の腹部に。
突如、とてつもない衝撃が降ってきた。
なぜか、ほんのりと甘いバニラの香りを伴って――。
そして出会いのあのシーンへ。




