Trèsor――Ⅳ(7)
約一年半後――
駐輪スペースには黒のVMAXが一台きり。
店の前に佇んで『CLOSED』のプレートをしばらく眺めた後、そっとドアノブに手を伸ばしてみる。
キイとわずかに金具の擦れる音。
続いて、ドアの内側上部に吊るされた鈴が心地よい音を奏でた。
思ったとおり、開いてはいた。
(……変わってない)
ドアのきしみも鈴の音も、店内の装飾や紙ナプキンの繊細な柄に至るまで。
記憶のまま……ほとんどあのころと変わっていなかった。
「あー……すみませーん。まだ準備中なんでー」
奥の部屋から床モップを手に、一人の男性が出てきた。
身につけているのは店の黒エプロン。
寝癖のついた後頭部をバリバリ掻き乱して半分欠伸をかみ殺した、見るからに億劫そうな野性顔。
何の反応もなく出て行きもしない客を不思議に思ってか、ようやく彼は床に落としたままだった視線を上げた。
「――――おまえ…………翔、か?」
おもいっきり目を見開いているケンジに、少しだけはにかんで翔はうなずいてみせた。
そこ座れ、とばかりに顎で指されたので、カウンター席のど真ん中に腰を落ち着ける。
目の前に差し出された真っ白なカップに、淹れたてのコーヒーがなみなみと注がれた。
懐かしく濃い薫りが、やわらかな湯気とともにひろがる。
「いい加減もう潰れてんじゃないかと思ってた」
「何いぃ?」
ああん?と面白くなさそうな声をあげながらも、ケンジの顔は笑っている。
たばこをくわえたまま自分のカップにもコーヒーを淹れて、いつぞやのように真正面に腰をおろした。
確かに「おまえが帰ってから繁盛してんだよ。メインは夜なんだよ」と前から言われていたが。
あの時は冗談半分に聞いていたが、こうして経営を続けられているということは、あながち単なる嘘や強がりではなかったらしい。
「今、一人でやってんの? 店」
「いんや。いずみがちょい用足しに出てる」
では相変わらずなのだな、と思うと自然に笑みが浮かんだ。
新たなスタッフを加えることもなく、あれからずっと二人で仲良く――
「おまえに、すごく会いたがってたぞ」
「――」
責めるような響きはない。
が、じっと真正面から見据えられ、苦笑いしながらそっと視線を落とした。
突然音信不通になったも同然の少年を、おそらくは彼らなりにすごく心配してくれていたであろうから。
なんとなく顔を上げられないでいると、
「んで?」
ガラリと調子を変えて、ケンジがずいと顔を寄せてきた。
「どうしてたんだよ? あの後」
「え……あ? ああ、あの後――は、ちょっと……」
……あの直後は――まあ、発熱と例の満身創痍で入院していた。
変に責任を感じさせてもマズいから言えないが。
驚いたことに。
実はあの翌日、さすがに病院から通報がいったのか、事情を聞きに警察官が病室を訪れていた。
力なく横たわったまま、内心めちゃくちゃ焦り真っ白になりかけたが、瑶子との打ち合わせどおり「助けようと思った」「知らない男たちだった」で通した。
事が事だけに、結局瑶子のほうもあまり追及されずに、労わるような対応をされて終わったらしい。後で聞いた話だが。
恐々とわざわざ外出してこなくていい、そっちこそ家でゆっくり休んでろ、と言ったにもかかわらず、毎週末早い時間に見舞いに来ては瑶子がそんな話をしていた。
そして、驚いたことといえばもう一つ。
そんな瑶子以上に、クラス担任の関口がしばらくの間、足しげく病院に通ってきてくれていたのだ。
こんな惨状を、可能ならなるべく周りには伏せておいてほしい、と頼んだのは確かに自分だ。
が。
だからといって何も担任自らがほぼ一日おきに課題や連絡プリントなどを持ってきてくれなくても……と、彼が明るく病室に押しかけてくる度に思っていたものだった。半ば呆気にとられながら。
忙しいんじゃないのか? 陸上部顧問放り出して何やってるんだこのヒトは……とも。
ものすごくありがたかったし、申し訳ない思いももちろん湧いたが。
