Trèsor――Ⅳ(6)
答えなければ、と思うのに言葉が出てこない。
細い身体を引き剥がす……どころか自身の腕一本さえ動かせない。
それが、散々痛め付けられたケガのせいばかりではないのも――わかってはいる。
その数秒が、とてつもない長さに感じられた。
(情けなさすぎだろ、俺……)
泣き顔とその一途さを目の当たりにして、つい流されかけてはしまったが。
申し訳ないことこの上ないが。
やはり、そういう意味では自分は瑶子を想ってはいない。
虫がいいと罵られようが、そこはきちんと伝えておかなければ……と、半分しか稼働していないも同然な頭でそれでも翔は考える。
だが、どう切り出したものか……。
朦朧としたまま何とも応えられずにいると、瑶子の身体がそっと離れた。
「……大丈夫よ」
うつむいたまま微かに笑って彼女がつぶやいた言葉は、意外なものだった。
「翔がこっち見てないことなんて、昔からわかってる」
「……え」
「だけど、あたしはこんなに好きなの。あきらめたくない」
濡れた瞳で、だがまっすぐに、今度は挑むように見つめてくる。
「だから……。翔に――」
(俺……に?)
「翔に彼女が――本気で好きになれるような、そんなヒトができるまででいいから……お願い。そばにいさせて?」
「…………は……?」
知らず大きく目を見開き、またもや顔面の痛みを誘発してしまった。
なんだそれは?
ボコられすぎて言語理解まであやしくなっている、ということだろうか……。
一瞬本気で自分の状態に愕然とした。
他の女ができたら捨ててくれていいから、付き合え、と言っているようなものではないのか。
「や……けど、おまえ……それ」
そんな都合のいい扱いを……しろ、と?
どれだけ時間がかかるかも、そもそもそんな相手が現れるかもわからないのに。
いや、だから……か?
現れなければそれだけ一緒にいられるから、と?
それとも、一緒にいれば自然に温度差が埋まるとでも?
(俺が……瑶子を好きになる……?)
だが、もし現れたら?
(こんな俺にも……誰か他の、特別に思えるような……相手が)
そうしたら――
そこに至るまで瑶子がかけた時間がすべて無駄になってしまうのに……?
いや。
いやいやいや、冗談ではない。
ちょっと待て、と遠のきそうだった思考と意識を必死で引き戻すべくブンと頭を振る。
頭蓋骨から上半身すべての骨という骨にじくりと響くような痛みが広がり、くーーーっと思わず顔を伏せて嵐をやり過ごした。
そもそも、そんな都合がいいだけの付き合いを安請け合いできるとか、どれだけ人でなしだ?
いくら瑶子の希望とは言え、そんなとんでもない提案に最初からうなずけるわけなどない。
「……あのな、瑶子」
痛みが幾分落ち着くのを待って、意を決して顔を上げる。
と。
そんな内なる思考回路などすべてお見通しだとでも言うように、またもや瑶子に抱きつかれた。
「お願い……!」
いずみが掛けてやっていたブランケットはとうに床に取り落されていた。
震える細い身体。
恐怖がずっと消えないのだろう。
悪くすると、この先も――
そこまで考えてハッとした。
もしかしたら『男』というものに対しての恐怖が常にまとわりつくように、なったりする可能性も……あるのだろうか?
……いつまで?
ずっと……?
