Trèsor――Ⅳ(5)
「彼女つぶしちまう気か。こら、ガキ」
呆れて鼻で笑うようなケンジの物言いに、ピクリとも動かなかった翔の肩がのろりと隆起する。
「ガ……キ扱いすんな、って……言っ……」
左腕にまるで力が入らず、起き上がり失敗。
そのままドサリと床に転がった。
「翔……っ!」
「……ってえー……」
続けて、あわてて起き上がり、ソファから降りてすぐ横にへたり込む瑶子。
心配そうに覗き込んでくる泣き顔と目が合った。
栗色のウエーブヘアと制服の襟元はすっかり乱れ、顔も涙でぐしゃぐしゃだが、彼女自身は大丈夫なようで心底安堵した。
そして、悠然と椅子に座したままこちらに笑いかけているボスライオンに目線を移し――
その野性的な瞳をおもいっきり睨み上げてやる。
といっても身体中どころか顔面もあちこち痛み、思いどおりに表情筋を動かすことすらままならなかったのだが。
「……遅えよ……」
しっかり睨むことができているのか甚だ疑問ではある、が。
せめて、このわずかばかりの怒りは伝わっていてほしい。
確かに、夕べの打ち合わせの段階で具体的な時間の約束まではしなかった。
決めていたとしてもちょうどよくタイミングを計ることも難しかっただろうが。
……だがしかし。
せめてもう少し早く来てほしかった。こんなにボコボコにされる前に。
「悪い悪い」
しかも、どこから現れたのだ? 謝罪を口にしてはいるがまったく悪びれていないこのボスライオンは。
てっきり入口から派手に登場してくれるものとばかり思っていたが。
「いやー、『そういやジムにカメラあったよな、よしアレ使おう!』って、さっき急に思い立っちまってな。急いで借りに行ってたもんでよ。遅くなっちまった。悪い悪い」
なんだと……? こっちが必死で体張ってる時に呑気に機材を借りに?
しかも思い立っただと……?
昨日のうちに思いつけええええ!
今さら叫んでもしょうがないであろう事実にそっと蓋をして、翔は深い深いため息を吐いた。
「……携帯でいいじゃん」
「俺のぶっ壊れてたんだモンよ。あいつらそれ知ってるし」
「…………」
このやるせない怒りと虚しさはどうしたらいいのだろう。
――とはいえ、瑶子のことはまったくの予想外だったため、ケンジを責められはしない。
八つ当たりなんてできるはずもない。
これはどこからどう見ても完全に自分の落ち度だ。
「しっかし、よくやったじゃねーか。偉かったぞお。自慢の顔がぶーだけどな」
別に褒めてほしいわけじゃなく……というか、その笑いやめてほしい。
「撮ってる暇があったら助けろよな……」
なんとも情けないがそれも本心。
確かに、奴らの悪行の現場を押さえて確固たる証拠を突きつける必要があった、というのもわかるのだが。
「んや? 実は撮ってねえ。戻り着いてそこの窓から入ったばっかだった」
「…………は?」
では、空データ(とすら言えないか……)で奴らに脅しをかけて、あっさり退散させた?
なんて大それたひとだ。
「けど、ここまでしたほうが説得力あるだろ? 『ばっちり撮られてたのか!? やべえ!』って騙されたろ? あの馬鹿ども。金輪際、ツラ出すこともねえさ」
かっかっかっと笑いながら歩み寄ってくるケンジに、もうなす術もなく脱力する。
「こンのじじい……」
「それにしてもひでえ誤解だな。おまえがボコられてんの黙って見てるほど人でなしじゃねーぞ、こら」
しゃがみ込んだケンジに、比較的無事な頭部をぐりぐりと抉られる。
「でっ……いでででで」
「おしっ。じゃ病院いくか。それとも救急車のほうがいいか」
「え。や……いいよ別に。こんくらい……」
実際はあちこち半端なく痛むが。
事情も聴かれるだろうし、説明も大変だろう。というか面倒くさい。
とりあえず生きてるし、瑶子も無事だった。
今はその事実だけあればいい。
「ほー。そんな大口叩けるほどもやしが成長してたか」
感心してにんまり見下ろしてくるケンジだったが。
事実、そうなのだ。
もし、彼に言われた自主トレもどきを続けていなかったらあそこまで奴らに食い下がることも出来なかっただろうし、自分の身体ももっと重篤な事態に陥っていたのではないかと思う。
この成長は明らかに彼のおかげだ。
かなーり抵抗はあるし面白くないが、とりあえず礼を言っておくか。
のらくらと口を開きかけた時――
