Trèsor――Ⅳ(9)
「ごめんね、遅くなって。家にも寄ってきたの」
左手に持った紙袋をのぞき込んで何やらガサガサやりながら、カウンターに歩み寄ってくる小柄な女性。
ゆったりとした生成りのボタンダウンシャツに淡いブルーのロングスカート。
以前と変わらずシンプルで優しい装い。
「お父さんがね、これケンジにって――」
懐かしさと彼女の後ろの逆光に、思わず目を細めた時だった。
「……翔、くん?」
「あ……」
名前を呼ばれたことでハッと我に返り、思わずガタリと立ち上がる。
気恥ずかしさのようなものが一気にこみ上げてきて、焦った。
「ど……ども。お……お久しぶ――」
いずみが取り落とした袋の中で何かが崩れた音がした。
そう気付いた時には、彼女が泣きながら胸に飛び込んできていた。
「バカ! あんなケガしたまま急に来なくなっちゃって……! すごくすごく心配したのよ!?」
「いず……」
「連絡先も何も……名前しかわからなくて……も……っ、もう会えないんじゃないか、って……! バカ!」
胸に顔を埋めたまま大泣きで叱りつけてくるいずみを、茫然と見下ろすことしかできなかった。
――こんなに……こんなにも、この女性は華奢だっただろうか?
ショートジャケットを皺だらけにしてしまうほど強くしがみついてきている彼女の腕が、体が……とても儚いもののように思えた。
「……会いたかったよ。翔くん……」
すぐ横では、カウンターに片肘をつき、ケンジが見守るように微笑んでいる。
「……すんません」
謝罪の言葉とは裏腹に、あたたかさと安堵に満ちたため息がこぼれ出ていた。
「すごく大きくなっちゃったのね。前は首のあたりが私の目線だったのに、今は頭の上に翔くんの肩がある気がする」
隣に座ったいずみが、背を比べる素振りをして感慨深げに目を細めた。
「ケンジより大きいんじゃない?」
「あーやだやだ、もやしのくせに生意気なっ」
カウンター向こうから「けっ」と心底嫌そうに眉根を寄せる野生顔。
「え。まだもやし? ちったあマシになってねえ、俺?」
「ねえな。まだまだ」
『なんちゃって筋トレ』が一度父親に目撃され、「おう、医者も体力要るからな。いいぞいいぞー」とほくほく顔で激励までされてしまったことがある。よって、それ以降も細々とではあるが続けているのだ。
にもかかわらず、まだまだか細いと思われているのだろうか。
……まあ確かに陸上バカのあの幼馴染の体格には遥かに劣るが。
相当なゴリマッチョにでもならない限り、このボスライオンのお眼鏡にはかなわないのかもしれない。
元よりそこまでの体型など望んでもいないため、まあいいか、と翔はそれ以上の反論をあっさりと引っ込める。
「いずみさんは全然変わってないね」
「悪かったわね。どうせチビよっ」
「や。違う違う。髪とかもさ」
「ん?」
「長くしてると思ってた、髪。勝手な想像だけど」
「あ、コレね。私ダメなのよ。根性ないからすぐ切っちゃう。伸ばそうと思っても途中で枝毛だらけになっちゃって発狂しそうになっちゃったコトあるし」
なんか傷みやすいみたいで……と不服そうに顔をしかめながら毛先をいじる姿に思わず軽く噴き出す。
「でも……よくすぐわかったね、俺だって」
そんなに、感慨深げに目を細められるほど変わったと、言われるくらいなのに。
「わかるわ。翔くんだもん」
当然のことのように微笑み、いずみはコーヒーを口元に運ぶ。
「――」
じわりと嬉しさが込み上げるなか、二の句を継げずに固まっていると、向かいからトンと肘を突かれた。
ケンジが口をパクパクさせて「ほれ、見ろ」を連発している。
いずみにはちゃんと大事に思われている、と先ほど聞かせられたあの件のことだろうが……。
「な? ダメダメじゃねえだろ?」
「な……だ、黙れジジイ……っ」
今はこれ以上赤面するようなことを言わないでほしい。
「え? なに? どうしたの?」