「少しでも悪いって思ってくれてるなら……お願いよ」
「――」
自分がしでかしてしまったことの大きさを、あらためて思い知らされたような気がした。
間もなく戻ってきたケンジといずみに一通り軽い処置を施され、家路につく。
正確には先に瑶子の家に、だが。
本当は、「いいから送らせろ」といつになくケンジが強く申し出てくれたが、断ったのだ。
何が何でもこの自分が、彼女を先に家まで送り届けなければならない。もしかしたらそこでぱったり意識は途絶えてしまうかもしれないが。
いや、むしろそのほうがいいかな。
久しぶりに祖父の隣にでも寝かせてもらおうか。
思いっきりケガの心配をされて……もしかしたら叱られてしまうかもしれないが。
それでも、きっと喜んでもくれるだろう。
昔のままの、優しい笑顔で。
そんなことを考えながら、どんどん浮かんでくる笑みを隣の瑶子に気付かれないように必死で抑える。
普通に歩いて電車に乗って、一駅だけ遠い瑶子の最寄り駅に着いたころには、時計の針はもう二十二時近くになっていた。
遠くで救急車のサイレンが鳴っている。
乗せてくれないだろうか……とうっかり思ってしまうほど、途中で何度か意識が遠のきそうになったりもしたが、どうにか瑶子との口裏合わせに集中した。
『学校からの帰り途中で見知らぬ男どもに絡まれた瑶子を、たまたま通りかかった翔が助けようとして返り討ちにあった』。
とりあえずそういうことにしてくれ、それが一番無難だから。という筋書きを押し付けながら、瑶子に半分支えられる形でのろのろ歩を進める。
そういう段取りが大方済んだころには、母親の実家――篠原の家が見えてきていた。
……と。
「……?」
朦朧としながらも感じた違和感。
こんな夜遅くだというのに、さわさわと数軒前あたりから複数の人影が外に出ていた。
カーテンを開いて屋内からそっと外を窺っている近隣住民までいる。
何だろう……と歩きながらのっそり周囲を見回していると、白のセダンが勢いよくガレージから出てきて目的地の前に急停止した。
あれは瑶子の家の――伯父の車だ。
暗くて視界も心許ないが、運転席に乗っているのもどうやら……伯父らしい。
瑶子と二人、顔を見合わせていると。
続けざま、瑶子の家から女性があわてた様子で出てきてセダンに駆け寄った。伯母だ。
これから出かける、とかだろうか。
「お母さん?」
「瑶子! 電話したのよ! いったいこんな時間までどこに……って、え? 翔ちゃん!?」
「……ど、ども。コンバンハ。どっか、行くんスか?」
外の様子に気付いたのか、伯父も運転席から降りてきた。
携帯電話で誰かと話しているようだ。
が、もう片方の手は「乗れ」とばかりにこちらに向かってしきりに手招きしている。
「あ……ちょ、ちょうどよかったわ、乗って! 翔ちゃんも一緒に! 早く!」
それどころではない、とばかりに後部ドアを大きく開けながら伯母が叫んだ。
「おじいちゃんが倒れたの! ついさっき救急車で先に……!」
「――!」
駐車もそこそこに、全員で息を切らせて駆けつけた救急病院。
名前を告げて案内された一番奥の初療室には、すでに母親がいた。
どれだけ車を飛ばして先に着いていたのか。
いや、もしかしたらたまたま母も実家にいてそのまま救急車に同乗してきた、とかかもしれない。
が、どちらにせよ些細なことだ。そんなことは。
兄一家と息子の到着に気付いて振り返った母親の目は、疲れたようにすっかり潤んでいた。
そしてその向こうに――
あわただしく処置に器具出しにと動き回る医師や看護師たちの隙間から、病床に横たわる身体が見えた。
一瞬だけ。
それでも、わかった。
わかったような気がした。
すっかり痩せ細って、顔のしわも格段に増えていた祖父が。
久しぶりに見る孫に気付いて、嬉しそうにその目を細めたのを――。
そして間もなく、祖父は穏やかに息を引き取った。
すぐさま泣きじゃくり駆け寄る瑶子や伯父夫婦を、入口前に立ち尽くしたまま呆然と眺める。
急激に視界がブレて色褪せ、すべてが一気に無音と化したような錯覚。
おぼつかない足取りで一歩二歩と後ずさっていた自覚もなかった。
何もしてやれなかった。
会いにも行かず、最期に言葉ひとつまともにかけてやれず……。
けれど。
昔と同じように嬉しそうに目を細めて、祖父は逝った。
――『じいちゃんの宝物だ』
そう言ってくれていた、あのころのままの笑顔で。
「じい……ちゃ……ご、め……」
「翔!」
「翔ちゃん!?」
憶えているのはそこまでだった。
散々痛め付けられたケガと発熱のせいで、どうやらその場で昏倒してしまったらしい。
左肩の脱臼と腕の骨にひびが入っていたこと、少々強く頭を打っていたことまで発覚し、そのまま約三週間の入院を余儀なくされた。
その間に通夜や告別式などが執り行われ、絶対安静を厳命された自分は当然駆け付けることもままならなかった。
別れの挨拶さえ、まともにしてやれなかった。