すぐ横の瑶子の肩にふわりとベージュのブランケットが掛けられた。
仮眠用にスタッフルームに置いてあったものを、いずみが持ってきてくれたらしい。
驚いて見上げる瑶子を痛ましそうに見つめ、いずみが口を開いた。
「ごめんね。私、何もできなくて……」
「い、いえ……そんな……っ」
とんでもない、とばかりに瑶子がかぶりを振る。
よく見るとその手が――唇が……まだ微かに震えていた。
いずみだけが瑶子のそんな状態に気付いて、動いてくれたのだ。
それほどまでに瑶子に怖い思いをさせてしまった。
自分のせいで……。
思い知った事実にあらためて後悔の念が押し寄せる。
そんなさなかでも、いずみと瑶子のやり取りは続いていた。
ちょっと手を出して?と言われておずおずと差し出した瑶子の右手の甲に、優しくカットバンが貼られる。
盾となった自分をすり抜けて、下衆男の靴先でも当たってしまった――とかだろうか。
結局無傷で守り切ることはできなかったようだ……。
「これだけは、ここに置いてあるの。でも翔の傷は」
微笑みながら、いずみが翔へと視線を移した。
「カットバンだけじゃダメだもんね。今すぐ病院行かないなら、ちょっと家に戻って薬とってくるわ」
ケンジとうなずき合い、「近いのよ」と瑶子に安心させるように目線を戻していた。
そして。
「……大事にされてるのね」
この上なく優し気に、微笑みかけるいずみ。
「あ……いとこ同士なんです、あたしたち……」
それには応えず、いずみの人差し指がぴんと翔の額を小突く。
「こら。もう心配かけんじゃないわよ? ――誰にもね」
「……うっス」
連れ立って二人が出ていった店内に、すすり上げる声が響き渡る。
「も……泣くな、って」
うつろな目で、隣に座り込んで泣いている瑶子を見やる。
そんな自分もなんとか上体だけは起こし、ソファに頭部だけ預ける形で地べたに座っているという状態だ。
「他に……ケガなかったか?」
カットバンの貼られた手の甲が痛々しい。
おまえが言うな、と叱られそうだが……。
瑶子は黙ってうなずいてくれた。
「――ごめんな? 怖い思いさせて……」
一瞬驚いたように目を上げて、瑶子は何度も何度も首を横に振った。
そして。
「ごめん……。あたしが、ごめん……なさい」
「え」
「……『帰れ』って言われたのに……あたしが来たから……。だから翔、こんなに……」
はたと何事か思い立ったのか、制服のポケットからあわててハンカチを取り出す瑶子。
その動きをぼんやりと眺めていると、ゆっくりと近付いてきたハンカチが口の端に激痛を引き起こした。
「い……っ!? 痛……痛いって、瑶――」
「当たり前よっ」
切れた口の端から血を拭い去ろうとしている瑶子は、泣きながら……なにやら怒っているらしい。
「心配したんだから……! すごく、すごく……心配して……」
これほどあふれ出しているにもかかわらず、涙はまたさらに大きな瞳いっぱいに溜まっていく。
「ごめん」
もう、謝ることしかできない。
「――」
一瞬だけ目を合わせて唇を噛みしめ、瑶子は再び傷口に集中した。
ハンカチが傷に触れる直前に――その手を静かに掴み上げてやる。
濡れた瞳が、微かに驚きを示した。
「ごめんな……」
気のせいか、次の瞬間からさらに涙があふれ出てくる。
それをもはや堪えようとはせず、ただ懸命に下唇を噛んでじっと見つめてくる瑶子。
怖い思いをしてまでも自分を案じ、罵りながら涙で瞳を潤ませているこのいとこが、この瞬間なぜか、たまらなく愛おしく思えた。
「……」
片手を掴んだまま顔を近付け、静かに口付け――――――そうになっていた自分にハッとする。
今……何を……?
そして。
止まっていた時間が急激に動き出し、はたと我に返る。
「……って――え、ご、ごごめん、俺っ! な……何」
瞬間的に、『しまった』と思っていた。
とにかく謝らなければ、と。
この時はまだ、その理由が何であるのかはっきりと自覚できてはいなかったのだけれど。
「い……いや。お、俺……今、無意識に」
「翔……」
「マジ、ごめん」
「……謝らないでよ」
さらに大粒の涙が流れ、そして――
ふわりと首に腕をまわされ、抱きつかれていた。
「好き……」
「――」
あらためて言われるまでもなく、どこかで感じてはいた。幼いころから。
でも。
『しまった』……と。
謝らなければ、と自分は思ってしまっていたのだ。