塚本の言うとおり、前々から教え子の異変を察知して気にかけてくれていた、ということでも……あるのだろうか。わからないが。
何にしてもこんな大ケガが表沙汰にならず、学校でもそれほど大きく騒がれなかったところをみると、もしかしたら……関口が何かしら裏で動いてくれていた、のかもしれない。
「『ちょっと』?」
「あ――……や」
先を促すケンジの声にハッとして、回想にふけっていた意識を無理やり現実に戻す。
「……別に。ベンキョしてた」
「? 前々からやるこたぁやってたろ? 一応。最低限は、っつって」
何を今さら、とばかりに不思議な顔をされた。
まあ、それももっともなのだが。
端的に言えば、「最低限」などと悠長に構えてはいられない状況になったから。
「医学部、行くことにした」
いや――あえてそんな状況に身を置いたのだ。自ら。
無意味にふらふらしていた分の巻き返しも含めて、中途半端な逃げ道など作れないように昨年から特進クラスまで希望して。
「そうか……見つけたんだな。望む未来ってやつを」
そう言って、思いのほかケンジは穏やかに目を細めてくれたが。
そんな……たいそうなものではない。
明確な目的、ともまだ呼べないような気もするし。
ただ、過去は変えられない。
まさしくケンジに言われたとおりなのだ。
取り返しがつかないことを自分がしでかしてしまったのなら、未来で埋め合わせをしていくしかない。
医学の道に進んだからといって、都合よく幼馴染を治せるとか直接の治療法を見つけられるわけではないし、結局は自己満足に過ぎないのかもしれない。
それでも悲観的になってばかりもいられない。
少しでも光が差したらそこを目指す。掴めそうな何かには手を伸ばしてみたい。
周りは暗がりばかりではない。どこを見ても何かしらできることはある。あとは選び取るだけ。
だから、しっかり目を開けて進もうと思った。
自分にはそれができると、信じてくれていた祖父のためにも。
「でかくなったなあ」
指にたばこを挟んだままの手で頬杖をつきながら、やけに感慨深げにケンジがつぶやいた。
「ん、身長?」
確かにあれから十センチくらいは伸びているはず。
記憶は曖昧だが。
「いや……背もだが。なんかいろいろと、な」
なぜだ? 内面の成長をも喜ばれているかのようなこの感じは……。
あくまで心の声であって、選択や決心に至るまでの理由など一言も表に出していないのに。
もしかして内なる声がバレバレという状況なのだろうか?
「十七……十八歳、か? 今」
「昨日、十八になった」
これ以上は読まれてなるものか、とあえて無表情を意識して告げてみる。
……と。
とたんにニヤニヤしだすケンジ。
「? ……何だよ?」
「いやあ、まだまだ育ちざかりだもんな。でかくなるわなああ」
やはりそちらの方向からくるのか。
ヒクリと口の端を引きつらせ、片眉を上げながら薄く睨んでやる。
「……まだガキだって言いてえんだろ?」
「おう! まだまだよ」
朗らかに即答されたうえに、フウゥーッと顔面に白い煙を吹きかけられた。
「ジジイ、てっめえええ!」
思わずガタン!とハイスツールから立ち上がる、と。
またもやニヤリと満足げに見上げられた。
「なんだ、変わってねーじゃねえか」
「?」
「ずいぶんとおとなしいから」
「――」
ハッとしたのは一瞬。
そうだ、一番の目的を忘れるところだった。
ストンと、あえて無言で再びハイスツールに腰掛ける。
すさんだ生活をやめ、この街へ足を延ばすこともなくなっていた。
にもかかわらず、一年半近くもたってから今こうしてここを訪れているのは……。
それには、理由があるから。
「――――あんたに、ずっと言わなきゃと思ってたコトが……あってさ」
それを話さなくてはならない。
これこそ逃げてはいけない、といつしか思うようになっていた。
他の誰でもない……ケンジには。
自分に道を示してくれたも同然のこの相手には、正直に向かわなければ――と。