「あ……あー、いやいや……なんでもない……ッス。と、とにかく久しぶりだなーって……うん、そう」
男同士の小競り合いを最小限にとどめ、なんとかいずみの気を逸らすことに成功。
――――したかに思えたのだった、が。
「そうよねえ……。あ。そういえば瑶子ちゃんだっけ? 彼女。うまくいってる?」
ゴン。
コントのように小気味良い音を立ててカウンターに落ちる頭部。
なかなか浮上してこない翔に助け船を出そうと、ケンジがゴホッと中途半端な咳払いをした。
「い、いずみ……その話は……あー」
「え、どうしたの?」
ワケがわからずキョトンと男二人を見比べるいずみ。
「い、いや。いずみさん……あの、瑶……お、俺たち別に付き合ってるわけじゃ――」
「え? うそっ!? あの時キスしてたから私てっきり……!」
「ま、待――――! い、いずみ、その話はやめてやれ。な?」
「え? な、なに?」
さすがにいろいろと不憫に思ってか、無垢なる攻撃をあたふたと止めに入るケンジをよそに、
翔はすでに…………突っ伏したまま果てていた。
「……なんだこれ? なんで一部公開処刑みたいになってんだ俺……」
「お、おい……しっかりしろ。いずみだって悪気があるわけじゃねえんだ」
ブツブツこぼしながらへたり込んでいる元に、憐れみと微妙な笑みを貼り付けて激励しにくるケンジ。
「もう! なーによう、二人だけでわかり合っちゃって! 女には秘密ってわけ?」
男性陣のやり取りがさっぱりわからず、頬をぱんぱんに膨らませていずみが拗ねかける――が。
「でも……嬉しいな」
すぐさま和らいでいく表情。
言葉どおり心底嬉しそうに微笑むいずみに、ようやくゆったりと顔を上げて視線を戻す。
「え……?」
「なんか翔くん、すごくいい表情してるから。なんかいいことあった?」
「うん……。さっぱりした」
にまっと笑って見せながら、いろいろとね、と心の声で補足した。
「――っと。これでいい?」
ちょっと待てコラ、帰る前に連絡先書いていけ、と渡された店のメモパッドに住所とフルネームをざざっと走り書きして手渡す。
携帯でいいじゃん、と思ったが、「いや信用できねえ」とケンジに速攻却下され(なぜ!? 何が?!)、しかもそもそも面倒くさがりの自分はほとんど何も登録していなかったのだからあまり意味はなかった。
「なんだ、思ったほど遠くねえトコに住んでんだな」
「まあ、そりゃ……」
一応ちょいちょい学校から抜け出して来られたような位置関係ですから、という言葉はしれっと飲み込んでおく。
「じゃ、翔くんにも絶対送るからね。招待状」
「招待状?」
聞き返すと、うん、と嬉しそうにうなずいていずみ。
「お金なるべくかけないように店使って、内輪だけで……ね。あとは籍入れるだけで」
「結婚すんの!?」
素っ頓狂な声をあげてしまった翔に逆に驚いて、いずみが隣に立つケンジを見上げる。
「え、あれ? まだ話してなかったの?」
「う……いや、まあ……懺悔しに来たヤツに話していいモンかどうか迷って、だな」
「懺悔? え、何の?」
「あ……あー、そ、それはいいとして、いつごろ?」
また余計な件に触れられる前に、といずみの意識を無理やり「結婚」の話へと戻してやる。
あれはケンジと自分の問題だ。彼女に何かを背負わせるつもりは毛頭ない。
「秋ごろには、って思ってる」
「そうか……おめでとう」
自然な思いが口をついて出た。
心から祝福できていることが自覚できて、なんだか嬉しかった。
「ありがとう」
幸せそうに笑んで愛しいひとの傍にぴたりと身を寄せるいずみ。
彼女を見下ろすケンジの表情もいつにも増して甘い。
そんな今まで見たこともないような蕩けきった笑顔のままで、ケンジが翔に向かって一歩、大きく踏み出してきた。
「歯ァ食いしばれよ?」
「え……」
何ごとかと思う間もなく――みぞおちに鋭い一撃。それも極上の笑顔のままで。




